二人の旅路

 旅に出てからちょうど二十日。


 晴礼も連日の旅で疲れがたまっていたのか、その日休む予定だった駐車場に到着する前から、助手席を倒してぐっすり眠っていた。俺も久しぶりに運転席で、短い仮眠を取った。普段なら車内は晴礼に譲っていたが、今いる駐車場に到着したときは小雨が降っていたのだ。


 三重県の鈴鹿宅を出たあと、信州方向へ走りながら様々な場所を巡ってきた。

 晴礼が探し求める〈まほろば〉は、まだ見つかっていない。自然に関係する、見晴らしがいい、開放感のある場所。それらの情報を手がかりに、思い当たる名所を巡ってはいるのだが、予想通り難航している。


 やはり今回の旅で、晴礼の求める〈まほろば〉を見つけることは難しいと言わざるを得ない。


 いつも通り、短い眠りから覚める。

 眠りに落ちる際にはあった、車を打つ雨音が聞こえなかった。眠るために倒していた運転席をゆっくりと戻し、そのまま体を伸ばす。


 助手席に晴礼の姿はなかった。代わりに缶コーヒーが一本立てられている。缶コーヒーを手にとって、あくびを漏らしながら車の外に出る。


 雨は上がっていた。明るくなり始めている空も雲が少なくなってほどよく晴れ間が見えている。絶好のタイミングだ。


 雨上がりということもあり、真夏ではあるものの湿っぽく涼しい風が寝起きの体を撫でていく。元々この辺り一帯は海辺からの風当たりが強く、結構冷え込む。


 ここは、静岡県伊東いとう市の海岸沿いに造られた公園である。


 車を停めているのは、隣接している二十四時間稼働の駐車場。

 俺のプリウスの他に何台か車は停まっているが、日の出前の、それも雨上がりともなればほとんど人気はない。案外こういう時間帯が、ゆったり楽しむには絶好の時間帯ではある。だが、そんな奇天烈行動を当たり前に実行する人間が少ないことは重々承知している。


 周囲を見渡してみるが、晴礼の姿はなかった。


 俺はトランクから取り出したカーディガンを羽織り、ブランケットを一枚取り出す。

 からからになっていた喉にコーヒーを一気に流し込んだ。ブラック特有の心地よい苦みに、目が次第に冴えていく。特にコーヒーにこだわりはないのだが、砂糖やミルクを入れるのが面倒という理由でブラックばかり飲んでいる。先日晴礼に変人ですねと笑われた。やかましいわ。


 有名な名勝だが、広い公園ではない。しばらく彷徨うと、海際にある灯台の傍らにその姿を見つけた。


 いつも通り、青い小さなボストンバッグを肩にかけ、首から大きなカメラを提げて。薄手のポロシャツと膝丈のスカートという見るからに寒そうな格好で、一人潮風に当たっている。

 こんな時間にもかかわらず耳にスマホを当てて、誰かと通話をしているようだった。


「あはは、ごめんね、叔母さん。心配かけて。でも大丈夫。今は伊豆の方にいるの」


 どうやら通話の相手は、晴礼の叔母さんのようだ。これまでも何度か、叔母さんと連絡を取り合っているのを見ている。いったいどんな文言で叔母さんを丸め込んでいるのかは知らないが、叔母さんは晴礼の旅に協力的らしい。

 といっても、一応友だちと一緒に旅行しているということにしているはず。同行者が異性の年上クラスメイトだと告げれば、ひっくり返るかもしれないが。


「うん、すごい遠くまできてる。まだお父さんと行った〈まほろば〉は見つけられてないんだ。うん、うん。お仕事前にごめんね。ありがとう。それじゃあね」


 通話を終了したスマホを、少し申し訳なさそうな表情で見下ろす晴礼。

 やがて、ポケットにスマホを押し込んで、視線を目の前に広がる水平線へと向けた。


 通話を立ち聞きしていたことを悟られないよう、少し間を開けて近づく。


「風邪引くぞ」


 触れれば折れそうなほど薄い肩に、ブランケットをかける。

 海へと向けられていた晴礼の視線が、のろのろと俺の方へと向く。


「渉瑠センパイ、もう起きたんですか。相変わらず、睡眠が浅いですね」


「ほっとけ」


 軽く相づちを打ちながら、俺も灯台からの景色に視線を移す。

 水平線の彼方まで途切れ途切れに広がる雲が、海の向こうにある太陽の光を受けて輝いている。


 隣に立つ晴礼はやや眠いのか、とろんとした表情を向けてくる。


「眠ったの、二時間くらい前ですけど、本当に疲れがとれてるんですか? 私のせいで眠れていないって、結構申し訳ないんですけど」


「疲れは十分にとれてる。というかお前、まさか二時間も前からここにいたのか?」


「ああ、えっとえっと、そうですね。私がいるとやっぱり眠りにくいかなと思って、センパイが眠ってすぐに出ました。景色もよかったので、いろいろ考えてました。ちょっと前のこととか」


「ちょっと前のこと?」


「うふふ、内緒ですよ」


 そう言って笑う晴礼は、とても楽しげだった。


 もう夏休みも折り返しを過ぎている。二十日もの時間をともにしたことで、ずいぶん晴礼と打ち解けることができたと思う。気安く話せるようになったし、軽い冗談も言い合える仲になった。

 相当歪んではいるが、誰かと付き合うというのは、こういうものなのかなと感じることもある。


「センパイ、少し、歩きませんか?」


「ああ、向こうにいい場所があるんだ。そっちに行ってみよう」


 歩き出そうとすると、不意に晴礼があっと、なにかを思いだしたように声を上げた。


「そういえば忘れてました忘れてました。うんうん。今なら、人もいないし大丈夫かな」


 なにやら意味のわからないことを呟き、晴礼が体をこちらに向けた。


「ん」


 なにやら気合いの入った言葉とともに、晴礼が俺の手を握った。


「……」


 いきなりの、本当に意味がわからない行動。

 瞬間、体に真っ赤に熱した火鉢を押しつけられたように、熱を帯びた。


「ッッッ!? ハイッ!? な、なんじゃい!」


 混乱して上ずった声が漏れる。

 振りほどこうとするが、晴礼はがっちり俺の手を掴んで離さない。


 意味不明な行動をしてきた晴礼は、なぜか驚いたように目を丸くしていた。


「うわぁ、本当に渉瑠センパイ照れてる。私が手を握っただけなのに」


「はあ!? なんだって!?」


「いえいえいえいえ、渚ちゃんが教えてくれたんですよ。センパイ、実は女性に本当に耐性がないんだって。不意打ちでちょっと触れればびっくりするくらい照れておもしろいですよって」


 あ、あいつ晴礼になに吹き込んでんだよ!


 にやにやと、アドバイス通りおもしろがっている笑みを浮かべている。


「でもセンパイ、意外ですね。いつもクールですました顔をしてるのに、実はむっつりなんですか?」


「ちげぇよ! 男の純情を舐めるな! 恥ずかしいものは恥ずかしいの!」


 大声で情けないことを口走ってしまう。


「……っ、いいから手を離せ」


 言いながら手を外そうとするが、なぜかさらに力が込められる。


「せっかくだからいいじゃないですか。手をつないで歩きましょ。一応、私たち彼女彼氏なんですから」


 口ではあっけらかんとしている晴礼だが、長い髪からのぞく耳は真っ赤になっていた。

 自身も恥ずかしいならやめればいいものを、なにをそんなに意地になっているのか。


「ぐっ……」


「ほらほら、早く連れていってください。いいところあるんですよね」


 俺の腕を引きながら催促してくる晴礼。


 仕方なく、俺は晴礼と手をつないだまま、公園の中に歩みを進める。

 真夏とは言っても潮風は十分すぎるほど冷たく、寝起きの体には厳しいはずなのに、そんなことは気にもならないほど体が火照っている。

 つないだ手から伝わってくる晴礼の体温も、びっくりするぐらい熱かった。


 自身の緊張も悟られていることを理解している晴礼が、やや恥ずかしそうな笑みをこぼす。


「まあまあ、そんな今にも下痢しそうな熊みたいな顔は止めてくださいよ」


 どんな顔だよ。


「わ、私だってそれは恥ずかしいですよ? でも、さすがに人前じゃ体が持ちそうにないんで、こういう人がいない場所でならって、ずっと探していたんです」


「俺は人がいなくても体が持ちそうにないです」


 仮に人がいたなら、俺の体は一瞬で気化して消滅する可能性まである。

 晴礼はまた、楽しげに笑みをこぼした。


「もしかしてとは思ってたんですけど、センパイも誰かとお付き合いした経験ないんですね。意外です」


「意外でもなんでもねえだろ。クラスでの俺のポジション考えてみろよ」


「……あー」


「その反応止めて。俺泣くから」


 不意に、握る手に力が込められる。

 男の俺なんかとは違う、女の子の柔らかな手が、俺の手を包む。


「大丈夫ですよ。私はセンパイがどういう人か、もう知っていますから」


 含みのない、屈託のない笑顔で晴礼は言った。

 体がさあっと熱を帯びる。それを悟られないように、そっぽを向く。


「俺に女子との付き合いがまともにできるわけないだろ。留年する前は、女友達は多い方だったと思うよ。そのときから変わり者だった自覚はあるけど」


 留年して、かつて同級生だった友だちは大学生になるなり、就職して社会人になるなりしている。俺は一人遅れているけど、今でもたまには会って、交友関係は続いている。


「でも、俺は趣味人だからな。誰かと付き合うとか、考えもしなかったよ。空き時間はほとんどバイトしてたし。それ以外は車を持ってなくても、自転車であちこち走ったり、電車で旅に出てみたり。そんなバカと付き合おうと思うやつ普通はいないし、俺も付き合おうなんて思わないから」


 実際プリウスを買うため、車の免許を取るために、留年する前まではバイトで忙しい毎日だった。彼女を作る予定も考えもまるでなかった。


「ふふふ、じゃあ私はそんなセンパイと付き合おうと思える、少数派ということですか」


「やべーやつだってことだよ」


「ああっひどいです」


 不満げにむくれる晴礼の表情が、なぜかすごくかわいく思えてしまった。


「むぅ……でもセンパイ珍しい顔が見られたので私的には大満足です」


 人のパニック顔を見て満足するとか、性格悪すぎやしませんかね。


「でも、あれですね。センパイ、旅に出た日も私と握手してましたし、夏帆ちゃんとか渚ちゃんとかと普通に手を握っていたじゃないですか。てっきり、結構、あの、イケイケな人かと思ってました」


 イケイケな人ってなにだよどこにいくつもりだよそいつ。


 俺はげんなりとため息を落とす。


「手を握るって、つうか握手は、旅に出るときに始めたことなんだよ。まあ、渚に対しては今更そんな感情抱く相手でもないし。大した理由じゃないけど、癖でやってるだけ」


「理由があるんですか?」


 自分の中で、少し言葉のトーンが落ちた気がした。


「……大した理由じゃないけどな。旅で出会った人は、連絡先さえ交換しなければもう二度と会うことはない間柄だ。だから握手をして、せめてもの、その人と出会ったつながりにしているんだ」


 晴礼は特になにかを言うことはなかったが、ほほーと感心していた様子。


 いたたまれなくなり、視線をそらし、水しぶきを上げる断崖絶壁に向ける。


「くそっ渚のやつ、面倒なこと教えやがって……」


「センパイの弱点だって教えてくれたんですよ。晴礼ちゃんみたいな子が手を握ればいちころだよって」


「……」


 晴礼に握られていない方の手で、おもむろにポケットからスマホを取り出す。

 そして一つの番号に電話をかける。


「え、ええ、ちょっとセンパイ?」


 しばらくの、長いコール音のあと、電話がつながった。


『……ふぁい、もひもひ』


 寝起きのとろけたような声が返ってくる。

 相手はもちろん渚だ。


「おはよう」


『……今何時だと思ってるんですかぁ』


「四時四八分だ」


『私寝てたんですよぉ……変人怪人奇天烈大魔神の活動時間と一緒にしないでくださぁい……』


 実は、渚は朝にめっぽう弱い。中学などで寝坊した際は、眠ったまま登下校をするという謎のスキルを披露し、周囲を驚かせていたこともある。きちんとした生活リズムを築くことで、最近はなんとか隠せていると大地から聞いている。


「お前、なに晴礼に俺の弱点とか言って、変なこと吹き込んでんだよ」


『…………』


 ずいぶんと長い沈黙が流れる。


『何日前のはなしぃ……。晴礼ちゃんも、渉瑠君に負けず劣らずすっごく奥手――』


 ぶちっと、一方的強制的に通話を終わらせる。


「セ、センパイ、無茶苦茶しますね」


 これくらいの仕返しはやってしかるべきだ。


「どうでもいいけど、そろそろ手を離しませんか?」


「ダーメです。車に戻るまでは、つないでいてください」


 今すぐ車に戻りたい。そして仕切り直したい。


 どくどくと早鐘のように打つ心臓がうるさい。きっと晴礼にも伝わってしまっているだろう。

 恥ずかしげではあるものの、こともなげに振る舞う晴礼の手からも、同じくらい脈動が聞こえてくるのだけれど。

 しかし、これ以上もたついては絶好のタイミングに間に合わなくなる。

 俺は仕方なく、晴礼の手を引いたままもうじき日が昇る公園に足を進めた。


「夏帆ちゃんといえば、昨日来たライン、すごかったですよね」


「そうだな。俺たちも、すごい子を車に乗せたもんだよ」


 歩きながら、お互いに昨日のことを思い出して笑みをこぼす。


 岡山から神戸まで送り届けたちっぽけなランナー、湊川夏帆さんからラインが入ったのは昨日の夕方。

 写真が俺たちのスマホに送られてきたのだ。大きな金色のトロフィーを掲げて、輝くような笑みを浮かべる湊川さん。それから、湊川さんの傍らには、両親と思われる夫婦の姿があった。そして、トロフィーが抱えられている反対側の手には、一足の靴が握られていた。その靴がなんであるかは、文面を読まずとも理解できた。湊川さんはこの夏に行われた陸上競技全国大会において、両親の靴で見事全国優勝を勝ち取ったそうだ。

 出会ったころの影を帯びた表情はどこにいったのか、年相応に明るく無邪気な笑顔の湊川さんに、二人で笑ってしまった。


 両親の靴で走り抜けて勝ち取った、有言実行の全国大会優勝。その思いが、画面一杯にあふれんばかりに書き連ねられていた。


 また俺たちに改めてお礼がしたいという内容もあったのだが、現在地を返信すると、驚愕に口があんぐりと開いた女の子のスタンプが返ってきた。


「岡山に帰って夏休みが明けたら、湊川さんのお祝いに行くか」


「そうですね。プレゼント持って、盛大に祝福しちゃましょう」


 そう言って、晴礼はそれでも少し寂しげな笑みを浮かべた。


 岡山に帰って、夏休みが明けたら。

 行き当たりばったりで始まったこの旅も、終わりが見えてきている。

 まだ夏休みの終わり、俺たちの旅の終わりがどんなものであるのかは想像できない。それでも、そのときは必ず来る。少しずつ、終わりに向かっている。


 歩みを進めるとやがて、岩場の先に赤い吊り橋が見えてきた。

 岩肌がむき出しの海岸にかかる吊り橋。岩場と岩場をつなぐ、この海岸の一押しスポットである。吊り橋のずっと下には海があり、見方によっては結構スリルのある場所だ。


 その吊り橋に足を進めようとすると、途端に晴礼が立ち止まり、俺は手が引かれて立ち止まる。


「どうした?」


 振り返ると、先ほどまでの元気はどこに行ったのかというほど、晴礼が顔色を悪くしていた。


「え? まさかまさかこの橋渡るんですか……? お、落ちますよ?」


「落ちねぇよ。この橋の上からの景色が綺麗なんだ」


 だが晴礼は、いやいやと子どものように首を振る。


「む、むむ、無理です無理です! 人がいない。絶対に落ちるから人がいないんです!」


 早朝だからだよ。


 意外にも、晴礼は高所が苦手なようだ。たしかにこの吊り橋は露骨な怖さがあり、苦手とする人なら近づきたくもない場所だろう。

 しかし俺にはそれほど怖い場所ではない。旅をしていれば、ここよりももっと怖い場所なんて掃いて捨てるほどある。


 俺は小さく笑いをこぼし、掴んだままにしている晴礼の手を引く。


「安心しろ、本当なら今すぐ手を離したいところだが、この橋の上でくらいなら手を握っておいてやる。落ちないようにな」


「ほ、本当ですか?」


「ああ、本当だ。それに、今からここですごい景色が見られるんだ。見ないと、あとで絶対後悔するぞ」


「じゃ、じゃあっ」


 晴礼は言うが早く、俺の腕にしがみつくように抱きついた。


「こ、これならなんとかっ」


 やばい。なんか体に当たってる。いろいろと軟らかい。ゆでる。死ぬ。


 意味のわからない単語が頭を駆け抜け、さらに熱を帯びていく。


「なんとかじゃねょよ。手をつなぐだけだつなぐだけ。暑苦しいから離れろおい」


「わ、私に死ねって言うんですか!」


「言ってねぇよ」


 手を離したらここでなにが起きるって言うんだなにが。


 しかし、ここで駄々をこねても晴礼は腕を放してくれそうな様子はない。吞気にしていれば絶好のタイミングを逃してしまう。俺は仕方なく晴礼にしがみつかれたまま、吊り橋の上に足を踏み出した。


「ひっ」


 情けない声を上げる晴礼。

 思えば、展望台のような高所に行くことはあったが、こういう橋や棟の上だったりという真下が見られるような場所にくるのは初めてかもしれない。展望台は大丈夫でも、自分が落ちる想像ができてしまう橋の上などが無理という人は結構いる。


「今、俺が晴礼をふりほどいてダッシュで逃げたら……」


「ここからセンパイを突き落としますね、はい」


 冗談でもなく真顔で言われた。はいじゃないが。こええよ。


 幸いなことに今日は風も強くなく、橋も揺れていない。中程まで進んだところで、俺は晴礼を伴って、海の方を向いた。大きな波が、黒くでこぼことした岩肌に叩き付けられ、水しぶきが潮風とともに舞い上がる。


 数千年前、近くにある大室山という火山が噴火した際に、溶岩が海岸に流れ出たことで生まれた荒々しい断崖絶壁。普通の海岸とは違う特異な景色を見るために、多くの観光客が訪れる。


 【城ヶ崎海岸じょうがさきかいがん】。静岡県伊東市の西に位置する観光名所だ。連なる絶壁や先ほどの灯台、俺たちがいる吊り橋や、ダイビングの名所としても知られる綺麗な海を一望することができる。


「う、うぅ、や、やっぱり怖いですぅ……」


 橋の中程まで来た晴礼は、今にも泣き出しそうなほど目を潤ませていた。


「そんな下ばっかり見てないで、前、見てみろ」


 足下ばかり気にしていた晴礼が、顔を上げた。


「ふぁ……」


 先ほどまで顔を青くしていた晴礼が、吐息を漏らす。


 徐々に光を帯び始めていた空が、一斉に輝き始めた。

 光のなかった世界に、水平線の向こうからゆっくりと色彩が広がっていく。遙か彼方にある太陽が地球の反対側を照らし、そして再び俺たちの前に姿を現す。揺れる水面が太陽の光を一身に受け、絶壁の海岸とともに、幻想的な世界が降りる。

 雲の切れ間か天使のはしご、エンジェルラダーと呼ばれる光の帯が降り注ぎ、まるで別世界に迷い込んだような錯覚に陥る。 


 この【城ヶ崎海岸】で、俺がもっとも好きな景色だ。


「綺麗……」


 濡れた瞳が、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。 

 高所の恐怖より、目の前の景色に心を動かされていることが、ありありと伝わってきた。

 ほとんど接点のない年下のクラスメイトとの旅も、二十日も続けば日常になる。それでも、実際は俺と同じくらい恥ずかしがり屋であったり、高い場所が苦手だったり、びっくりするほど純粋だったりと。それでもまだまだ、俺はこの子について知らないことが多い。


 ずっと一緒にいたあいつがいなくなり、誰かと旅をするなど、考えたこともなかった。


「いい景色だろ」


「はいっ、すごい〈まほろば〉です。怖いですけどっ」


 笑いながらも、足はかくかく震えているようだった。


「ぷっ……」 


 それがおかしくって、思わず吹きだしてしまった。


「あっ、また笑った! ひどいです私本当に怖いんですからねっ」


「だからこうして、逃げ出したい思いを我慢して腕を握らせてやってるだろ」


「か、彼氏さんなんだからそれくらい許容してくださいっ」


「はいはい、わかってますよ。お姫様」


 むぅーっと口を膨らませながらも、晴礼は俺の腕を抱いたまま、器用にカメラを操作する。

 そして、吊り橋から広がる【城ヶ崎海岸】の景色を写真に納めた。

 まだ怖い気持ちも残っているようだが、それでも晴礼の目は、穏やかに〈まほろば〉へと向けられていた。


 不意に、俺の意識が橋の下へと行く。


「……」


 だが、不思議と暗い考えはやってこなかった。


 今まで何度ここに訪れても、バカみたいな考えばかり浮かんでいた。

 それがやってこないのはやっぱり、この少女のおかげなのだろうか。

 旅も折り返しを過ぎているということは、これまでの旅と同じ時間を費やせば、それで旅は終わってしまうということ。


 その旅の終わりを、どうしても寂しく思ってしまう自分がいた。それほどまでには俺は、晴礼との旅を、楽しく思ってしまっている。

 俺がこれまで一人で見てきた景色を、一緒に旅をして、同じ景色をともにしてくれる晴礼は、いつも子どものようにはしゃぎ、心を動かしている。感情の起伏が乏しくなってしまった俺にとって、晴礼の存在は晴天に浮かぶ太陽のように眩しい。


「晴礼」「渉瑠センパイ」 


 声が重なった。


「ん、ごめん。なんだ?」


 小さく笑みをこぼしながら俺が尋ねると、晴礼もおかしそうに笑った。


「こちらこそ、ごめんなさい。えっとえっと、この景色を見てて、〈まほろば〉のことで、思い出したことがあるんですけど」


「本当か?」


「はい。今更で、申し訳ないんですけど」


 眉を寄せる晴礼に、俺は笑う。


「今更彼氏にそんな気を遣うな」


「あはは、ありがとうございます。それで、やっぱり見晴らしのいい、自然の場所だったのは間違いないと思うんです。それと、ここもどこかその場所と重なるんですけど、日の出と、大きな山と、海、いや水辺? が見えた気がするんです」


 どこか切なげに、大切な思い出の箱から宝石を探すように、晴礼は言葉を紡ぐ。


「私、その場所までの道を、お父さんに手を引かれて、歩いた気が……」


 晴礼の声は、大波の音によってかき消された。

 日の出、大きな山、海。たしかに自然の観光名所には多い場所だけど、それよりも……。


「その三つが揃うのって、瀬戸内近辺にたくさんあるんだけど……」


「……そうですよねそうなんですよね」


 自嘲気味に笑みを浮かべて、しゅんと肩を落とす晴礼。


 瀬戸内は島と海峡が複雑に入り交じる多島海である。

 探さなくてもほとんどの場所から山を見ることができ、適当に車を走らせれば海が見える。それが瀬戸内だ。

 また山々には展望スポットも多く、朝日や夕日を見ることができる場所もいくつもあり、多島海との組み合わせは最高に綺麗な景色となる。


「でも、近所だったって覚えもないんですよね。瀬戸内はよくお父さんと回ったんですけど、同じくらい、日本中に連れていってもらったんです。もうずっと前……いっぱいいっぱい……」


 感情を押し隠すように、なにか大事なものに触れるように、それでいて寂しそうに晴礼は言った。


 切なげな眼差しに、心がざわついた。踏み込むことができない深淵が、微かに頭を過ぎる。

 思考を振り払い、再び目の前の【城ヶ崎海岸】へと視線を向ける。

 晴礼の言う〈まほろば〉のことで、いくつか疑問に思ったことがある。


 瀬戸内は、公共交通機関が都会に比べて発達していない。だから移動はもっぱら車移動で、直接観光名所に訪れることができる。ただそうなると、歩く必要はない。晴礼と初めて訪れた【大平山展望台】もそうだったが、駐車場のすぐ目の前が展望スポット、というような場所が多いのだ。【摩耶山掬星台】のような場所は、途中まで車でそこから先が歩きになるが、晴礼はあの場所では特になにかを思い出すことがなかった。観光名所ならそれほど歩くイメージはないし、穴場はそもそも子どもを連れていくにはよろしくない。体力面もそうだが、なにより自然の名所は危ない場所も多いのだ。


 この【城ヶ崎海岸】と似た雰囲気を持つ場所。

 日の出、大きな山、海……。

 いや、海だと判断するのは早計なのか? 水辺……海でない水辺とするなら……。


 額に手をやり、これまで旅をしてきた道筋をたどる。


 あの日、一人家に戻ってきたとき、俺を待っていたプリウスとともに旅を始めたときから、今日に至るまでの短くはあるが途方もなく長い旅路。

 意味があるかどうかなんて、考えてもなかった。意味があってほしいと、願っていた。

 その、行く末に。


 だけど――


「ごめんな、晴礼」


「え? な、なにがですか?」


 戸惑い瞳を揺らす晴礼に、俺は小さく頭を振る。


「せっかくここまで一緒に旅をしてきたのに、お前の行きたいまほろばまで、送り届けることができないかもしれない」


「い、いやそれは……」


 わかってはいる。晴礼が求めているものはまず叶うことがない、無茶な願い。

 だがそれでも、晴礼をその場所まで送り届けてあげたかった。

 今回の旅が晴礼にとってどれほど価値があるのかはわからないが、晴礼が前に進むために、きっと必要なものだと思ったから。

 ほとんどの人は、普通に生きる人たちは旅なんて必要としない。でも時に、旅は人にとってなくてはならないものになる。立ち止まり、嘆き悲しむだけではなにも解決しやしない。じっとしてなどいられない。前に進まなければ、生きることなんてできない。


 俺がそうであるように。そして、晴礼自身がそうであるように、


 旅の行く末に、なにが待っているかなんて、わかっていたことなんてない。だけど、きっと意味があると信じてる。

 まだ、時間は残っている。


 朝日が昇る景色を前に、俺はすっと息を吐く。


「今の話を聞いて、一つ思い当たる場所がある」


「……本当ですかっ?」


 晴礼が目を見開く。


「いや、これまでの場所と同じで、俺の好きな場所ってだけだ」


 晴礼が新たに思い出した手がかりと合致するかどうかといえば、正直微妙なところではある。

 ただ可能性は、ある気がする。


「そこを、最後の目的地として行ってみようと思う」


 俺からの、旅の終わりの提示。


「最後……ですか……」


 寂しそうに目を伏せる晴礼の頭に、ぽんと手を乗せる。


「まだ時間はあるさ。あちこち寄りながら、その場所に行くつもりだ。それに……」


 旅は、夏休みが終わっても、続けられる。

 その言葉を言いかけて、喉で止めて飲み込んだ。今この場でそれを口にするのは、あまりにも卑怯な気がした。あるいは、俺が口にしたくないのか。


 晴礼からは見えない場所で、拳をきゅっと握る。


 思い至った場所は、俺が旅に出る際には必ず立ち寄る場所だ。今回は行こうかどうか迷っていた。俺たちが今いる、静岡県伊東市からはそこそこの距離がある。

 しかしまたあちこち巡りなら向かえば、最終目的地としては悪くない。


「それに、なんですか?」


 尋ねられ、俺は一つのため息をともに笑みを漏らした。


「いや、せっかく旅だ。たまにはちょっと、贅沢をしよう」

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