『胡蝶の宿⑨』


 え? 誰?


 俺は慌てて湯船の中で身を起こした。


 山門の扉をするりと抜ける様に二十代前半らしき和装の女性が入ってきた。

 下には紺の袴、上は花柄のピンクの着物を着用している。長い髪を後ろでまとめ大きな髪留めでとめている。色白の肌にややたれ目の切れ長な瞳。まだ幼さを残した優しい顔立ち。一体誰?


 女性は背中で押してドンと扉を閉めた。


 人が入って来るとは聞いていない。しかも、若い女性とは……。俺は慌てて彼女に声を掛けた。


「あ、すみません。すぐに出ます!」


 俺は前だけを右手で隠し、湯船の中で立ち上がった。


「いえ、そのまま」女性は右手を広げこちらに向けてそう言った。


 何か忘れものでも取りに来たのだろうか……。俺は再び湯船の中へ腰かけた。

 女性はそのまま脱衣場に近づいておもむろに袴を脱いだ。


 ――え?


 次にピンクの着物がはらりと床へ落ちた。手慣れた手つきでブラとショーツも脱ぎ捨てる。白い肌があらわになる。そして、最後に髪留めを外す。胸まである髪が風になびいた。


 彼女は風呂桶を持ってこちらに近づき湯を汲んだ。湯を二度ほどかけ湯してタオルを泡立て全身を洗い始める。

 きめ細やかな雪のような白い肌。湯を掛けた部分だけがほんのりピンクに染まっている。体つきはやや痩せてはいるがくびれはしっかりついている。足の先までしっかり洗い最後はお湯で泡を流した。若くハリのある体が水滴を弾いている。艶やかな肌を雫が滴り落ちる。

 それから、ゆっくりとした所作で右足から湯船に浸かる……。


「ところで、貴方様はどちら様です」女性はこちらを向き微笑みながらそう問うた。

「え……」


 あれ? 頭が回っていない。ここはどう答えるのが正解だろう……。

 女性は微笑みながら俺の回答を待っている……。


「あ、あの、俺は……輝陽館のバイトです!」

「そうですか、清掃の……「あの、失礼します!」」



 その後の事は良く覚えていない。気が付くと俺は山門の外で服を着て風呂桶とランタンを抱えて立っていた。西の空には沈みかけの月が出ている。


 一体、今のは何だったのだろう……。俺は呆然と月を眺めた。


 人……だったよな……間違いなく。狐とかの類ではない。そもそもここは混浴だったのか……。と言うか人が入って来るとは聞いて無い。それに……立て札はちゃんと表に立っている。悪いのは俺じゃない。よし。

 俺は立札を抱え元の様に山門の方へと戻した。それから急ぎ足で石段を下りかんぬきを上げて木戸を出た。桶から鍵を取り出し穴に突っ込み逆時計回り。そして、小走りで輝陽館へと帰って行った。


 輝陽館の玄関は閉じている。俺は調理場の方へと回り裏口の扉に手を掛けた。あ、最後にお参りするの忘れてた……。まあ、いいか。そのまま輝陽館の中へと入った。



 調理場を抜けて休憩室に向かうと、まだ卓袱台で眼鏡をかけた女将が帳簿を付けていた。


「あら、一条君お帰りなさい。瑞樹はもう寝ちゃったわよ」女将はそう声を掛けてきた。


 俺は女将の前に立ち深々と頭を下げた。


「あの、女将さん! 申し訳ありません! 俺、女性の裸、覗いちゃいました!」

「ん……? どういうこと?」女将は目を白黒させている。

「俺、温泉で……」

「ちょっと待って一条君。それってまさか源泉の湯の事」

「はい」

「はぁ~……瑞樹ちゃん……。あの馬鹿娘、ちゃんと話してなかったのね……だから、ついて行けって言ったのに……」

「え?」付いて行くとはどう言う事だろう。源泉の湯の清掃は一人でやる決まりでは無いのだろうか?

「いいわ、一条君。貴方は悪くないから問題ないわ。事情は明日ちゃんと説明させるから、今晩はもう寝なさい」

「はぁ……」

「それと、源泉の話は外では絶対誰にもしない事。いいわね、これは約束事なのよ」

「はい」


 それから俺は遊戯室に戻り布団を敷いた。電気を消して布団の上で横になる。窓の外にはあの山門の明かりがまだ見えている。

 一体どういう事なのだろう……。俺は悶々としながら思いを巡らし、そして、いつの間にか眠りに就いていた。




「ん?」

「お早う、御影君」


 目が覚めると枕元に瑞樹が正座で座っていた。窓の外はまだ薄暗い。時間的には五時くらいだろうか。


「先ずは謝罪をするね。ごめんなさい」そう言って瑞樹はいきなり床に手をついた。


 だが、横になって眠っている俺の方が位置的に下なので頭を下げられた実感はまるでない。ただ頭頂部が目の前に来ただけだ。


「何? もう仕事の時間?」

「いえ、まだ一時間くらいはあるのよ」頭を下げたまま瑞樹は腕時計を見て平然と答える。こいつの辞書には多分反省と言う文字は無い。


「それで、何?」俺は体を起こして布団の上に胡坐あぐらをかいた。

「いやー、本当にごめん。昨晩は色々事情を説明してなかったから驚かせてしまったようね。ごめんなさい」

「うん、それで」

「いやー、何から話そうかな……んー……」瑞樹は考え込むフリをした。


 俺はそれを見ながら小さく欠伸した。


「……ねえ、御影君はこの霧雨温泉の事をどう思う」

 え? いきなり、よく判らない質問が来た。「いや、どうと言われても。ちょっと鄙びた温泉街かな」

「そう、何か気付いた事は無い」

「うん、エッチな物が大変多い」


「そう……。この温泉町はね昭和初期まで〝遊郭〟だったのよ」

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