旅の始まり -1-

 一学期最後のホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り響く。退屈な時間から解放され、クラスの空気が一気に弛緩した。


 明日から全校生徒が待ちに待った夏休みだ。

 来年受験生になれば、夏は遊んでいられない大切な時期だ。多くの二年生にとって、今年の夏休みは実質高校生活最後の夏休みとも言える。生徒によっては、二年でも今から忙しいんじゃボケェ! とぶち切れる者もいるだろう。


 しかし、受験なんて小指の先程度も考えていない俺には知ったことではない。ご愁傷さま。


 実際、この時期どころかとっくに勉学に励んでいる人もいるだろう。それでもやはり、多くのクラスメイトは各々のグループに分かれて、夏休みの予定を楽しげに話し合っている。


 かくいう俺は、このクラスになって数ヶ月が経過した今も、孤高の一匹狼を気取りまともな友人一人いない。つまはじきかつ厄介払いされているとしか思えない窓際の席で、ぼんやりと青空を眺める。


「あ、あの、広瀬ひろせ先輩……」


 次々に生徒が帰宅していくなか、一人自分の席で呆けていると、女子クラスメイトが話しかけてきた。


「こ、これ、先生から広瀬先輩に出すようにって言われたプリントなんですけど……」


 声を上ずらせながら差し出されたプリントは、担任教師から集めろと命令を受けていた提出物。


「うん、ありがとう」


 顔に笑みを貼り付けてお礼を言い、受け取ったプリントをファイルにとじる。最後の一枚だ。


「あ、あの、もしかして、私のプリント待ちで帰れなかったりしてましたか?」


 おずおずと、大蛇に睨まれた子猫のように怯えた様子で尋ねてくる女子生徒。


「いやいや、違うよ。そういうわけじゃない。先生に残れって言われてるだけだよ」


 プリント回収も残っている理由の一つではあるのだが、いちいち口には出さない。どちらにしたって、一度職員室に行った担任教師が戻ってくるまで帰ることはできないのだ。


「それと何度も言ってるけど、同じクラスメイトなんだからタメ口で話してくれいいんだよ? 俺はたしかにみんなより年上ではあるけど」


「あ、は、はい。そうですよね。き、気をつけます」


 女子生徒は敬語でそう言い、ぺこりと頭を下げる。

 そして自分の机の上に置いていた荷物を掴み取り、教室の外で待っていた友だちと逃げるようにぱたぱたと走り去っていった。


 やれやれとため息を一つ落とし、再び窓の外へと視線を逃がす。


 別に仲良くなりたいわけではない。自分がそういう和気藹々とした雰囲気と対極にいる時間はある。ただクラスメイトから向けられる遠慮と気遣い、同情のようなものがこもった視線。それを受けるとどうしても、心を尖った針で突かれるような痛みをぴりぴりと感じる。


 こちらも距離をとった対応を返すこともあってか、お互いがどうしてもよそよそしくなる。


 しかし先ほどの女子生徒、というよりたいていのクラスメイトが俺を敬遠するのもわかる。同じクラスの学友に、数歳も年上の人間がいればやりにくいのも無理はない。

 未だにまともに話せるクラスメイトが片手で数える程度しかいない。その現状が十分すぎるほど切ない高校生活を物語っている。


 まあそんなことは考えても仕方がない。居残りを命令した担任教師がやってくるまで、今後の予定でも意識を巡らせよう。


 不運なことに、念のためにと必要な持ち物などを書き記した手帳を先日なくしている。しかし、荷造りに自信がないのはいつものこと。深く気にしても仕方がない。


 ふと、最近時々目を向けてしまう、離れた席を見やる。


 もうホームルームが終わってしばらくたつのに、その席にはまだ女子生徒が座っていた。

 普段は用事があるとかで、我先にと帰宅しているのだが、今日は珍しく遅くまで残っている。友だちが少ないわけではなく、むしろ交友関係は広いイメージの女子生徒。だが今は一人のようだった。誰かと話しているわけでも、待っているわけでもなさそうだった。

 ただ、机の上でなにやら大きな機械をいじっている。


「あっ――」


 突然、女子生徒が声を上げて立ち上がった。そして、机と椅子の間を縫うようにしてどたばたと駆け抜ける。背中の中程まである長い艶髪がさらさらと舞い、ブレザーのスカートがふわりと浮かび上がる。


 その小さな手には、カメラが握られている。華奢な体には不釣り合いな、大きな一眼レフカメラだ。


 女子生徒は窓際まで一気に走り抜けると、勢いよく窓を開け放った。

 窓のすぐ外を、青空を泳ぐように一羽の揚羽蝶が飛んでいた。ふわふわと漂う揚羽蝶に大きなレンズが向けられ、シャッターが切られる。

 揚羽蝶は風に誘われて、教室から見えない場所に飛んでいった。シャッターを切った本人は名残惜しそうに蝶を見送り、手元のカメラをのぞき込んだ。

 今し方撮影したであろう写真を眺め、にんまりと笑みを漏らす。


 クラスメイトの女子、花守はなもり


 誰もが目を惹く黒く長い髪に、ぱっちりとした大きな目が印象的な女子生徒だ。日光厳しい真夏だというのに、半袖ブラウスからのぞく肌はシルクのように白い。嬉しそうに体を揺らしながら、撮影したばかりの写真を見てご満悦な様子だ。


 いつもどこにいくにもカメラを持ち歩き、幸せそうにのほほんと笑っている。悩みなんて欠片もないような、曇り一つ感じさせないその笑顔で。

 根暗で日陰者の俺のような人間が直視すれば、火傷しそうなほど明るい女子生徒である。誰といるときもニコニコ笑顔を絶やさずに、快活に、生きることすべてを楽しんでいるかのような、そんな少女。


 相変わらずだな。


 そんなことを考えながら眺めていると、突然後頭部に衝撃が走った。


「おい、年下のクラスメイトを視姦するな」


 とても高校教師とは思えない台詞を吐いているのは、担任教師の赤磐あかいわ先生だ。

 きっちりパンツスーツを着込んだ二十代半ばの若い女性教諭。男勝りの強い性格に、スタイルもよい完璧美人風の先生で、男女問わずカルト的な人気を博している。俺の頭を叩いた武器、出席簿を肩に当てて、黒縁眼鏡の向こうからじろりと俺を見下ろしている。


「体罰だ。もう俺、夏休み明け学校に出てこられません」


「二度留年してもまだ卒業目指して高校に居座っているやつが、今更なにを言っているんだ。暇人の癖に」


 そういう問題ではない。

 大体、俺に残れと命令しておいて暇人とはすごい言いぐさである。この暴力教師。


「お前、今回はどこまで行くつもりなんだ?」


 わずかに眉を上げながら尋ねてくる赤磐先生に、俺は小さく肩をすくめる。


「今日から夏休みの終わりまで、巡る場所は目標二百ってことです」


「お前は本当にどこまでも行くな」


「どこまでもは行けませんよ。行けるところだけです」


 再び頭を叩かれた。なんで。


 赤磐先生は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、ため息とともにかぶりを振る。


「なんでもいいが、事故だけはするなよ。未だに教頭からは、法的や校則としては問題ないといっても、在学中にそんなことを許すなんてどうなんだって、ねちねち言われてるんだ。あんのクソ教頭っ」


 赤磐先生の表情に、一瞬凶悪な感情がこもる。先生、その顔はやべーよ。


「強制的に止めさせられないところが、義務教育ではない高等教育の難しいところですよね」


「わかっているなら自粛しろ。もし私が高校を辞めないといけないようなことになれば、お前に責任をとってもらうからな」


「……」


 すっごい嫌な顔をしてしまった気がする。やばい顔。


 再び、出席簿が振り上げられる。

 思わず身構えられるが、その出席簿はぽんと頭に載せられた。


「せめて宿題くらいはやってこいよ。私にも体裁がある」


「安心してください。昨日の時点で宿題は全て片付いています。なんなら今日にでも提出できますよ」


「……お前、そういうところ本当にぬかりないな」


「用意周到だと言ってください。せっかくの夏休み、意識の片隅にでも宿題のことがあるなんて最悪です。徹底的に楽しむのが俺のモットーです」


「その宿題が無駄にならないように、無事に帰ってこいよ」


 赤磐先生はそう言うと、今度は拳でこつんと優しく頭を小突いた。そして机の上に置いていた提出物のファイルを手に取ると、すばやく枚数を確認し、手をひらひらとさせて去っていった。


 心配してわざわざ来てくれたようだ。まだ若く、接し方も滅茶苦茶な先生ではあるが、異端である俺のこともしっかりと見てくれる。いい先生ではあるのだ。


 俺も無用な心配をかけたいわけではない。だが、それでもやめるわけにはいかない。


 胸にそっと手を当てて、今もずっと息づいている鼓動を確かめる。

 どくんどくんと、命の脈動を感じさせる、それ。


 深々と息を漏らし、窓際に視線を向ける。

 既に花守の姿はなく、開かれた窓から吹き込む風が、クリーム色のカーテンを揺らしているだけだった。

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