【5】 ブカレスト ホテルキャピトル

 スマートフォンのアラーム音で亜希は目を覚した。画面を見ると朝六時半。まだ眠いのは時差ボケのせいだけではない。ホテルに到着したのが深夜一二時過ぎ、それからシャワーを浴びて荷物の整理、眠りについたのは午前二時だった。


 そして、また夢を見た。ここブカレストは、一五世紀にドラキュラ公が都を置いた場所だ。彼が定めた首都が現在もその機能を引き継いでいることが興味深い。

 宮廷での血腥い事件を夢に見た。石畳に響く彼の力強い靴音が耳の奥に残っている。そして、彼の側近が感じた畏怖と戦慄に共鳴した。使者の恐怖と絶望に歪んだ顔は瞼の裏に焼き付いている。


 目を背けずにはいられない残酷な串刺し刑の光景は、伝記の中の版画そのままだ。恐ろしい夢だった、しかし苦悩する彼の姿も強く印象に残った。

 空調をつけずに眠っていたが、朝は少し肌寒い。それなのに血の匂い漂う悪夢を見たせいか、全身がうっすらと汗ばんでいた。


 あんな夢を見た後に不謹慎なものだが、ひどくお腹が空いていた。化粧はおいといて、ひとまず服を着替えた。カードキーと貴重品をポーチに入れて一階のレストランへ向かう。エレベーターに乗ろうとしたとき、容赦なく扉が閉まり、体を挟まれてしまった。


「ええっ嘘でしょ」

 慌てて押し返すも、扉は強引に閉まろうとする。亜希は無理矢理体を中にねじこんだ。

「すごいエレベーターだわ」

 日本なら安全装置が作動して、すぐに開くはずだ。朝からエレベーターと格闘してすっかり目が覚めた。


 朝食会場はビュッフェ形式だ。新鮮なトマトとサニーレタスにオリーブオイルと塩をかける。ベーコンの厚さと大きさには目を見張った。ひよこ豆のスープにサクサクのクロワッサン、コーンフレークにヨーグルトをかけて、ブルーベリージャムを乗せた。旅先での朝食はがっつり食べる主義だ。


 街通りが見渡せる窓際のテーブルに座った。朝の空は薄曇りだが、スマートフォンで調べた天気予報では今日は晴れの予報だ。石造りのゴシック建物が並ぶ景観は物珍しく、街ゆく人々もすらりと背が高い異国の人間ばかり。窓からの眺めだけで現実から逃避できた。


 母に無事に着いたことを知らせておかなければ、後がうるさい。心配が高じて、連絡を寄越さないことをネチネチと責め始めることは目に見えている。ここで一気に現実に引き戻される。ちゃんと着いたよ、とラインで無機質なメッセージを送っておく。


 部屋に戻り出発準備を済ませ、手持ち無沙汰に龍の紋章の本を開こうとしたとき、ノック音が聞こえた。ドライバーのミハイとの約束の時間までまだ一時間ある。別の部屋を訪ねているのではと思って息を潜めていると、もう一度聞こえた。


 間違いなくドアの向こうに誰かがいる。押し込み強盗だったらどうしよう。心配性が過ぎると笑われるかもしれないが、海外では何が起きるか分からない。亜希は警戒しつつ、チェーンをかけたままドアを開けた。


 そこには黒髪の青年が立っていた。知らない人だ。それもそのはず、このルーマニアで亜希と面識があるのは昨日迎えに来てくれたミハイしかいないのだから。

「ハイ、アキ」

 青年は見た目三十代半ば、亜希より頭一つ高く、黒髪のショートヘアに健康的な肌色で清潔感がある。人の良さそうなカーブを描く眉に、明るいエメラルドグリーンの瞳、鼻梁が高く、大きな唇は情に厚い印象を与える。


「ふ、Who are You」

 動揺を隠しながらも咄嗟に思いついた中学生英語だ、こんな棒読みで通じるのだろうか。

「私はエリックです。日本語は少しできます」

 えっ、誰なの。亜希の混乱は頂点に達した。落ち着いた調子でエリックは続ける。

「今日からアキのドライバーです。ブカレストの街は渋滞がとてもひどいので、早めに出発しましょう」


 彼はドライバーだと言う。ミハイは空港送迎だけの契約だったのか。彼はおじいちゃんに手が届きそうな高齢だった。観光ルートの長距離運転は若者が対応するという仕組みかもしれない。

「今日はシナイア、そしてブラショフまでドライブですね」

 エリックの言うルートで正しい。日本語ができるドライバーとはありがたい。イーストトラベルでは英語ドライバーと聞いていたが、手配がついたのかもしれない。亜希はもう一度忘れ物がないか部屋を確認して、スーツケースを押し出した。そのままロビーへ降りる。


 エリックは部屋のキーをフロントに返却する。ホテルマンとルーマニア語で言葉を交わし、亜希にOKとウインクした。

「車はホテルの外です」

 エリックの日本語はなまりのない標準語で、発音もほぼ違和感がない。これならコミュニケーションに困ることはない。亜希はホッとした。玄関前に路上駐車した車は、やや古いモデルの黒色のBMWだ。エリックが助手席のドアを開けて亜希をエスコートする。男性に気を使われるのはどうにも慣れず、気恥ずかしい。


「ありがとうございます」

 乗り込むと、体が深々と革張りのシートに沈んだ。これが高級外車の乗り心地か、と亜希は目を丸める。エリックも運転席に乗り込んでキーをひねると、心地よい音を響かせてエンジンが始動した。


「では、行きましょう」

 エリックはにこりと笑う。亜希も釣られて愛想笑いを浮かべた。車は大通りに出て、北上する。シャッター一面のカラフルな落書きや、埃にまみれた空のショーウインドウ、朽ち果てたポスターが何重にも張られた石壁、まるでスラ街だと思えば次のブロックには荘厳なバロック建物と噴水の広場が現われて度肝を抜かれる。西ヨーロッパにイメージされる華やかさだけなく、どこか退廃的な雰囲気を残している。これが東欧の雰囲気なのだ。


「昨日の人とは違うんですね」

 亜希は努めて明るい調子で訊ねる。言われるまま車に乗り込んだものの、エリックが本当に契約ドライバーなのか、確認したい気持ちがあった。

「ええ、私が観光地へ案内します」

 車はブカレストの市街地を抜け、二車線のバイパス道路を走る。


「シナイアまで二時間です。シナイアはとても美しいところです。これから向かうペレシュ城は八年かけて建てられたドイツ・ルネッサンス様式のお城です。ルーマニアで一番綺麗なお城ですよ」

「わあ、楽しみです」

 シナイアは観光ガイドにも大きく取り上げられていた。いつの間にか道路は一車線になり、山間部に入っていく。木立には瑞々しい若葉が芽吹き、渓流は陽光を反射してキラキラと煌めいている。亜希は眩しさに目を細めた。窓を開けると清爽な森の匂いが鼻腔を抜ける。


「どうしてルーマニアに来ようと思いましたか」

「きっかけは本です。本に描かれた修道院の絵が、その日観たテレビ番組で紹介されていたんです。ちょっとした偶然だけど、強い縁を感じたの。絵はルーマニアにある五つの修道院だと知って、実物を見たいなって」

 亜希は興奮気味に語る。その様子をエリックは微笑ましく横目で見やる。

「五つの修道院も素敵な場所ですよ。きっと気に入ります」

 亜希はまだ見ぬ修道院に思いを馳せる。


「それにドラキュラ伝説にも興味があります」

「今日行くブラン城にはドラキュラのお土産がたくさんありますよ」

 ドラキュラ城は国の立派な観光資源だとエリックは言う。

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