4.どうして

 里美はようやく休日を迎えた。この数日は体力的にも精神的にもなかなかハードだった。里美は泣き腫らした目に氷を当てベッドに寝転ぶ。年甲斐もなく泣きまくってしまった。どうせ何も予定はないので問題はない。


 ピーンポン


 珍しくインターフォンが鳴る。面倒臭いがもし宅急便であれば休日に受け取らなければいけないと思いそっと覗き穴を覗く。


……なんで?


 静かに後退りすると口元を押さえる。ドアの向こうに憲司が立っていた。おかしい……月曜日の昼前だ。こんな曜日、時間帯にここへ来れるはずもない。頭の上に相当の疑問符が飛んでいると憲司がコンコンとドアをノックした。里美は息を呑み居留守を使う。


「いるんだろ。開けてくれ」


 なぜバレているのだろう。里美はそっとドアから離れようとするがもう一度ノックをする音が聞こえて諦めてドアを開ける。少しだけドアを開けて顔を覗かせると憲司がじっと里美を見つめていた。


「……居留守が分かってるんなら鍵使って入ればいいんじゃない?」


「そんなことしたら怒り狂うだろう」


 確かに……。泣き腫らした顔を見られて今だって最悪な気分だ。これをいきなり心の準備なく来られたらたまったもんじゃない。


 里美がこれ以上は許さないと言わんばかりに玄関先で腕を組み立っていると憲司がしびれを切らしたように靴を脱ぎ里美の横を通り過ぎていく。


「ちょ……ちょっと!」


 里美の制止を振り切るとテーブルの上に覚えのある袋を置く。今となっては最悪な思い出の袋だ。


「これ、気になってたパン屋のやつ。ちょうどいいから買ってきた」


「そう……」


 憲司が中身を取り出していくと、里美は苦々しく思う。あの日里美が買った物と全く同じ種類のパンがテーブルに並んだ。もう私たちの関係は終わったのに、五年という月日が何もなかった訳ではないと示しているようで里美はそっぽを向く。自分の好みが知られているのと、心があるのとは全く違う。


「コーヒーを、入れるわ」


 台所で湯を沸かす。憲司が後ろに立っているのが分かったがあえて気づかないふりをした。もう憲司の事を気にかけてないと思わせたかった。


「里美……ごめん」


 決して振り返らない。

 心を乱さない。


「とりあえず、座ってて」


 里美が冷たく言い放つと憲司は大人しくクッションに座る。コーヒーをテーブルに置くと小さな声で「ありがとう」と言った。


 急に部屋の温度が暑く感じてクーラーの設定温度を押すとまた沈黙が部屋を支配していく。里美は憲司と視線が合わないようにカップから昇る湯気だけを見つめていた。


「俺は、別れたくない。確かに、俺は仕事ばかりで……里美に甘えてた。それは認める。里美なら大丈夫だ、また別の日にって思った」


「……記念日の日、誰といたの? 駅で……見たわ」


 憲司が顔を上げてこちらに視線をよこした。驚いているようだ。そうだろう、私だって夢かと思った。夢であったのなら良かった。憲司の話を聞きたくはない、聞きたくはないけれど……聞かなきゃきちんと別れられない気がした。憲司の顔はまだ見れなかった。


「あの日仕事の先輩と残業する予定で……途中で記念日だってバレて今すぐ帰るように言われたんだ……嘘じゃない。一緒にいた人はたぶん手伝っていた事務員さんだよ」


「そう……そうなのね」


 不思議だ。どうしてだろう。憲司の言ういわゆる真実とやらを知っても頷くことしかできない。


 嘘つき、信じない、誤解してごめん、それでも別れましょう……数多くの思うことがあるはずなのにどこか他人事で、こんなにも近くにいるはずなのに、あんなにも一緒にいたくてたまらなかったはずなのに。手が届く位置にいるのにどうしてこんなにも気持ちが冷え切っているのだろう。本当に……私は恋をしていたのだろうか、愛を抱えていたのだろうか。


「里、美?」


 突然笑い出した私を心配して憲司が声をかける。


「ゴメン、私ね憲司の事を待ちすぎたみたい……今回のことがきっかけだけどこれからまた待ち続けるのは辛い……嫌なの」


「これからはそんなことしない! 本当に俺は──」


? こうやってすぐに変えられるような事なら、最初からそうすればいい。努力した? ここまでこじれてから急に出来ますだなんて酷すぎる……憲司は私のことなんて愛してない──お願いだから! 別れてっ!」


 肩を震わせて泣き出した私を憲司は抱きしめようとした。その胸や腕を叩いて抵抗するが最後は無理やり抱きとめられ胸の中に閉じ込められた。久しぶりに感じる憲司の香りが鼻に付く。顔もぐちゃぐちゃで、涙は憲司の衣服に全て吸収させていく。憲司は抱きしめながら「ごめん」「悪かった」を繰り返し呟いていた。

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