旅のきっかけ -3-

 ずいぶんと無駄な時間を過ごしてしまった。


 お客様の大事な荷物を、遠縁とはいえ旅館と無関係な人間に預けるなんて正気の沙汰とは思えない。千波さんが正気でないことなど初めからわかってはいるが。

 俺が信用されているのか、間に合わなくても別にどっちでもいいと考えていたのか、判断が付きにくいところである。


 空港の国際線チェックインカウンター付近で、見るからに落ち着きがなくてそわそわしている英国紳士らしきスーツ姿の男性が、小包の持ち主であることは容易に想像が付いた。


 念のためカウンターの人に声をかけると、英国紳士は空を飛ぶように駆け寄ってきた。


「エクセレーントッ!」


 人目をはばからず大声を上げる英国紳士と背骨が折れるかと思うほど熱い抱擁を交わし、俺はオーケーオーケーと小包を手渡した。英会話は得意ではないが、とりあえずひたすら感謝感激していたご様子。おいおいと涙を滝のように流しながらお礼を言っていた。


 カウンターの人に通訳をしてもらい、一応受領の証しを一筆書いてもらう。こういうのはきちんとしておかなければ、あとで困っても取り返しが付かない。まあそんなことを言い始めたら、この受け渡しが既に問題だらけな気はするがそこは俺にはどうすることもできない。


 カウンターの人にお礼を言って、配達完了の連絡を旅館に入れた。

 そんなこんなで、【下呂温泉】に置いてきた晴礼の元へと、再びプリウスを走らせた。


「…………」


 一人で運転するプリウスの車内は、静かだった。最近忘れていた、静寂だった。

 カーナビを操作して、SDカードに入れている音楽をかける。すぐに、アップテンポの邦楽が車のスピーカーから流れ出す。


 一月前まではずっとこうして運転をしていた。ただ音楽かラジオを流し、車を走らせ日本を回る。それが俺の旅だった。


 高速道路に真っ直ぐプリウスを走らせていく。


 緩やかなカーブが見えてきた。高速道路の法定速度は、場所にもよるが通常は時速一〇〇キロ。俺は法定速度を守って運転するので、早くても一一〇キロとかそれくらいの速度だ。カーブ付近では法定速度も下がって提示されている。


 だけど。


 カーブの途中。勢いを落とさないまま、ハンドルを切った。

 片側のタイヤがふわりと地面から離れ、車体が横転。なにが起こったのか理解する間もなく、車体がカーブ途中の外壁に衝突。


 車体が押しつぶされ、人間の貧相な体は抵抗する間もなく圧砕される。


 俺は死んだ。


「……っ」


 胸に、ずきりと痛みが走る。


 馬鹿げた思考から、一瞬で意識が現実に引き戻される。


 いつも通り、危なげない運転で減速し、緩やかにカーブを回っていく。


 一人だと、すぐこれだ。

 ぎりぎりと締め付けるような胸の痛みが、徐々に治まっていく。


 人を乗せているときは、さすがにそんなことを考えないですむので、安心していられる。旅を始めたばかりのころは、どこに行っても馬鹿な思考につきまとわれていたが、最近はそれも少なくなっていた。


 だからあの少女には、感謝しているのだ。


 もうじき、晴礼と旅を始めて丸々一月。車という小さく限られた空間に、ずっと一緒にいた。

 助手席に晴礼がいることが当たり前となっている。いないことに、違和感を覚えてしまうほどに。晴礼とはいつも、流れていく景色の中で他愛もない話で会話を弾ませている。俺から話すときもあれば、晴礼から話すこともある。

 もちろん四六時中、晴礼と話をしながら運転をしているわけではない。話すと危ない狭い道などでは、晴礼は遠慮して口を開かなくなる。晴礼が疲れているなと感じると、俺も口数を減らして晴礼を休ませていた。晴礼は助手席を少しだけ倒してうとうとしたり、自分で撮った写真を眺めたり、お父さん宛に何回もメールを送ったりもしていた。


 これまでも、ヒッチハイクの旅人や友人知人を車に乗せることは何度もあった。それでも、長くても一日二日程度の話。何日も一緒にいるなんてあり得なかった。

 父さんともここ最近会っていない上、会ったとしても数日程度。高校においては、まともな友人は一人もいない。


 俺にとって、晴礼はここ一年ほどで最も長く時間を共有している。


「……なにを、考えているんだか」


 隣に誰かが、いや、晴礼がいないことに、不安のようなものを感じている自分がいる。


 俺たちの関係は、このあてなき旅が終わるまでの、あるいは〈まほろば〉が見つかるまでの仮初め。それ以下になることはないが、それ以上になることも、決してない。

 少なくとも俺は、俺たちの関係、恋人という関係を偽りだとは思っていない。それを偽りだと認めてしまえば、そもそもこの旅を続けていくことに、自分の中で折り合いをつけることが難しいと感じているからだ。


 俺が、いや俺たちがやっていることは、かなりぎりぎりで、相応に危ういこと。


 見る面に見る立場によれば、完全にアウトであることはわかっている。

 でもだとしても、俺は自分がやっている行動を正当化してまでも、晴礼とともに旅をしたかった。するべきだと思った。


 晴礼自身の、ために。


 どこまで旅を続けられるかなんてわからず、この旅の先に、晴礼の求める〈まほろば〉を見つけられるのか。あるいは見つけられず、時間を使っただけに終わるのかはわからない。

 それでも、なにかをしてあげたかった。俺に、旅に連れていってほしいと願ったあのときから、なにかをしてあげたいと思う心が、俺の中に宿ってしまった。


 旅を始めた日よりもっと前、あんな表情を見てしまったから。


「……まったく、俺はどうしようもないな」


 ため息とともに情けない悪態を落とし、俺はプリウスのハンドルに手を滑らせた。


    Θ    Θ    Θ


「あ、お帰りなさい」


「……なにしてはるんですか?」


 思わず、口にしたこともないなまりが出た。 

 旅館に帰ってくるなり俺を迎えてくれたのは、仲居の着物をその身にまとい、旅館の前を竹箒で掃除している晴礼だった。朗らかににこにこと笑いながらせっかせっかと落ち葉を掃いているその姿は、レーレレーのレーとか言い出しそうなご様子。


 俺の問いに、晴礼は恥ずかしそうに竹箒を抱きながら笑う。


「えへへ。いえ、待っている間暇だったので、お手伝いを申し出まして」


 いや休めよ。なにしにここに来たと思ってんだよ。


 高速道路を往復六時間走らせた疲れも相まって、肩を落として顔に手を当てる。

 そもそもゆっくり休むために旅館に来たという話を覚えているのか、甚だ疑問である。俺も人のことなんて言えた義理ではないが、こいつのバイタリティも大概おかしい。これほど無茶な日程で旅をしているにも関わらず、体力お化けといわれるどっかのアイドルもびっくりの耐久力だ。


「……とりあえず俺も帰ってきたことだし、もういいんじゃない?」


 戻ってきたことを千波さんに一声報告する。


「おー、お疲れー」


 と、淡泊な反応を見せる千波さん。


 とても旅館と無関係な人間をパシリにしたとは思えない態度。びっくりするわ。

 既に部屋の用意はすんでおり、荷物はすべて部屋に運び込まれていた。いつもならきっちり旅館の代金は支払っているのだが、今回は荷物運びの件があるので、料金はいらないとのこと。晴礼がいる手前、払うとごねても居心地が悪い。今回はお言葉に甘えることにした。


 すっかり顔見知りになっている仲居さんに案内された部屋は、露天風呂付き客室だった。軽く二十畳越える広い和室。冷蔵庫やテレビを初めとした基本的な設備が完備。開け放たれた正面扉の向こう側には、この旅館が愛される一つである露天風呂がある。

 露天風呂からは下呂の自然を間近に見ることができ、飛騨川のせせらぎの音も聞こえる開放感最高のロケーションで、ゆるりと温泉を楽しむことができる。


 だが有名老舗旅館においても、一番下から一番上までこのグレードということはない。この部屋のグレードはおそらく最上位に近いもの。


 俺は普段予約さえせず、知り合いという特権を駆使して利用させてもらっている。温泉と睡眠があれば十分だ。空いている部屋で一番下のグレードを使ってきた。


 明らかに通された部屋がおかしい。

 だがしかし、他にも異常な点が二つほど見受けられる。

 一つは、部屋の隅に積まれている荷物に、どうみても俺以外の荷物が混じっていること。


 それともう一つ。


「……なんで、お前この部屋にいるの?」


「千波さんから、この部屋を使うようにって言われました」


 俺の隣では、ようやく仲居の着物を脱いだ晴礼が、あっけらかんとした表情で笑っていた。


「……ん? え? 晴礼が?」


「私と渉瑠センパイが、です」


 とりあえず、クレームを入れることにした。


 先ほどと同じ、従業員専用の休憩室で優雅にお茶をすすっていた黒幕のもとへと殴り込む。


「俺、二部屋って言ったよね?」


「追加で予約が入って、二部屋用意できなかったのよーごめんねごめんねー」


 古いネタでまったく悪びれる様子がない上に、端正な顔つきに意地の悪いニヤケ面を貼り付けている千波さん。隠す気すらない様子に、嘘だと疑う余地さえない。


「問題あるだろ。俺は男であいつは女だぞ。一部屋に一緒なんて」


「あんたたち付き合ってるんでしょ? カップルで旅行でしょ? なんの問題があるの?」


 当たり前のことをさらりと言われ、ぐっと喉を詰まらせる。


 晴礼がなにか言ったとは考えにくいが、俺と晴礼が普通に付き合っているわけではないということをわかって言ってやがる。


「それでも、俺たちはまだ高校生だ。一緒の部屋ってのはまずい。あいつだって困るだろ」


 苦し紛れにそう言うと、千波さんは首を傾げながらあごに指を当てた。


「そう? まあ確かに、晴礼ちゃんに伝えたときはゆでたカニみたいに顔を赤くしてたけど」


 ダメじゃねえか。


「でも、まんざらでもないんじゃないかな。そうでもないと、さすがに二歳上の異性と車で一緒に旅なんてできないでしょ」


「……」


 そういうわけでは、そういうわけではないのだ。だが、晴礼の事情を晴礼から聞かされている話と、聞かされていない話も含めて、話すわけにはいかない。


 俺は深々と、あきらめとともにため息を落とした。


「それじゃあ、ご飯だけ食べたら共用の大浴場使わせてもらうから」


「はぁ? ダメよ。共用の温泉は、基本的に露天風呂付きじゃないお客様に使っていただきたいの。渉瑠は渉瑠の部屋のを使いなさい。せっかく用意したのにふざけんじゃないわよ」


 さらりと当たり前に、用意したとか暴露しやがった。ふざけてるのはどっちだ。


「くっ……。なら寝るのは車で……」


「いやいや、他のお客様が見たら、この旅館の信用に関わるから、そんなの許さないわよ?」


「……じゃ、じゃあ俺はどっか外の駐車場で」


「車の鍵、フロントに預けてるでしょ? 渡さないようにって、渡したらボーナスカットだって命令してるから」


「……」


 それ以上つなげる言葉を用意できず、俺は膝から崩れ落ちた。


 俺の思考を完全に読んだ上で、すべての退路をふさいでいる。

 旅館の信用問題を盾にされれば、無茶を言うこともできない。従業員さんのボーナスと懐事情を考えればお願いをすることもはばからせる。つうか鬼かよボーナスカットとか。

 さすが身一つで外に居座るなんてことになれば、無関係な従業員や晴礼にこれまで以上に気を遣わせてしまう。


 相も変わらずの食わせものっぷり。


 逃げ道という逃げ道に立て看板を掲げられ、結局俺はとぼとぼと案内された部屋に戻っていった。

 部屋に戻るなり、最悪なイベントは先に終わらせるために、露天風呂に入ってしまうことにした。

 本当なら入るべきでさえないのだが、俺が温泉に入らないとか言えば晴礼も入らないとか言い始めかねない。花守晴礼というのはそういうやつなのだ。


「いいか! 絶対に入ってくるなよ!? 絶対だぞ! 振りじゃねぇからな!」


 タオルと着替えを手に、びしっと指さす。


「そ、それ、ポジション的に私の台詞だと思うんですけど」


 俺の指示で隅の畳に正座している晴礼が、苦笑しながら頬を掻く。


 俺だってこんなことを言いたくはないが分別はつけるべきだ。付き合っていることが本当だとか嘘だとかを持ち出すつもりはないが、さすがに越えてはならない一線は守らなければいけない。


「そこでじっと座っておくんだ。お前が入るとき、俺は旅館の外まで出て行くから心配するな」


「な、なにもそこまでしなくても……。私、渉瑠センパイのことは信用してますよ?」


 その言葉はありがたく嬉しいけどダメなものはダメ。


 目の前の戦場へと――どちらかというと戦場は後ろに広がっているのだが――足を進める。


 ぴしゃりと、客室と露天風呂との間を閉める。鍵が着いていないことが、どれほど悔やまれるか。脱衣所で汗を吸った服を手早く脱ぎ捨て、体を洗う用のタオルだけを手に露天風呂へと入った。夏とはいえ温泉街そのものが自然に囲まれ、元々標高が高い位置にある下呂は平地に比べて涼しい。日もずいぶん傾いており、夕涼みにはちょうどいい時間となっている。


 高級感のある木枠の浴槽が中央に備え付けられている。元々、家族用のお風呂なのか露天風呂自体も相当大きい。五人程度なら広々と入ることができるだろう。周囲も木目を中心に作られた和の空間となっており、千波さんの余計な計らいで使っていいのか疑問になるほどの部屋である。


 一人ならこの贅沢な露天風呂を堪能したかったところ。だが、今回はのんびりしているわけにもいかない。最低限温まったら、すぐに出てしまおう。


 備え付けのシャワーで汗と汚れを手早く洗い流す。

 日帰り温泉や銭湯ばかりで体を洗う毎日だが、やはりきちんと体を洗うことは大事である。気分的にもよろしくないし、なにより衛生的に問題である。


 扉がある方に背を向けて、露天風呂にゆっくりと体を沈めていく。

 天然温泉特有のつんと鼻を差す優しい香りが心地よい。

 【下呂温泉】の泉質は、子どもやお年寄りにとっても優しい成分だ。顔をしかめずにはいられないような強烈な臭いが得意ではない俺にとっても、これ以上の温泉はなかなかない。


「ふぃー……」


 体が焼けそうなほど、それでいて心地よい湯気立ち上る湯に頭の先まで沈めていく。

 以前は当たり前に感じていた疲労を感じなくなり、睡魔が襲いかかってくることが少なくなってもうじき三年。


 それでも温泉に体をさらしていると、自分がどれほど疲れをため込んでいるかを実感する。わずかに茜色を帯びた空と、新緑に囲まれた涼しい空間。体の芯までとろけそうになるほどの温泉に、体と心がどちらも癒やされていくのを感じる。


 名湯に溶け出すように、体から様々なものが抜けていく。


 いつもの癖で、自然と手が自らの胸へと行く。目を向けなくても、手触りだけで未だ刻まれたままであることがわかる、それ。もっとも、これは二度と外れないものだ。なくなるわけがない。


 湯船から首だけをのぞかせ、息苦しさの中でぼんやりと天井を見上げている。

 後ろだけは、絶対に振り向かない。けれど、俺の状態が状態である故、どうしても意識を向けてしまう。

 絶対に振り向かないと、心に決めていた。そんなことをすれば、俺が死ぬ。いろんな意味で死ぬ。それにやはり長風呂をするつもりはない。五分と入っていないが、そろそろ上がろう。


 そう考え、湯船の枠に手をかけたときだった。


「ふぁー、素敵な露天風呂ですね」


「……」


 がらりと扉が開け放たれると同時に、背後の扉か正面に広がる屋外へと風が抜けていく。

 代わりに、俺だけだった空間に侵入者があった。


「お邪魔しまーす」


「――ッ」


 高々に上げそうになった悲鳴を、すんでの所で、褒めてもらいたい自制心で押さえ込む。


 立ち上がりそうになっていた体を、再び湯船の中に叩き落とす。激しく水面が揺れ、勢い余った温泉が湯船の外に流れ出ていく。

 ここは露天風呂。しかも親類が勤める老舗旅館。大声を出そうものなら他のお客さんにも迷惑がかかる。大惨事になる。


 落ち着け……これは……っ。


「な、なにやっているんですかね晴礼さん……っ」


 闇鍋の如くごった返した感情に必死にふたをして、後ろを振り返ることなくどうにか声を絞り出す。


「え? お風呂に入ろうかと」


「ふざけてんのかお前は……俺が、入ってるだろ……っ」


「いいじゃないですか。私たち恋人なんですから。なにを気にすることがあるんですか?」


 あっけらかんと言い放ち、ぺたぺたと木目の床を歩く音。続いて、背後でシャワーが流れ始める。


 こいつ、こういうときだけそれを持ち出しやがって……っ。

 ま、まあ俺も自分の好きなときにだけ持ち出している気が、しないでもないが。


 だが、これはまずい。非常にまずい。冗談でもない。本当にまずいのだ。


 とりあえず法律やら自己精神の崩壊に関わりかねない下部は、本来マナー違反であるが湯の中でタオルを巻き付けガード。首元まで湯船に沈め、隠せる範囲をすべて湯の中に沈めて隠す。


 問題はないと思っていた。一緒に旅をするだけなら、危険性など皆無のはずだった。さらに目元まで深々と体を沈め、ぼこぼこと息を吐き出しながらどうにか脱出案を考える。

 しかし、まったくといっていいほど手立てが存在しない。

 強いて上げるなら、湯船のお湯を晴礼にぶっかけ、その間に俺が下を向いて扉まで全力疾走。これも成功率は低い。扉は後方、シャワーも後方。後ろの状況は正確にはわからない。扉までの間にもし晴礼が立っていて、ぶつかりでもすれば俺は人生消滅の危機になるほどの大惨事を迎えることになる。


 つまり、いろんな意味で終わった。


 きゅっというノズルを閉める音とともに、シャワーが止まる。

 代わりに水が滴る音と、ぺちゃぺちゃと床を歩く音が響く。


 シャワーを済ませた晴礼は、そのまま勢いよく俺の前へと回り込んだ。


「じゃじゃーん!」


 体を隠すために巻かれていた大きなタオルは、俺の前に立つ同時に払われ、ひらりと舞った。

 俺が目を背ける間もなく、視界に飛び込んでくる。

 一糸まとわれぬ、あられもない姿。……ではなかった。

 隠すべき場所は、しっかりと隠されている。


「どうですかこれ。似合いますか? もしかしたら海とか川で泳げる機会もあるかと思って、持ってきてたんです。こんな風に使うとは、思ってなかったですけど」


 晴礼がその身にまとっているのは、ビキニタイプの白い水着だった。結構大胆な代物だ。要所要所でぶっ飛んだ行動し、活発な印象が強い晴礼に合っていると言えば合っている。

 このところ、相当不摂生で乱雑な生活をしていたにも関わらず、すらりと整ったその体は嫌でも目を惹く。着やせするタイプなのか、普段は目にとまることなどないというに、同世代と比べて明らかに豊かな胸が強調されている。晴礼は日頃から日焼け止めなどもまめに塗っており、炎天下の下で歩き回ることが多かったはずなのにその肌は白い水着に溶けて消えそうなほど淡く綺麗な色をしていた。


 しかし、本人も恥ずかしくないわけではないようだ。湯気で視界が悪い向こう側で、その頬は明らかに恥じらいの色に染まっているのが見てとれた。


「……っ」


 だが俺は、女性になんて微塵も耐性がないへたれ男子。

 思わず声を詰まらせ、湯船の温度以上に体が熱を帯びる。温泉が、冷たく感じる。


「あははは! 渉瑠センパイ照れてる照れてるー」


 楽しげにおなかを抱えて笑う晴礼に、イラッとした。


 この状況で照れないわけないだろ純情男子を舐めんじゃねぇ! もう十九だけど!


 誘ってるのかどういうつもりなのか知らないが、相手が俺みたいなへたれでなければ、大変なことになりかねない状況。

 しかし、俺は文句の一つも言い返すことができずにいた。

 状況は、そんなどうでもいいことにつっこんでいる場合ではない。


「マジで、さっさと、ここから出ろ。それか、俺がここから出る間にあっち向いてろ」


 首だけ湯船から出した状態で、端的に、それだけを告げる。

 怒りとは違う、戸惑いや焦りが心の中を塗り固めていく。


「ええー、いいじゃないですかー。お堅いこと言わずに」


 俺の心中など露程も気がついていない晴礼は、湯船の向かいにするりと体を滑り込ませてきた。

 お湯がわずかに揺らめき、波となって顔をぴしゃりとかかる。


「おじゃましま――きゃっ――」


 露天風呂が予想より深かったから、木枠が滑りやすくなっていたからかはわからない。晴礼の足がつるりと滑り、派手にバランスを崩した。なんか踏みとどまろうとしたようだが、さらに反対側の足まで見事に滑らせた。


 そのままくるりと体が翻り、盛大にこちらに倒れてきた。


「おい馬鹿――」


 反射的に立ち上がり、倒れ込んできた晴礼を受け止めるために手を伸ばす。激しい水しぶきとともに、晴礼の体が俺の体へとぶつかった。足を捻りそうになりながらもなんとか踏みとどまり、ひっくり返ることなくその軽い体を受け止める。


「お前、なぁ……」


「ご、ごめんなさい……」


 申し訳なさそうに謝る晴礼が、俺の腕の中で体を縮込ませる。

 その体は風でふわりと飛んでいってしまう泡のように軽く、羽衣のように肌触りの心地よい……い、いやいや違うそうじゃない。


 こういうドジなところには、たびたび手を焼かされる。が、今はそうじゃない。


「あの……渉瑠センパイ……」


「ん……?」


「も、もう大丈夫ですから……その……」


 恥ずかしそうにもじもじとしながら、体を強ばらせる晴礼。


 そして、気づく。


 足を滑らせた晴礼を受け止めるために伸ばした両腕は、体に回されている。細く薄いおなかや、水着越しではあるが豊満な胸を、両腕でがっしりと抱きかかえていた。

 見れば、水が滴る黒髪から出ている耳は、真っ赤っかだ。


「うわっ! 悪い!」


 今度は俺が飛び退くように晴礼から体を離す。下がった拍子に湯船のお湯が舞い上がった。

 晴礼は少し恥ずかしそうに、自らの腕で体をかばいながら、頬を赤くしてこちらを向いた。


「あ、あははは……センパイ、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。私……べつ……に……」


 晴礼の言葉が、途切れる。


 赤く染まっていたその顔から、みるみるうちに色が抜け落ちていく。驚き、困惑、疑問。それらすべてを一緒くたにしたような混沌とした感情が、晴礼の瞳に浮かび上がった。

 俺の顔からも、血の気が引いた。タオルは外れてはいない。隠すべき場所は、しっかりと隠されている。


 問題は、そこではない。


「セン……パイ……それ……っ」


 晴礼の視線が、体へと突き刺さり、胸が痛んだ。


 俺の体の中心にある、それ。胸の間を、無理矢理裂いて乱暴につなぎ合わせたかのような、生々しい赤い傷跡。湯気で視界が悪くなっている中でもはっきりと見えるその傷は、ふさがってからもう久しい。体に刻まれた傷は、俺自身の目から見ても痛々しく、その凄惨さには目を背けたくなる。

 俺の体に、見える形でも、見えない形でも刻まれた傷。一生消えることのない、逃れることも否定することもできない楔。


 それを、見られてしまった。


「……っ」


 傷跡に、もう痛むことはないといわれている胸に、明確な痛みが走る。

 傷を手で隠してしまいたい衝動に駆られるが、すんでのところで抑える。


「……悪い、先に出る」


 晴礼の返答を待たずに湯船から上がり、脱衣所の浴衣とタオルを掴み取る。


 背後で困惑している晴礼を残して、俺は後ろ手に露天風呂と客室の間にある扉を閉めた。

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