第11話:かくれんぼの後、いつもの帰り道

「ツグム、あの公園に立ち寄ってもよい? まだ生きてるホットスポットがありそう。端末の充電が切れてしまって……」


 無機質な外観は都市空間を合理的に活用した設計なのだろうが、同じ建物がどこまでも続く集合住宅街に、立原たてはらツグムは若干の疲労を感じていた。だから、佐伯さえきトワが向かった小さな児童遊園は、彼にとって砂漠の中のオアシスのようなものだ。


 公園の敷地内には灰色の公衆電話がいくつか設置されていて、いずれも無線ローカルネットワークシステムのロゴマークが青色に点灯していた。


「あそこで充電できるの?」


「ええ、少し電気を借りるわ」


「なら、君が端末を充電をしている間に、あそこの手洗い場で水を補充してくるよ」


 安全な飲み水が確保できるという保証もなかったが、ツグムは空になった水筒をリュックから取り出した。


 トワはうなずくと公衆電話機に向かう。灰色の電話機はいつの時代も同じような形をしている。急速に進化を遂げた携帯端末とは対称的だ。そのアナログなシステムゆえに、どの年齢層においても直感的に操作できるというメリットがあった。だからこそパブリックな通信端末としての役割を担うことができただろう。


 彼女は電話機の背部に接続されている電源ケーブルをゆっくり取り外すと、自分の端末側面から延びるコードを電源タップへ接続した。程なくしてぼんやりと青く光る端末画面を覗き込んだトワは、メッセージアプリケーションを起動させた。いつもと同じ受信通知画面に、小さくため息をつく。


 そんな彼女を横目に、ツグムは公園の端にある小さなコンクリート製の小屋に向かった。砂利を踏みしめた時に鳴り響く音が、周りを取り囲む高層住宅の壁面に反響しているかのように立体的だ。


 ツグムは小屋の入り口に生い茂る草木を両手で押しのけ、内部に足を踏み入れた。ひんやりした屋内に入ると、自動で蛍光灯が点灯し、辺りを照らす。むろん、この場所はトイレとして設計されたものだろうが、手洗い場には飲用不可のプレートは張っておらず、飲み水としても使用できるようだった。


「ここには電気が来ているんだ……」


 この街の電力は列車内から見えた膨大な数の風力発電で担われているのだろう。それだけではなく他の発電システムも存在するのだろうけれども、それは今のツグムにとって、どうでもよいことの一つであった。


 流し台の前に立って、銀色の栓をひねってみると、蛇口からポタリポタリと水滴が落ちてくる。


「やっぱり、水は止まっているかな……」


 そうつぶやいた瞬間、蛇口の内部はゴボゴボと小さな音を立て始め、やがて流水と呼べる程度の水が溢れ出した。蛇口の下に両手を広げ、流れ落ちる水をすくってみると、液体に強い濁りはなく、その温度も冷たかった。


 ツグムは念のため数秒の間、水を出しっぱなしにしてから、蛇口に水筒を当てた。流水の音は心地よい。カプセルの中で眠っていた時に、継続的に聞こえてきたのが水の流れる音だった。液体の中にいたのだから当たり前かもしれないが、あの心地よさは、人の覚醒を妨げるには十分すぎるほとの強い力を持っている。そう、ツグムは改めて感じていた。


 水筒の内部が水で満たされると、蓋を強めに閉めながら、流し台のわきに置いた。ツグムは先ほどと同じように、両手を蛇口の下に差し出し、流れ落ちる水を掌に貯める。そのまま手ですくいとった水面に顔をうずめてみると、ひんやりとした感触が、熱を帯びた瞼を冷やしてくれた。


「みぃつけた」


 はっきりした輪郭をもつその声に、ツグムの背筋は一瞬にして凍りついていく。聞こえるはずのない声が聞こえるということの恐ろしさと不安。その声は紛れもなく伊坂サオリのものだ。


「急にいなくなっちゃうんだもの。大柳おおやぎくんと帰りが遅いねって、心配していたのよ」


 生暖かくなった水が、両手の指の隙間から滴り落ちていく。ゆっくりと正面の鏡に視線を向けると、ツグムの後ろには制服姿のサオリが立っていた。駄菓子屋から出てきたときと、全く同じ含み笑いを浮かべながら、ツグムをじっと見据えている。

 

 手洗い場の廃墟とサオリの姿、その異様な光景は一変して日常の色に編みかえられていく。頭が覚醒していて、身体がまだ覚醒していない、寝起きに感じるそんなギャップと似ているが、現実に起きていることはむしろその逆で、身体が覚醒していて頭がまだ覚醒していない。


「ここはっ!?」


 地平線に沈んだ太陽の残り陽が、窓ガラスを通じて微かに入り込んでくる。安定機のジーンという振動音が鳴り響き、天井の蛍光灯が点滅を繰り返して、やがて消えた。


「蛍光灯、切れちゃったみたい。帰りがけに守衛さんに伝えないとね。もう、男子トイレに入るの勇気いるんだから。面会時間は終わりよ。早く帰りましょっ」


 いま夢を見ていないと、どうしてそう言えるのだろうか。そうした問いは夢の中だけでなく、現実世界でも有効だ。本当はどちらの世界に足をついているのか、明確な根拠など存在しないのだから。生きていることはむしろ、終わらない夢を見続けていることなのかもしれない。


「どうしたの? 顔が真っ青よ」


 二つある蛍光灯のうち、一つが消えてしまったせいか、サオリの表情を読み取れないくらいにトイレの中は薄暗い。


「ねえ、立原くん。あのね、あたしは君に傍にいてもらいたいと思うの」


「サオリの言っている意味が……よく分からないよ」


「こういうことを女の子から言わせてしまう君のこと、やっぱり好きだな」


「な、何を……」


 水道の蛇口から一定の間隔で水滴が垂れ、ぴちゃりと音をたて続けていた。どこか遠くで、かすかな靴音が聞こえてくる。ゆっくりと、でも確実に近付いているようだ。廊下を革靴で歩くときのあの歯切れの良い靴音。ツグムは助けを呼ぼうとするが声はもう出なくなってしまった。


「何も気にする必要はないのよ」


 サオリはゆっくりとツグムに歩み寄っていく。やがて彼の正面で立ち止まると、細い両手をツグムの腰に回した。心臓があり得ないほどの血流を抹消に送り出し、脳内を駆け巡るアドレナリンが、ツグムの論理思考を奪い去っていく。


「そう、そのままね、あたしを抱きしめてくれれば、それで良いの。それだけで君は十分に幸せになれる」


 視界はクリアなのに、意識がだけが薄れていく。ゆっくりと確かに消えていくもの、それは感情であり、情動であり、心そのものだ。


「や、めて……くれ」


 絞り出した声も、洗面台を流れるかすかな水音にかき消される。ツグムは自分の言葉が抜き取られていく瞬間なのだと感じた。


『社会全体の幸福総量を最大化することで、人は文化を失ったのよ』


 耳に突き刺さる鋭いトワの声に意識が逆戻りしてく。一瞬だけ垣間見えたサオリの表情は怒りに震える魔物のようだった。この数分の出来事が、脳内で逆再生されるかのように、景色は歪み、そして色褪せ、やがて消滅した。


 気がづけば薄暗い手洗い場の中にツグムは佇んでいた。荒い呼吸を整えながら鏡に映った自分を見つめる。頬を伝う汗が、現実に紛れ込む非現実のリアリティーを確かに物語っていた。


「ツグム……」


 背中に感じていた体温はトワのものだった。屋内を通り抜ける風の音はどこまでも優しい。


「君が、助けてくれたんだね」


「見つかってしまったわ。先を急ぎましょう」


「見つかったて誰に?」


「ユーフォリアシティズムの幻影よ」


「ユーフォリア……」


「説明はちゃんとする。だから一緒に来てほしい」


 二人は集合住宅が立ち並ぶ灰色の街を抜けると、緩やかな坂道を先急ぐ。両足の重たさと息苦しさに、思わず歩みを緩めてしまいそうになる。しかし、高圧電線線の鉄塔が目の前に現れた時、ツグムは思わず息をのんだ。波の音が聞こえるわけじゃないのに、微かに潮の香りが漂ってくるような感覚。車道と歩道を隔てている色あせたガードレールは、確かに見覚えのあるのものだった。


「トワ、この場所……」


 先を歩くトワは、歩みを止めツグムを振り返った。


「世界の果てを見たことがある?」


「見たこと……ないよ」


「そう。なら一緒に見に行きましょう」


 坂道の両脇には閑静な住宅街が広がっていた。もともとは手入れの行き届いた外構だったのだろう。今となっては、この世界のあらゆる場所がそうであるように、一様に緑の植物が生い茂っていた。しかし、緑に包まれている風景に中に、ところどころ、ツグムの記憶と重なる断片がちりばめられている。それは彼にとって、どこか懐かしく、暖かいものであった。


「ここよ」


 トワが立ち止った家の表札には、佐伯の文字がはっきりと刻まれていた。その下には小さく立原ツグムと書かれている。


「帰ってきたのよ、ツグム。私たちの家に」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る