【30】 モルドヴァ地方 ブコヴィナ修道院

 ホテルのレストランに併設のオープンテラスで朝食を取る。テラスは天井に蔦を這わせて日陰を作ってあり、まるで森の中にいるようで心地よい。朝の涼しい風がテラスを吹き抜ける。こちらはルーマニアでも北部にあたるので、ブカレストよりも気温がやや低く感じた。ビュッフェスタイルのため、亜希は皿に野菜にベーコン、パンをしこたま乗せてきた。ヨーグルトにコーンフレークも忘れない。


「アキはよく食べるね」

 シュテファンの何気ない言葉に亜希は自分の皿を見て顔を赤らめた。

「恥ずかしいことじゃないよ、食欲があるのは元気な証拠だよ」

「食べておかないと今日はハードな一日だしね」

 言い訳をしながら新鮮な野菜が美味しかったのでおかわりをしようと思っていた。エリックはすでに食べ終わり、コーヒーを飲んでいる。


「昨夜、白髪のおじいさんの夢を見たわ」

 亜希にシュテファンとエリックが注目する。

「髭を生やして、とても偉い人のようだった。そしてドラキュラ公の死を悲しんでいた」

 シュテファンが息を呑んだ。

「それは、きっとシュテファン大公だよ」

 エリックの言葉にシュテファンも頷く。

「憂いの王かあ・・・親友のような2人が違いを信頼できなくなってしまったのは残酷な時代のせいね」

 亜希は夢に出てきた老いた王の涙を思い出す。

「そう、シュテファン大公はトルコとの宥和政策を取らざるを得なかった。それによりモルドヴァに春の時代をもたらすことができたのです。彼は偉大な英雄ですよ」

 エリックの言葉にシュテファンも頷いている。互いの国の立場があることはわかりきっている。亜希はドラキュラ公はシュテファン大公を恨んではいない、そんな気がしていた。


「今日はいよいよ5つの修道院巡りですね」

 朝食が済んで広くなったテーブルにエリックが地図を広げる。地図には文化遺産を示すマークがついており、それぞれの修道院の名前が見て取れた。

「このモルドヴァ地方ではシュテファン大公がトルコとの戦いに勝利するたびに修道院が建てられたそうだよ。その数40以上と言われています。彼は信仰にも非情に熱心でした」

「まさに英雄ね」

 シュテファンは亜希の言葉を誇りに思っている様子で、嬉しそうに微笑んでいる。

「5つの修道院はヴォロネツ、モルドヴィツァ、フモール、アルボレ、スチェヴィツァ」

 エリックが地図上で場所を示している。このスチャバの街から100キロ圏内に位置しており、一日がかりで見学することになる。今回はシュテファン大公の墓のあるプトナ修道院を入れて6カ所、エリックがまわりやすいルートを考えてくれた。


 ホテルのロビーでレンタカーを手配してくれるエリックを待つ。古いソファでクッションがよれよれなのか、やたらと身体が沈み込んでしまう。

「アキはこの修道院巡りを一番楽しみにしていたんだよね」

「そう、楽しみ!でもこれまでの場所も歴史を感じられてとても興味深かったわ」

「私の実家はプトナの近くにあるんですよ」

「そう、じゃあ立ち寄らないとね」

 シュテファンは大学生で、首都ブカレストでアパートに下宿しているらしい。

「時間があればね、今日は一日仕事だよ」


 エリックがロビーにやってきた。レンタカーはルーマニアの国産車で色は赤。ロゴはDACIAと書いてある。ダキアはルーマニアの古い地名なんですよとエリックが教えてくれた。ホテルから最初に向かうのはヴォロネツ修道院。約50キロの距離にある。ホテルを出て、山間部へ入ると周囲は一気に霧に包まれた。

「わあ、すごい!幻想的な風景」

 深い霧の向こうに山の斜面の牧草地や古い作りの家が見える。羊が草を食む様子が霧の合間から見えた。朝方だけ霧がよく出るのだそうだ。

「今日は晴れますよ」

 エリックも慎重に運転している。途中、牛の行列を避けていく。道ばたに飼い葉をつんだ馬車が停まっており、まるで中世にでもタイムトリップしたような錯覚に見舞われた。


 霧が晴れてくると、一気に青空が広がった。

「この周辺の家の門は面白いね」

 道路沿いには木で作られた豪華な門が並ぶ。木には彫刻が施してあり、それぞれに特徴がある。

「こうした門はお金持ちの家ですね。門が豪華なほど裕福です」

 なるほど、見ていれば普通は一枚扉だが、二枚扉の門もある。そしてすべての家にこうした門があるわけでないようだった。農村風景はトランシルヴァニア地方とはまた違う味わいで眺めていて飽きない。


 ヴォロネツ修道院に到着したのが朝10時だった。広い駐車場にはまばらに車が停まっている。壁沿いに土産物の屋台が並び、民族衣装を着たおばあさんが編み物をしながら商品を売っていた。

「ここはシュテファン大公が1488年にトルコとの戦いに勝利して建てた修道院ですよ」

 門をくぐるとすぐ正面に尖塔のある修道院が姿を表わした。その壁一面に描かれた宗教画はまさに圧巻、亜希は思わず息を呑んで立ち止まった。膨大な数の聖人、天国と地獄、そこに描かれる壮大な物語に飲み込まれていくような感覚。鳥肌が立ち、涙が滲んだ。この壁画を見てみたいとルーマニア旅行を決意した。その縁でエリックやシュテファンにも出会った。本当に良かった。

「アキ、泣いてるの?」

 シュテファンが亜希の顔を覗きこむ。

「ううん、大丈夫。本当にルーマニアに来て良かったなあって」

「そうだね、良かったね」

 亜希は壁画を一面に眺められるベンチに腰を下ろした。修道院の周囲には薔薇が咲き乱れて仄かな甘い香りが風に乗って運ばれてきた。


「これは最後の審判を表わしています。ヴォロネツの中でも最も見事な壁画です」

 天界の門が開かれ、これから審判が始まろうとしている。イエスと鳩が上部に、預言者たちがその脇に描かれている。中央に赤い炎の川が流れており、多くの人々が逃げ惑っている。周辺にはライオンや象、魚などの生物もいる。

「ヴォロネツ修道院は青を基調にした色彩が特徴でヴォロネツ・ブルーと呼ばれます。他の修道院にも基調になるカラーがあります」

 エリックの解説にただただ頷くばかりだった。亜希はキリスト教の聖書の世界を知らないので、エリックの解説は非常に役に立った。

「こうした絵画は中世の文字の読めない村人にキリスト教を布教することにも役立ちましたね」

 知識のない亜希には、こうした絵画での説明は確かにわかりやすいと感じた。別の壁面には“エッサイの木”をモチーフにした壁画があった。

「エッサイの木はキリストの系図を書いたものです。これはブドウの木をモチーフにした連作ですね。100人ほどの人物が描かれています。中にはシュテファン大公の証人となった人物がいるとされています」


 壁の北側はかなり劣化が進み、輪郭のみが薄く残っているのみだった。

「ここはほとんど見えないのね」

「そうですね、この地方では北側の壁に強い山風が吹き下ろしてきます。なので壁画の劣化も激しいのです」

 自然が相手ならいくら修復しても難しいのだろう。他の修道院でも北側の壁画は劣化が激しいということだった。修道院の中ではミサの最中だった。薄暗い光の中で、シュテファンが身廊の右側を指さした。

「ここにはシュテファン大公とその家族が描かれているんだよ」

 髭を生やした王が修道院を手に持ち、神に奉納している様子が描かれていた。亜希の脳裏に夢でみた老人がその絵に重なった。


 修道院を出て、土産物屋を覗いてみる。ここでもドラキュラグッズは品揃えが豊富だ。ここまでくるとまさに国の英雄といった印象すら持ってしまう。色鮮やかな刺繍や絵皿などの民芸品に混じって、絵付けした卵を見つけた。

「これは何?」

「イースターエッグだよ」

 シュテファンからイースターエッグと言われても亜希はピンとこない。イースターはキリスト教の復活祭(イースター)や春を祝う祭りで、卵は豊穣のシンボルであり、イースターエッグは飾り付けをした鶏の卵なのだという。土産物屋のカゴの中には赤や黒、緑など鮮やかな下地の色に白で模様を描いたもの、ビーズで装飾したものもあった。


「ブコヴィナ地方の古い伝統で本当はゆで卵を使うけど、ここにあるのはプラスチック製だよ」

 シュテファンが好きな色を選んで、というので亜希は綺麗な赤を手に取った。シュテファンが店番のおばあさんに支払いをしてくれた。

「これはアキにおみやげ」

「いいの?ありがとう」

「ハッピーになれるように、お守りだよ」

 シュテファンの心遣いが嬉しかった。車に乗り込んで次に向かうのはフモール修道院。ここから10キロほどの距離にある。

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