旅のきっかけ -5-

 旅に出るとき、俺はこんな事態を微塵も想定していなかった。


 部屋に響くのは、エアコンの稼働音と窓の外から聞こえる虫の鳴き声、それからわずかばかりの川のせせらぎ程度。常夜灯のみが照らし出す、風情ある温泉旅館の一室。


 マジで、いったいどこでなにをどう間違ってしまったのか、年下のクラスメイトと枕と並べて同じ布団で眠ることになってしまった。今回の旅、もうなんかいろいろ間違いすぎ。


 いかに幅の広い二人用の布団だとしても、ほとんど大人である高校生――片方は十九歳――が同じ布団に横になれば、必然的に体が触れ合うほど近くで寝ることになる。空間の広さでいえば、車の方が現在の客室よりも圧倒的に狭い。だが車内は俺にとって慣れ親しんだ場所。車の中で過ごす時間の方が多い日など当たり前に存在する。あまり疲れをため込まない体質なので俺は外で休んで、車の寝床は晴礼に譲っていることも多かった。


 もとより俺の旅は車中泊が前提。宿泊施設を使う予定も基本的にない。

 だから同じ部屋で、さらには一つの布団で夜をともにすることなど、想定の埒外である。同じ布団に横になり、薄手の布団を一緒にかぶり、並べた二つの枕に頭を乗せて就寝モードに入ってから早一時間。ただでさえ眠りにくい体質だというのに、睡魔など水平線の向こうになりを潜めたまま出てくる気配はない。


 こうなれば、日が昇るまで残り八時間、素数を数えるしかない。クールになれ俺。羊なんてジンギスカンにしろ。


 クラスメイトの異性と同衾して平静でいられるほど、俺は無感情ではない。欲というものがないわけでもない。つまりこの逃げられない針のむしろ状態で、朝まで凌ぐ必要がある。紛う事なき地獄だ。


「あの……」


 ほとんど音がなかった部屋に一つの声が響く。


「センパイ……もう寝ましたか……?」


 息を潜めて、晴礼がささやき問う。


 少し間を開け、息を吐き出しながら答える。


「起きてるよ」


 ごそりと、横で晴礼が動く気配がする。


 視線を流すと、先ほどまで仰向けで目を閉じていたはずの晴礼がこちらを向いていた。


「聞いても、いいですか……?」


「……なにを?」


 先に続く言葉など、聞かずともわかっているにもかかわらず、自らの心根を読み取られないように目を閉じながら尋ね返す。


 少しの間、晴礼は沈黙した。

 その先に続く問いは、容易に想像ができた。


「センパイの傷のこと……です……」


「……」


 どくんと、胸に刻まれた傷の下で大きく脈打った。


「以前、大地さんと話していた体調とかっていう話は、その傷が関係してるんですよね?」


「……聞いていたのか」


「はい……渚ちゃんからも、少しだけ……」


「そうか」


 答え、俺は再び息を吐く。


「気持ちのいい話じゃない。聞かない方がいいよ」


 俺自身、知られたくない話だ。

 聞いた前と後では、人間関係に確実な差異を生じさせてしまうほどの話。同級生の多くも触りを聞いただけで、俺に対する扱いが変わった。腫れ物のように扱われたわけではないが、接し方がわからなくなってしまった、そんな感じ。大地や渚、一部の友人は以前と変わらない関係を続けてくれたが、それはごく一部だ。


「それ……でも……っ」


 意を示すように、あふれそうな感情を抑えるように、ひそめた声の中でもはっきりと気持ちが宿る。


「それでも、私は知りたい。センパイの旅のきっかけを、旅の意味を、センパイのことを――」


 興味や好奇心といった、俗な感情は存在しなかった。

 あるのは、純粋な思い。

 そこに込められた感情の一端も察することができないほど、俺は鈍感ではない。


 目を閉じる。



「弟が――いたんだ――」



「え……?」


「俺の一つ歳下だから、晴礼の一歳上だな。俺と違ってよく笑うやつで、馬鹿みたいに素直で優しくて。将来、絶対詐欺に遭うから気をつけろって、大地とからかってたな……」


 思わず込み上げてきた懐かしさに、自然と笑みがこぼれる。


広瀬進歩ひろせすすむ。進むに歩くで、進歩。本当に馬鹿正直で真面目なやつだった。もう見てるこっちが心配になるくらいにな」


「進歩……さん……」


 その名前を噛みしめるように、晴礼は自分自身で口にする。


「見た目は、まあ似ている兄弟だってよく言われたよ。そんなに似ているとは思わなかったけど。性格は全然違ったしな。大地と俺が無茶苦茶なことをするのを、渚と一緒に困って見てたよ」


 当たり前にあった輝かしい日々は懐かしく、途方もなく遠くに感じる。


「俺たちは、みんな車が好きでさ。つっても、俺と進歩はどっちかというと旅行好きだったんだけど。大地が廃車をもらってきて、俺たちで直して動く状態にまでしたりさ。でもさすがにその車は使えないからって、自転車で何日もかけて千キロ近く走って旅したり、岡山中の山を登ったり島を巡ったり。もう本当に、毎日馬鹿なことばっかりやってた」


「……」


 俺の思い出話を、晴礼は静かに聞き入っていた。


「それでも俺と進歩は、どうしてももっと遠くに旅をしたかった。歩きでもなく、自転車でもなく、車で旅をしたいって話してたんだ。そのために、ずっとお小遣いやお年玉も貯めて、心配されるほどバイトして、二人で車を買おうって、話してたんだ。それで俺が運転免許を取れたら、遅れてだけど進歩も免許を取ってさ、大地や渚も連れて、みんなで旅に出ようって、ずっと、話してたんだよ……っ」


 声が掠れた。喉が震えた。


 すべての日々が思い出に、過去になる。


 かすかすになった肺に息を吸い込み、満たす。


「進歩さん……は……?」


 歯切れ悪く問いながらも、晴礼自身もうとっくに気がついていることを尋ねてくる。

 進歩との思い出は、もう既に過ぎ去ってしまったもの。どうやっても戻ることなんてできない過去。


 もう一度、大きく息を吸う。込み上げてくる感情に、喉が震えた。


「父さんの名義でさ、車を買えることになったんだよ。俺たちでかなりお金を貯めて、父さんもお金を出してくれて、新車で買えることになったんだ」


 幼いころからの夢。

 俺たちの夢は、プロ野球選手や宇宙飛行士など、死にものぐるいで努力しても手が届く人はごくわずか、という類いの夢とは違う。たいていの人が普通に成長して、少しの意志と時間を注げば、間違いなく叶う夢だった。


 だが、ずっと願い思ってきた俺たちにとって、どれほどその日を待ちわびたことか。ようやく手が届くところまできたときの気持ちは、今でも鮮明に思い出すことができる。


「運転免許も、あとは免許を作るだけだった。少しの時間を待つだけで、車を運転できる。旅ができるって……」


 でも、と続ける。



「あいつが、進歩が俺たちの車に乗ることは、なかった」



 晴礼が、小さく体を強ばらせた。


「自動車事故だった。一番初めの旅の場所をどこにするかって話しながら、横断歩道に立っているとき、車が突っ込んできたんだ。ガードレールも電柱も吹っ飛ばして、俺たちに突っ込んできた」


「そ……そんな……」


「……仕方がなかったんだ。運転手の人、心臓発作で、俺たちにぶつかったときにはもう、亡くなってたらしくさ。車みたいなものがある世界では、たぶん一定数起きうる事故だったんだ」


 こんな風に自分の中で折り合いをつけられるようになったのも、つい最近の話だ。

 当時は、それなりに荒れた。


「俺たち二人とも車で弾き飛ばされて、近くにいた人が通報してくれて、すぐに病院に運ばれた。だけど俺たち、ダメだったんだ」


「ダメ……だった……?」


「二人ともまず助からない状態だった。進歩は頭を強く打って、もう何日ももたないって言われたらしい。俺は肉体的には損傷が少なかったんだけど、事故の衝撃で心臓がうまく動かなくなっててさ、どうにか心臓を移植しないと、生きていけない体になったんだ」


 そのときのことは、もうろうとだが覚えている。

 体中に機械がつながれ、揺れ動く人影だけがおぼろげに脳裏に焼き付いている。自分の死を、疑うことなく受け入れた。受け入れざるを得ないほど、自分の体がどうしようもなく壊れている自覚があった。


「日本は、世界的に見ても移植ってものが大きく遅れている。諸外国に比べて移植するために必要な臓器を提供してくれる人が、ドナーが極端に少ない。ましてや心臓を移植するってことは、ドナーは亡くなっていること以外にあり得ない。誰かの死から命を提供してもらわないと、俺は、生きていけない体になった」


 通常、心臓移植が必要な人でも、今日明日に移植が必要というわけではない。将来的に心臓移植を必要とする。そういう人は多くいるけど、今すぐに移植を必要とする人ばかりではない。

 だが俺の場合は、いつどのタイミングで命の火が消えてもおかしくない状況だった。移植に必要な心臓があるわけがない。それまで俺の命がもつはずもない。現実問題として、俺が助かることがない。

 そういう、絶望。


「で、でも……」


 晴礼が、声を上ずらせながら口を開く。


「でもでも、センパイはこうして――」


 その先の言葉を紡ぐことができずに、途中で止まる。


 俺は、小さく笑みを漏らした。


「ああ、そうさ。俺はこうして、今を生きていられる。障害も機能不全もなく。だって――」


 自らの胸に手を置き、そっと鼓動を確かめる。

 とくん、とくん、と、手のひらに、あの日から毎日続く鼓動を感じる。



「心臓を提供できるドナーが、俺のすぐ近くに、事故と同時に現れたからだ」



 進歩の症状は、外傷性脳損傷。自動車事故により頭部に衝撃が加わり、脳が機能しなくなってしまった状態。

 脳死。医師が父さんに説明した一つの単語。

 それは一般に、人の死と同義に扱われる言葉。俺よりも遙かに、そして絶対的絶望に進歩はあった。


「脳死と診断された人が、その状態から回復することはまず起こりえない。植物状態とは違い、脳死は脳の機能自体が完全に停止している状態だからな。進歩の脳は、進歩の命は、事故のその日に止まってしまったんだ」


 決断のための猶予は、もう残されていなかった。


「進歩は、今すぐどうしたって状態は変わらなかった。けど、俺はいつ死んでもおかしくない状態だったんだ。父さんは、身内とも話し合って決断した。進歩の体を、ドナーとして提供すると」


 臓器移植をする際、本来はドナーカードが必要となるが脳死と判断された場合はその限りではない。脳死と判断された人の親族の同意があれば、ドナーカードがなくとも臓器移植が可能となる。


「で、でも、普通ドナーって、移植される人が誰かって伝わらないんじゃ……」


「よく知ってるな。そうだよ。臓器提供者と臓器移植者のプライバシーを守るために、通常どちらにも、双方の個人情報が伝えられることはない」


 ただ、移植は誰にでも行うことができるわけではない。誰からでも移植を受けられるわけではない。血液型や抗体などを初めとした、適合するかどうかという問題が存在する。


 俺と進歩の場合はそれが少し特殊だった。


「俺が心臓移植が必要だとわかってすぐに、臓器提供者が見つかったかもしれないって連絡があったらしいんだ。でも、普通そんなことはあり得ない」


「あり得ない……?」


「日本はたしかに移植後進国だ。でもだからといって、移植を待っている人が少ないってわけじゃない。心臓、肺、肝臓、他にもいろんな移植を待っている人がいる。ただ多くの人にとって、移植は必要でも数ヶ月から数年以内って人が多いんだ。でも俺の場合は、事故によって心臓が機能不全を起こしていた。何日生きられるかどうかもわからない状態だった。そんなにタイミングよく、ドナーが現れるわけがないんだよ」


 次第に、言葉が熱を帯びる。


「進歩、それから俺も、そもそも臓器が適合しにくい体だったらしい。だとしても、俺と進歩は兄弟だ。臓器が適合するなんて驚くことじゃない。移植待ちには順番があるんだけど、俺は十八歳未満ってことで順番が繰り上がったらしい。ここまで条件が少なければ、揃っちまえば、進歩の心臓が誰の体に移植されるかなんて、わかっちまうんだよ」


 術後、はっきりと意識を取り戻し、父さんは俺が事故に遭ってから起きたことのすべてを聞かせてくれた。

 俺のこと。移植のこと。進歩が死んだこと。進步の体がドナーに出されたこと。

 担当医が、僕や父さんにはっきり言ったわけではない。

 だけど俺には、わかってしまった。この自分の胸の内で、俺を生かすために息づいている心臓は、俺のものじゃない。ずっと側に一緒にいた、あいつのものだと、理屈ではなく理解できてしまった。


 それから二年と半年、俺の胸の中で、進歩の心臓は今も脈打っている。


 静かな部屋に、息を吐き出す。


「俺さ……眠れないんだ」


「え……?」


「事故か、心臓移植の後遺症だって言われてるけど、理由も原因も本当はわかってない。目を覚まして以来、まともに眠ることができないんだ。疲れもほとんど感じない。たまに眠っても、三時間も寝てられない。すぐに目が覚めるんだ」


「じゃ、じゃあ渉瑠センパイが、私が車で眠っていたときに外に出ていたのは……」


「別に晴礼に遠慮していただけってわけじゃない。車の中だろうが外だろうが、俺は寝られないから外に出ていただけだよ」


 たとえ何時間も車を止めずに走り続けたとしても、夜通し車で何百キロ走ったとして、疲れをほとんど感じない。実際には疲れていないわけではないそうなのだが、体に疲労というものの影響が出にくくなっているらしい。しかし体に不都合が出るわけでもないという状態。


 ただ一つ問題があるとすれば、考える時間が増えてしまったということ。

 悪意など誰にも存在しなかった。納得なんてできるわけもないが、事故とは一定数存在するものだ。悪人など存在しない。罪人も存在しない。事故を起こしてしまった人も、進歩の臓器を提供することを決めた父さんも、進歩の心臓を受け取った俺も、誰も悪いわけじゃない。


 ただ俺の中で、それを仕方がないと割り切れるほど、あいつの命は安いものじゃない。


 傷もふさがって、リハビリも終えて、ようやく退院することができた。

 この件をきっかけに、俺は二度留年することになった。

 父さんは家に帰らなくなった。元から家にいないことが多い人だったけど、今は滅多に戻らない。俺を見てしまえば、嫌でも思い出してしまうから。出張という名目で家に帰らなくなり、俺からも必要最低限の連絡しか取らなくなった。

 家が怖くなった。俺と進歩、父さんで暮らしていた家に、突然ひとりぼっちになった。


「あいつはもう旅ができない。だけど、旅は俺たちの夢だったんだ。だから、あいつがいなくなっても、旅だけは諦めない。俺があいつの分までどこまでも旅をする。そう、決めたんだ」


 あいつが死んで、そしてあいつの死を糧に俺が生きていると知ったそのときから。


 長々と息を吐き出し、込み上げてきたものを押し隠すように、瞬きをする。


「でも……さ……」


 鼓動を続ける胸を、そっと握りしめる。


「わから、ないんだ」


 擦り切れ、掠れる声で呟く。


「俺は、なんで生きているのか。なんで、助かったのが進歩じゃなくて、俺だったのか。なんで、俺は……っ」


 それでも堪えきれずにあふれ出したものが、頬を伝って流れていく。


「たくさんの、本当にたくさんのものをなくしたんだ。俺を取り巻く世界から、数え切れないものが零れ落ちていった。だから探してるんだよ。空っぽになった俺が、俺が生きていることの、意味と、理由を……」


 とくんとくんと、俺を生かすために血を巡らせてくれるその心臓は、あいつの命を犠牲にした上で俺が手に入れてしまったもの。望む望まないに関わらず、俺が背負うべき、罪。


「あいつの死と、俺はまだ向き合えてないんだ。墓参りにも、一度だっていけてない……っ」


 自分の胸にあるのは進歩の心臓。

 それだけでももう、十分すぎるほど進歩の死は決定づけられているのに、それでもあいつの墓前に行ってしまえば、すべてが終わってしまうように感じる。あの出来事からもうじき三年たつのに、俺は一度も足を運べていない。


 薄暗い部屋の下で、胸に置いた手が情けなく震えている。

 一度あふれ出した涙は、とめどなく、どこまでも流れ出していく。



「……っ。本当に俺は生きていていいのか。どうやったら進歩が生きることができたのか。そればかり、考える。ただ、俺は――」



 ほのかな、暖かさが伝わる。

 胸で震える俺の手に、二つの手が、そっと添えられていた。


「わた……しは……っ」


 吐き出された声は、俺と同じように震えていた。

 抑えきれない感情があふれるように、どこかに消えてしまいそうになる俺をつなぎ止めるように、晴礼は両手で俺の手を抱きしめる。

 情けなく弱い俺の手に、晴礼の感情や思いが、体温を伴って伝わってくる。


「私は……渉瑠センパイが生きていて……嬉しかった……よかったですよ……っ」


 涙で濡れた声音で、心そのものを吐き出すように晴礼は紡ぐ。


「よかった……です……っ」


 静かな闇夜に、少女の嗚咽が漏れる。


「なんで、お前が泣くんだよ」


 そう返す俺の声も、みっともなく濡れていた。


「ごめん……なさい……っ……ごめん……っ」


 泣きじゃくる晴礼は、俺の手をずっと抱いていた。

 晴礼はそれ以上なにかを言うことはなく、ただ堪えられない感情とともに涙を吐き出していた。


 ずっと、ずっと……。


 晴礼が泣き疲れて眠るまで、ずっと、二人きりの部屋に晴礼の悲しみに濡れた声が響いていた。

 いつしか、俺の意識もまどろみの中に沈んでいた。



 その日は久しぶりに、ぐっすり眠ることができた。

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