第7話


 この町に初めて来た当時の僕は、まだ本当に小さな子供で、どんな動物にも物怖じしなかった。祖父が目を離した隙に、僕は車から抜け出して町を徘徊した。人間の子供なんてのは、食べるには適当な大きさで肉も柔らかくて、動物にとってはご馳走が自らの足で食べられに来たようなものだ。そんなこととはつゆ知らず、僕は初めて見る珍しい建物に興奮していた。

 最初に建物から顔をのぞかせたのは、キツネだった。狡猾そうな細い顔で僕を見て、舌なめずりをした。だが、そのキツネはすぐに何かの気配を感じ取った様で、自分の巣に戻っていった。

 次に姿を現したのが、ライオンだった。低く唸り声を上げながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。僕はその動物が大きくて格好良いと思って目を輝かせて見上げていた。自分が食料としてみられていることにも気付かずに。

 ゆっくりと近付いてきたライオンは、僕の少し手前で立ち止まり、口を大きく開けて唸った。まるで「いただきます」とでも言うみたいに。そして、顔中を大きなざらついた舌で、べろりとなめると、嬉しそうに鳴き声を上げた。

 ツンとした、動物特有の臭いが漂ってくる。先程までの車の揺れで、車酔いしていた僕は、その強烈な臭いに吐き気を催した。その気持ちが何かわかる前に、胃袋の中身をすべてその場に吐き出した。気持ち悪さと、初めての嘔吐にパニックになった。

 その様子に、先程まで余裕を見せていたライオンが距離を置いた。もしかしたら、ライオンの嫌いな臭いのするものを食べたのかも知れない。ライオンは眉間に皺を寄せたまま、一定の距離を置いて僕を睨み付ける。

 視界の端に、黒い物が見えた。ライオンがそちらを見て、より高い声で唸り声を上げた。ライオンの視線の先を見たとき、いくら子供の僕でもそれが恐ろしい生き物だということはわかった。

 まるでビルみたいな巨躯、鋭い爪、肉厚な体表には黒い毛が生えており、獣臭さはライオンとは比べものにならない。図鑑のどこにも、その生き物は載っていなかった。近い生き物を挙げるならば、熊だろうか。いや、ゴリラだろうか。首から下を見れば確かに熊のようであるが、頭部はゴリラのように深く落ちくぼんだ目に大きな鼻を持っている。しかし、口元は犬のように出っ張っていて牙が見える。そこから絶えず滴り落ちる唾液。眼光はまっすぐに僕を捉え、絶対に逃がさないつもりであることがわかる。

 その生き物が近付いてくるに従い、ライオンに唸り声は小さくなっていった。それが目の前に立った時には、恨めしそうに自分の巣へ帰っていった。

 熊ゴリラは僕の目の前に立つと、嘗め回すように僕の体を眺めた。まるで、食事を味わう前に目で味わうとでも言いたげである。きっと美食家に違いない。

「子供から離れろ!」

 背後から祖父の声が聞こえた。熊ゴリラは当然人間ごときに怯えるはずも無く、一瞥しただけで、すぐに僕に視線を戻した。口元から落ちた唾液が、僕の顔に降ってくる。生臭くて、再び吐いた。失神しそうだった。今度の敵は怯むことはなかった。

 耳元で爆発音が聞こえたーーと思った。実際は少し離れたところから祖父がライフルを発砲した音だった。

 熊ゴリラが悲鳴を上げた。唾液とともに血液が降ってくる。祖父の撃った銃弾は、熊ゴリラの目玉を潰した。しかし、その弾は脳髄を破壊すること無く、目玉とともに体外に排出された。

 何か衝撃を感じた、と思った次の瞬間体が浮いていた。

 何が起こった?

 数秒遅れて痛み。

 体が建物に叩き付けられる。どうやら、熊ゴリラが振り回した腕に当たったらしい。

 鼓膜が破れそうな咆哮。体中が総毛立つのを感じた。生き物が持ちうる恐怖という感情、生存本能に働きかける危険信号。動物たちが巣の奥へ引っ込む。

 熊ゴリラは止まらない。腕を振り回しながら、祖父の方へ進んで行く。腕が触れただけで標識の支柱がひしゃげた。

 祖父は何度か発砲したが、その弾が熊ゴリラの皮膚さえも貫通することは出来なかった。

「おじいちゃん」

 声が出なかった。恐怖と痛みで体が動かない。声さえ出ない。呼吸の仕方さえ忘れてしまったみたいに苦しい。

「誰か助けて」

 必死に叫んでみたけれど、助けてくれる者などどこにもいない。

 そのとき。

 熊ゴリラとは違う、まるで空間を切り裂くような咆哮がこだました。

 その声に、熊ゴリラは動きを止めた。荒ぶっていた彼の感情は、確かに切り替わった。しかしそれは、どうやらより彼の心に火を付けたようだった。

 首が二つある狼が、ものすごい速度で走ってきた。そのまま勢いを緩めずに、熊ゴリラに襲いかかる。しかし、熊ゴリラはそれを薙いだ。

 狼は空中でくるりと体を翻して着地した。初めてちゃんと見たその姿は、まるで神の遣いのように見えた。絵本に出てくるような気品のある狼だった。

 僕は狼を応援した。しかし、体躯の差があまりにも大きかった。戦車のように大きい熊ゴリラに対して、狼は特別体が大きいわけでも無かった。だが、この狼が負けるとは思わなかった。

 お互いに唸り声を上げる。それは共鳴して、僕の三半規管を冒した。耳を塞いで、目を閉じている間に、勝負は決まっていた。

 狼の好戦的な声に目を開けるのと、熊ゴリラのパンチを片方の首が口で受け止めたのと、もう一方の首が熊ゴリラの首元に噛みついたのが同時だった。

 熊ゴリラが大暴れするのに耐えきれず、狼は離れた。

 熊ゴリラの咆哮。

 再び立ち上がったとき、彼の首許は血でヌラヌラと濡れていた。噴き出した血が、彼の体を染めて行く。

 熊ゴリラはもう、戦意は無かった。緩慢な動きで、自分の巣へと戻っていった。そのあと、彼がどうなったかは確かめなかった。

 彼の姿が巣の奥へ消えたのを確認すると、僕は狼を見た。熊ゴリラがいなくなったからと言って、僕の立場が良くなったわけでは無い。依然として、僕が捕食対象であることに変わりは無いのだ。

 ソッと狼を見た。狼は僕をまっすぐに見据えていた。その透き通った瞳は、まるでビードロの玉が嵌まっているようにも見えて、美しかった。

 狼に対しての恐怖感は、不思議と無かった。

 ゆっくり手を延ばす。

 狼は少し驚いたようだったが、それでも逃げずにそこにいた。頭を撫でてみると、毛は硬かった。グレーの堅い毛並みに、白いふわふわした箇所があって、不思議な感触だった。

 撫でていると、狼は僕の顔を舐めた。獣臭さは気にならなかった。どうしてこんなに舐められているのかと思ったら、気付かない間に涙を流していたらしい。二本の首で、両目分の涙を舐めていた。

「ありがとう」

 狼を抱きしめた。首が二本あったから抱きしめづらかったけれど、暖かかった。

 そのとき、狼にケルベロスと名付けた。祖父が来て、ケルベロスも撃とうとしたけれど、僕が止めた。

 以降、町に来るとケルベロスの姿を探した。彼はいつも町にいるわけでは無く、巣もここにあるわけでは無いようだった。さらに、群れのリーダ的存在であるため、あまり僕と遊んでいるわけには行かなかったのだろう。いつからか、僕の前に姿を現さなくなった。それでも、夜中彼らの遠吠えが聞こえると、僕は嬉しくなる。

 

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