『峠を走る人④』


 俺は駐車場を飛び出して峠下の直線へと向かった。

 直線でUターンして中央に陣取り奴を待つ。暫くすると峠を降りて来る甲高いエキゾーストが聞こえて来た。

 コーナーからライトがこちらへ向かってくる。


 〝フォンフォン……ボッボッボッボッ……。〟目の前で黒い妖精がUターンを始める。


「よお! 勝負しようぜ! ただし、今日はいつもと違うからな」


 俺はそう言い放ちメットのバイザーを閉じた。

 黒いシンプソンヘルメットのバイザーの中で瞳がほほ笑む。


 ああ、もうわかっている。何もこいつはこっちを馬鹿にして笑っているのではない事を……。こいつは純粋に走りを楽しんでいるのだ。人と競って走るのが何より楽しいのだ。何のことは無い、俺と同じ類の人間だ……。


 俺は妖精のCBの真横に付けた。まるで早撃ちの決闘シーンの様な緊張感が漂う。


 合図も必要ない……。すでに互いに相手の呼吸は読めている。俺は迷わずNSRのスロットルを全開にした。リヤホイルがスピンしながらグリップする。


 一瞬だけ俺のアクセルが早かった。これはワザとだ。ワザと一瞬だけいつもより早くした。

 恐らく今の自分では頭を抑えられると、前に抜き返せない事はわかっている。だから、どうしても最初は前を取らなくてはいけなかった。スタートダッシュで僅かに前。加速でさらに僅かに前。丁度、車体一台分俺が前に出た。


 フルブレーキングから左のヘアピン。ハングオンで旋回し、フロントを持ち上げながら立ち上がり加速していく。

 差は全く開いていない。当然だ。この妖精はヘアピンカーブが抜群にうまい。ヘアピンでは車体のコントロールの差が如実に出るのだ。だから、ここで同じなら……。


 次の右コーナーR35が目前に迫る。

 ツーダウンしながらのブレーキング。フロントを沈み込ませたままバイクを寝かす。そして、ハングオン。加速しながらコーナーへと突っ込んだ。そして、そこからさらに加速。暴れるバイクを強引にねじ伏せながら立ち上がる。


「これで、どうだ!」


 一瞬遅れでバックミラーにライトが映る。――やった! ほんの僅かだが遂に引き離すことに成功した!

 俺はそのまま次の高速コーナーへと飛び込んだ。物凄い速度で景色が流れていく。


 左のヘアピン。右のスプーンカーブ。左のR45。左のR35。右の……。

 高速コーナーで突き放し、ヘアピンで詰められる。それの繰り返し……。

 だが、自然と笑みがこぼれる。心がワクワクと踊っている。背中にひりつくようなプレッシャーを受けながら俺は微笑んだ。


 高速で背後に流れる景色に狭まる視界。甲高く吠えあがるエキゾースト。路面から伝わる振動が俺の鼓動を早くする。

 今、俺は生きている! 右手で捻るスロットルにそれを感じる。左手で握るクラッチにそれを感じる。全力で車体を抑え込み、全霊の集中力でタイミングを計る。全身全霊をかけて走っている! 



 だが、勝負はあっという間に終わりを告げた……。

 山頂の駐車場が見えてきたのだ。俺はそのままバイクを駐車場へと突っ込んだ。


 沸き立つギャラリーを避けて奥へと進み駐車場の片隅へバイクを止めた。崩れ落ちる様にバイクから転がり落ちて、ヘルメットを脱ぎ捨てる。俺のヘルメットがアスファルトに転がって行く。


 ニーグリップのし過ぎで膝がガタガタだ。緊張のし過ぎで喉がカラカラだ。もう走れない……。

 俺はアスファルトに大の字に寝ころんで夜空を見上げた。空には星が瞬いていた。冷たい夜風が吹いている。遠くで騒ぐギャラリーの声が聞こえる。


 その時、〝ボッボッボッボッ〟低いサウンドを響かせながらバイクがこっちに近づいて来た。赤いCB750Fが俺の横で止まった。そのサイドカバーに妖精のイラストが描かれたシールが貼ってあるのが見えた。


「Good riding!(グッドライディング)」


 黒いシンプソンヘルメットの中からくぐもった声で発音の良い英語が聞こえた。俺はそのヘルメットを凝視した。暗いバイザーの中に水色の瞳が見えた。

 黒い妖精の正体は外国人だったのだ。だから、話しかけても答えてくれなかったのだ。


「ハハハハ」俺の瞳から涙がこぼれた。


 俺は黒い妖精の前を抑える事に成功した。一時は車体三台分引き離すことも出来た。しかし、勝つ事には左程意味は無かった……いや、たぶん俺は負けたのだ……。

 スリックタイヤを履いた時点で俺はもう負けていた。その事にいまさらになって気が付いた。いや、それ以前から負けていた……。いや、最初から勝てる道理などなかったのだ……。


 速く走る事に左程意味はない。ましてや性能の高いバイクであれば速く走れて当たり前の事なのだ。たとえ前を走っていたとしても満たされるのはちっぽけなプライドだけだ。そこには思い描いていた様な充足感はなかった……。


 こちらに向けて沸き立つギャラリー。やめてくれ……。

 俺は去って行くCB750Fの背中を静かに見送った。俺の心には虚しさだけが広がって行った。



 それから、俺はあまり峠に行かなくなった。そして、その日を境に黒い妖精も姿を現さなくなったと聞いた。理由は誰も知らなかった。奴が走るのを辞めたせいかもしれないし、他へ場所を移しただけかもしれない。ただ、次第に黒い妖精の話は誰もしなくなった。俺は追うべき目標の黒い背中を見失った……。


 その後しばらくして、その峠は一時期、夜間二輪車通行禁止となってしまった。噂では大きな事故が数件あった為だと聞いている。時を同じくして日本中の有名峠で二輪車通行止めが増えて行った。警察の取り締まりも強化され日本中の峠での検問も始まった。さらにはバイク業界の自主規制の強化に排ガス規制・騒音規制も始まった……。


 もう、バイクで峠を攻める時代は終わったのかもしれない……。


 そして数年後、俺はバイクを売った。

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