第四章 パンドラの箱には…
1.俺にも春が来た
「鈴木さん、仕事終わりですか? お疲れ様です」
紺野明美が俺に声をかけてきた。そのあとすぐにスマホが振動する。
『私もすぐ終わるので、いつものカフェで待っててくれますか?』
了解、と打って固すぎるかと思い直し、OKのスタンプを送り返した。
「お疲れさまでした」
事務所に声をかけて会社を出た。べったりと張り付く暑さに辟易しながら、カフェまでの道をだらだらと歩いた。
あの日の会話を聞いていた女性社員が何人かいたらしく、そのうちの一人に声をかけられて、何度かそのくらいの値段の店でデートをした。肩より長い髪をふんわりと巻いて、猫のようにキョロキョロ動く目が印象的な女性だった。
それが紺野明美だ。
「鈴木さんって、面白いですね。素敵なお店たくさん知ってるし、物知りだし。私を彼女にしてくれますか?」
何回目かのデートの時に言われた。俺としては、FORKの女たちに使える店を開拓してくれる会社の人間、くらいの位置づけだったためにものすごく驚いた。
「言わせてしまってごめん。俺で良ければ」
そう答えると、はにかんだ笑顔を見せた紺野はとても可愛かった。
「アイスコーヒーひとつ」
それから度々、仕事終わりにこうして会う約束を取り付け、食事に行ったり、その先を楽しんだりしている。
デートは全額俺持ちなので、少し痛い出費だが、彼女ができたことに対する喜びの方が大きかった。FORKでチヤホヤしてくれる女は多いが、それが現実でも叶うなんて。
「ここ、この前友達と行ったんだけど、新作のデザートすごく美味しかったよ」
「へぇ、美味しそうに撮れてるね」
「うん、今度一緒に行こうよ」
隣の席ではカップルが会話をしている。カフェにいるのに別のカフェの話題で盛り上がっているようだ。
時間を潰すのには丁度いいが、若干の手持ち無沙汰感は否めない。
読書なんてしないし、FORKを始めてからスマホゲームもめっきりやらなくなった俺には、涼んでいるこの時間が暇だった。
聞こえてくる会話も、落ち着いた店内に後押しされてか気になるものがなかった。
紺野は準備が遅い。
女だからなのか、仕事が終わってからもなかなか現れない。バッチリメイク、という訳ではないが、会社で見るより少しだけ派手な印象になってやってくるのだ。会社でまじまじと見たことがないから、なんとなくのイメージではあるが。
「ごめん、遅くなっちゃった」
たいして慌てた様子もなく、紺野が現れた。
「大丈夫。ゆっくりしてたところ」
半分くらいになっていたアイスコーヒーを再度飲みながら答える。
「この前ね、駅前に新しくオープンしたフレンチのお店が美味しかったって川相さんから聞いたの。今日はそこに行ってみたいんだけど」
食事の場所や、その先のことはいつも紺野が決める。俺には特に意見がないから、こうしてあれこれ決めてくれるのはとても助かった。
「ああ、俺も川相さんから聞いた。じゃ、そこにしよう」
「そう言ってくれると思って、もう予約しちゃった」
いたずらっぽく笑って舌を出す紺野は可愛い。細かい気配りができる、できた女だなと感心する。
連れだってカフェを出ると、暑さはまだ空気に張り付いていた。だが、腕に絡みついてくる涼し気な紺野を引き離す理由にはならなかった。
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