【33】 モルドヴァ地方 プトナ修道院 郊外

 夕食はペンションの主人がモルドヴァの家庭料理をふるまってくれた。宿泊客は亜希たちを入れて2組、1階にある小さなダイニングで食卓を囲んだ。チキンが入った野菜スープのザアマ、ラプシャは玉ねぎに麺を絡めた料理で見た目はパスタのようだった。水餃子に似たペルメニはヨーグルトをかけて食べる。主人の自慢の家庭菜園で採れた野菜をふんだんに使っており味が濃く、色合いも鮮やかで美味しかった。デザートにはオレシキという丸いカステラ状のお菓子。クリームをつけて食べるとちょっと甘すぎたが、手作り菓子の優しい味だった。主人は人をもてなすのが好きなようで、ペンションを始めたのもそういった理由だった。プトナ修道院の季節の祭りのときには満室になり、忙しいと言っていた。今は閑散期らしい。シュテファンとは地元の話で盛り上がっていた。


食後にコーヒーを飲みながら、亜希は龍の紋章の本を開いた。

「プトナ修道院にもう一度行けば何かわかるのかな」

 日中にはヒントにつながりそうなものを見つけることはできなかった。

「片目のレンズが導いてくれるのかも」

 シュテファンの言葉に、エリックは腕組みをしたまま考えている。

「そもそも場所が違うような気がするんですよ」

「ねえ、この絵を見て」

 亜希が龍の紋章の本の修道院のページを開いて2人に見せる。修道院は木々に囲まれており、城壁はない。

「城壁はなくて、まるで森の中にあるみたいよね」

 しかし、城壁はこの絵が描かれた後から建てられたものかもしれない。エリックとシュテファンはその絵をじっと眺めている。不意にシュテファンが立ち上がった。


「あ、思い出した!」

 亜希とエリックはシュテファンの顔を見上げた。

「私のひいじいちゃんに聞いた話です。シュテファン大公の墓は昔は別の場所にあったんだって」

 シュテファンの目は輝いている。

「子供の頃に聞いて、そのときは興味がなくてすっかり忘れていました」

「よく思い出したね」「えらい」

 亜希とエリックに褒められて、シュテファンは照れ笑いをしながら頭をかいている。

「で、どこにあるの?」

「それは…」

 シュテファンは着席して言った。

「知らない…」


「プトナではない修道院の可能性があることは分かったよね」

「どうやって探せばいいかな?森の中といっても、今は町になっているかもしれないしそうなるとヒントもないね」

 亜希も頭を悩ませる。ペンションの主人がテーブルに温かいコーヒーのお代わりを持ってきた。本を覗き込んで指をさしている。

「彼がこの修道院を知っているようだ」

 エリックが主人に詳しい場所を訪ねている。プトナ修道院から3キロほど離れた森の中に打ち捨てられた修道院の廃墟があるらしい。17世紀ごろまでそちらにシュテファン大公とその家族の棺が納められていたが、開けた場所に新しい修道院を建てることになり、そちらは使われなくなったという。

 エリックは主人に頭を下げた。気が付けばコーヒーのお代わりが並々と注がれている。

「すごい、なんて偶然」

「運命を感じるね」

 亜希とシュテファンは顔を見合わせて笑った。


「今から出かけましょう。今夜も月が出ています」

3人はコーヒーを飲み干し、ペンションを出た。空を見上げるとまるで紺青の絨毯に宝石を散りばめたように星が瞬いている。薄い雲がかかる月はほぼ完全な円を描いていた。

「この辺りは人口の明かりがないから本当に星が綺麗」

 亜希は思わず感嘆の声を上げた。この周辺は高いビルもなく牧草地が広り、遠くまばらに民家の明かりが灯るだけの自然に近い状態だった。草原を吹き抜ける夜風が頬を撫でる。清らかな空気と懐かしい草の香りに亜希は思わず息を吸い込んだ。

 エリックの運転で、ペンションの主人が教えてくれた場所を目指す。廃墟の修道院で道しるべはないという。夜の森に入るのは怖いが、これだけ月明りがあればずいぶんとましかもしれない。


ペンションからプトナ修道院の方角へ戻る途中の空き地へ車を停めた。牧草地の柵を乗り越えて森へと向かう。

「本当に目印なんてないのね」

 夜露に濡れた草が靴を湿らせる。

「赤い屋根のジョルジュじいさんの家から300メートルほど行った場所という説明でした」

 エリックの言葉に、本当に宝探しみたい、と亜希は肩をすくめた。目の前には針葉樹の森が立ちはだかっている。夜見れば高い木々が林立する様子はやはり不気味だ。木の幹の間を縫って森へと入っていく。エリックのライトで足元を照らす。月の光は木の枝に遮られて届かない。

「わっ」

 シュテファンが声を上げた。木の根に躓いてこけそうになったようだ。

「シュテファン、大丈夫?」

「うん、アキも気をつけて」

 遠くで山犬の遠吠えが聞こえてくる。亜希は肩をすくめた。

「こちらからちょっかいを出さなければ人を襲うことはないでしょう、おそらく」


 森が少し平坦になり、歩きやすくなった。太い幹の間に白い壁が見えた。

「あ、あれじゃない?」

「そうだよきっと」

 森が開かれた場所に古びた修道院が立っていた。尖塔の先端についた十字架は折れ曲がり、屋根は一部剥落している。埃と泥でところどころ黒ずんだ白い壁は、フレスコ画の形跡はほとんど消えていた。これまでに訪問した修道院の痛みが激しいといわれる北壁よりもひどい状態だった。森の中に石碑が乱立している。よく見れば十字架の残骸も見えた。打ち捨てられた墓地のようだった。


「わ…これは一人で来たら泣くかも」

 亜希はまるで幽霊でも出そうなその情景に身震いした。建物の周囲を一周してみたが、壁画はまったくといっていいほど残っていなかった。

「修道院の中に何かあるかな?」

 シュテファンが入口を覗き込んだ。暗闇に点々と光るものがあった。ヒッと叫んで尻もちをついたシュテファンの頭上を、修道院の闇から飛び出してきた無数の蝙蝠がかすめて上空へ舞い上がっていった。

「ひどい、とんだお化け屋敷だよ」

 シュテファンは落ち葉を払いながら立ち上がる。扉は打ち付けられ、中に入ることはできないようだった。もう一度エリックがライトを当ててみるが、祭壇もイコノスタシスも何もかも取り払われてただの石室となっていた。


 エリックは修道院の壁の前で片目のレンズを取り出した。月の光に向けて掲げる。

「何かわかるかな…」

 亜希とシュテファンは固唾を飲んで見守る。月の光がレンズに集まってきた。それが拡散され、周囲を青白く照らす。3人は思わず同時に声を上げた。目の前の壁に絵が浮かび上がってきた。

「すごい…」

「月の光で隠された絵が…」

 はじめは壁の滲みのような朧気だった色がだんだんと鮮やかな原色に変化していく。そしてそれは明瞭な形を成してきた。

「赤い龍…そしてドラキュラ公」

 亜希はその絵に心を奪われた。それはここにいるエリックとシュテファンも同じだった。3人はその場に立ち尽くす。黒い龍の紋章の鎧と赤いマントをつけた黒髪の精悍な男が天に向かって剣を突き上げている。その頭上には男から立ち上るように深紅の龍が天に向けて翼を広げ、咆哮している。大地は赤く染まり、多数のトルコ兵が彼にひれ伏している。頭上には厚い雲が渦巻いているが、龍の目指す先に輝く月が描かれていた。息をするのも忘れて3人は絵に見入っていた。


「天の光の中って」

 暗黒の空に鈍雲が渦巻いている陰鬱な色彩の中に一点の明るい光がある。それが天上の満月だった。

「壁のあの部分、調べられないかな?」

 シュテファンが指さす。月の描かれている位置は高さ2メートル以上はある。

「肩車、いってみますか」

 エリックが真顔で言う。シュテファンもそれに同意した。近くにあった石を積んで平らな足場を作った。これで30センチは上乗せできた。

「気をつけてね」

 亜希は心配しながら見守っている。シュテファンがバランスを崩したら支える覚悟だ。シュテファンはエリックの持っていたナイフを口にくわえ、彼に肩車で持ち上げてもらった。

「もうちょっと右かな」

 シュテファンの声にエリックがじりじりと移動する。シュテファンの目の前に壁画の月の部分がきた。壁を叩いてみるが、手で崩せそうにはない。

「削ってみるよ」

 シュテファンは壁にナイフを突き立ててみた。すると驚くほどさっくりと刃先が入っていく。ぼろぼろと壁が崩れて15センチ四方の穴ができ、奥の浅い空洞が見えた。手を伸ばせば布に触れる。取り出してみれば、これまでと同じ黒いサテンの巾着だった。シュテファンは歓声を上げた。

「シュテファン、興奮するのは分かるけどじっとして!君を下ろすよ」

「あっ、ごめんごめん!」

 エリックはゆっくりと膝を曲げてシュテファンを地上に下ろした。

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