『胡蝶の宿⑦』


「あるのか、露天風呂! 何故それを先に言わない!」俺はその話に齧り付いた。

「えーと、まあウチのお風呂じゃないからね。今、話したでしょ源泉の話。ここの源泉が露天風呂になってるのよ」

「なんだ、そう言う事か……。だったら入れないじゃないか」

「ところが、一番分け湯のこの輝陽館はそこの管理を任されてるの。だから本来は祭事の時と特別な許可が無いと入れない温泉に入っても良いという訳なのよ。ただし掃除の名目でね」

「それは掃除をしたら入って良いと言う事か」

「まあ、そう言う事。ほら、あそこ、見えるでしょ」そう言いながら瑞樹は窓の外を指さした。


 その方向は神社の上にある山門だった……。


「掃除をすれば入って良いんだよな。だったらするぞ」俺は一も二も無くそう答えた。

「んー、わかった、わかった。でも、あそこは一応この神社の神域だから、手順がめんどくさいよ。だから、誰もやりたがらないのよ」

「難しいのか」

「んー、難しくは無いかな。色々約束事が多いんだよ。だから、紙に書いて後で渡すよ」

「うん、よろしく」


 俺は壁に寄りかかり窓の外を見上げた。源泉の露天風呂……どんな風なんだろう。楽しみだ。



 時刻は五時を過ぎ夕食の準備を手伝いに調理場へと向かった。調理場では既に厳吾さんが料理を仕上げ和子さんが盛り付けをしていた。二人がてきぱきと働いているため調理場には仕事が無い様だ。なので、大広間へ行って瑞樹と配膳の準備をした。

 お膳を出して座布団を用意する。今日は四組十人だ。お膳に箸と茶碗を置いておく。料理を運ぶのは御客が入ってからである。四人で軽く賄いを食べて小腹を満たした。そしてまったりと御客が来るのを待った。


 時刻が六時半を過ぎ宿泊客がやって来た。正直言えば瑞樹が配膳も接客もするのでほとんど何もすることは無い。俺はおひつと急須だけを運んだ。全員のお客が来て食事を終える頃には時刻は七時半になっていた。食事の終わった食器を下げてお皿を洗う。と言っても残りを捨てて業務用の食器洗浄機に並べるだけである。後はボタンを押せば勝手に自動で洗ってくれる。

 それから皆でそろって夕食となった。今日のメインはマグロステーキ。ニンニクの香り漂うバター醤油味だった。厳吾さん大変美味しく頂きました。


 それから簡単に片づけをして俺と瑞樹と女将は休憩室へと移動した。ここのフロントの消灯時間は十時である。その時間までここで待機するそうだ。三人でお茶を淹れ飲んでいると、作業を終えた中島夫婦が挨拶に来て車で家に帰って行った。


「さて、御影君どうするかね」もったい付けて瑞樹が言い放つ。

「何が」

「源泉のお掃除」

「勿論やる」

「そう、なら、はい、これ」


 そう言って瑞樹は手書きのプリントを手渡した。そこには……。


 〇大声をださない。

 〇時刻は一刻(二時間)でランタンの炎が尽きるまで。

 〇最初に拝殿にお参りすること。『祓え給い、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え』と声を出して唱える。

 〇柵の扉は鍵で開け中に入ったらすぐに錠をかける。

 〇鍵の使用後は輝陽館の休憩室にある神棚に必ず戻す。

 〇山門の前に掃除中の札を立てる。

 〇山門に入ったらすぐに扉は閉める。

 〇山門に入る時には『ごめんなさい、戎者えびすものにございます』と必ず声を掛ける。

 〇掃除用具は山門の裏にある。

 〇掃除は山門の裏で服を脱ぎ全裸で行う。

 〇浴場の床をブラシで磨く。洗剤は使わない。ブラシで擦り桶で湯を汲み流す。

 〇入浴はムクロジ石鹸とツバキ油で体をよく洗ってから入る。

 〇湯船は掃除しない。お湯に浮かんだゴミと落ち葉だけ集めて持ち帰る。

 〇出るときは道具をすべて元に戻す。

 〇柵の扉は必ず錠をかけて置く。

 〇最後に拝殿で一礼して出て行く。

 〇山門の中で見た物聞いた事は私以外には決して話さない。


 と書いてあった……。


「何か聞きたいことはある」

「いや、いっぱいあるが……」確かにこれは面倒臭い……。「なあ、これは俺一人でやるのか」

「ええ、そうよ。清掃で中に入れるのは一人だけ。そう言う決まりだから仕方ないの。だから、説明するわね。先ずこれがランタンね。昔は一刻蝋燭と言う短い蝋燭で時間を計ってたんだけど、今はもう手に入らないからランタンを使ってるんだよ」

「ふーん、なるほど」

「お参りは良いとして、次は鍵ね。はい、これ」


 そう言って手渡されたのは鍵とは言えない、釘抜に似た紐の付いたL字の金具だった。


「これが鍵?」

「正確にはかんぬき外しね。本殿の裏手の柵にある門の穴へこれを突っ込んでクルリと回す。そうすると閂が外れるわ。中に入ってすぐに閂を戻して置く。出るときは逆の手順ね。使用後はそこの神棚の下に掛けて置いて」

「うん、わかった」

「そして石段を上がったら立て札が置いてあるから、それを下から見えるところに出して置く。そして、必ず挨拶して門に入る。ちょっと声に出して言ってみて」

「ごめんなさい、えびすものにございます」

「そう、それは決まり事だから必ず言う様に」

「うん、わかった」

「掃除道具は山門の裏に掛けてあるから、そこで服を脱いで掃除して頂戴」

「ちょっと待った! 何故、全裸」

「本当はね行衣ぎょうえを着て作業するんだけど、持ってないでしょ。行衣。私のではサイズが合わないし、どうせすぐお風呂に入るのだから全裸でやりなさい」

「わかった」本当は納得してないが、これも露天風呂に入る為だ……。


「清掃は床をブラシで擦るだけ。洗剤は使わない。次に身体を洗って湯船のごみを網で掬って持ち帰る。これが石鹸とツバキ油とゴミ袋ね」


 そう言って瑞樹は透明のボトルと金色のボトルと赤いネットの袋を手渡した。


「後は読めばわかるわね。それと風呂桶とタオルと……」

「ちょっと待て、最後の一文は何だよ」

「どれ?」

「〝山門の中で見た物聞いた事は私以外には決して話さない〟だよ」この一文は何か不穏な空気を感じる。

「ああそれね、本来は私が清め役なのよ。御影君はその代役だから中に入った事を人に言ってはいけないの」

「いいのか、それで……」

「いいのよ。病気や仕事でいけない時は代役に代わってもらって良いことになってるから」

「ふーん、わかった」

「では、いってらっしゃい」

「行ってきます」


 何故かその話を横に座る女将はお茶を飲みながら微笑ましそうに聞いていた。

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