東洲斎日和(その2)

長屋の入り口の煙草屋が大家だった。

「悦ちゃん。どうだった」

大家がたずねると、少女は黙ってうなずいた。

「目明しさん?」

大家が、浮多郎に疑り深そうな目を向けた。

「今戸橋で見つかった死体の男の娘さんで?」

浮多郎が、逆にたずねると、

「朝いちに、今戸橋で心中の死体が揚がった噂が。要蔵さんが昨夜もどらんかった。まさかとは思ったが、悦にひとっ走りさせて・・・」

大家は、肩を落とした。

要蔵の部屋は、大家の煙草屋のひとつおいた隣だった。

悦が草履を脱ぎ捨てて駆け上がった六畳一間にふとんが敷かれ、紙のように白い顔の女が横になっていた。

「お父が死んだ」

悦は母親の枕元に座り、膝の上の小さな拳を震わせ、涙を流した。

もはや起き上がる力もないのか、母親は黙って娘の頬を撫でた。

「夫は、心中などをしでかしたのでしょうか?」

母親は、哀しそうな顔を向け、浮多郎を見た。

「いや。奉行所の見立ては知りません。が、心中ではありません。殺されたのです」

浮多郎が、きっぱりというと、母親はかすかにうなずいた。

「こんな情けないからだで、・・・親分さんにおもてなしもできず、申し訳ありません」

母親は、心底すまなそうなか細い声でいった。

「目明しのおじちゃん。お父を殺したやつを見つけておくれ!」

悦が、浮多郎にむしゃぶりつくようにして叫んだ。

「これ。目明しの旦那に、なんということを」

母親が止めると、「そうだ、絵描きの先生にお願いしよう」と、悦はぱっと立ち上った。

「先生のお邪魔をするんじゃないよ」

力を振り絞って半身を起こした母親がいさめたが、悦は鉄砲玉のように飛び出していった。

浮多郎が表に出ると、井戸の先の厠が二つ並んだ横の部屋に、悦の小さな背が吸い込まれていくのが見えた。

・・・懐かしいひとに再会できる喜びに、浮多郎の胸は躍った。

先に上がり込んだ悦は、畳に置いた髑髏を丹念に画帖に写し取る東洲斎の筆の動きを、黙って見つめていた。

髑髏を描く東洲斎のすさまじい気迫に子供ながら圧倒された悦は、声を掛けることができないでいた。

やがて、東洲斎が画帖に描き起こしたのは、髑髏ではなくうら若い美女の顔だった。

「ど、髑髏が女に化けた!」

悦は、驚きの声をあげた。

「慶養寺の和尚に野ざらしを借りたら、このようなものがおのずと浮かび上がった。『元のすがたにもどして供養して』との髑髏の願いが、耳に聞こえてきたのだ」

東洲斎は、画帳に目を落としたまま、浮多郎に語りかけた。

「この子の父親が殺されたんで」

浮多郎がいうと、

「なに。要蔵どのが・・・」

東洲斎は向き直り、悦の肩に手をかけた。

「心中じゃなくて、殺されたって」

悦にはまだ心中の意味は分からないだろうが、

「先生、仇をとっておくれ」

と真顔で頼んだ。

「おお。とってやろうとも。必ずな」

東洲斎は、すぐにでも敵討ちにいくかのように、刀を腰にたばさむと、画帖と矢立を懐にして立ち上がった。

―並んで渡る今戸橋から、筑波の嶺が正面にくっきりと見えた。

朝靄が晴れた大川の川面のさざ波が、朝の光と戯れていた。

慶養寺の境内に横たえられた要蔵の亡骸に屈んだ東洲斎は、いきなり両目を指でこじ開け、その瞳に見入った。

懐から画帖を取り出すと、矢立ですらすらと若い侍の顔を描いた。

『殺されるとき、殺人者への怨念がその目に焼き付くのだ』と、東洲斎が以前いったことばを、浮多郎は今になって思い出した。

次に、女の亡骸の目を開けて、やはり若い侍の顔を描き出した。

・・・ふたりの侍の顔は、ちがっていた。

「それぞれちがう侍が、ふたりを殺したということで」

東洲斎は、要蔵と女の喉の傷を見比べた。

「要蔵の傷の幅と深さは長刀の切っ先のようだが、女のは尖った小柄かもしれない」

それを聞いた浮多郎が、

「別々の場所で殺して裸に剥いたあと、山谷堀に運んで抱き合わせてぐるぐる巻きにして放り込んだ。抱き合い心中を装ったにしては、ずいぶんと荒っぽい手口です」

と見立てをいったが、東洲斎は脳裏に何事かを思い描いているのか、まるで上の空だった。

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