レベルワンからの弓使いライフ

阿井上夫

第一話 一

 後世に名を残す物語というのは、始まりからドラマチックかつ神秘的なことが多い。


 例えば、過去に起こったであろう大規模な戦乱の情景や、未来に起こるであろう緊迫した対峙の瞬間など、読者の興味をがっちり引きつけずにはおかない重要な場面が物語の冒頭に置かれる。

 しかもそこで主要登場人物の一人が、後になってから重要な意味をもつ思わせぶりな台詞セリフ――露骨な伏線を、おもむろに呟いたりなんかするものである。

 ところが、その時の俺は昼休みの社員食堂できつねうどんを啜っていた。

 無論、この「きつねうどん」がのちのち何か意味のあるフラグになる、というわけではない。その日は昼休み寸前に得意先から電話がかかってきて、食堂ダッシュに出遅れた。

 電話が済んで食堂にやってくると、すでに目当ての定食は売り切れていて、カレーか麺類しか残っていなかった。昨日の昼が似たような理由でカレーだったため、消去法でうどんを選択しただけのことである。

 もし、ここで俺が遅れて食堂に来なかったとしたら、世界は滅亡に至らなかったかもしれない――などという並行宇宙の世界線分岐のようなこともない。おそらく、人気のミックスフライ定食を食べることができただけだろう。

 そんな、なんの変哲もない普通の日常の一コマの中で、俺が背中を丸めてぬるいうどんを啜っていると、

「木下さん、お食事中のところちょっと宜しいですか?」

 と、急に後ろから声をかけられた。

 聞きなれない男性の声である。しかし、俺の名前を知っているということは、全く無関係な人ではないはずだ。

 そんなことを考えながら俺が振り向くと――そこには『白髪頭で小太りの、髭を生やしたらフライドチキンを売っていそうな人物』が、にこにこ笑いながら立っていた。

 困った。顔と名前が全然一致しない。

 というか、『名前がサンダースでないことだけは確か』ぐらいしか頭に思い浮かばない。

 しかし、自分のほうは名前を呼ばれたのに『どちらさまですか』というのも失礼である。とっさに俺は、

「はあ、その、構いませんけど」

 と、言ってしまった。すると白髪の男は、

「そうですか。それではちょっと失礼しますね」

 と言いながら、俺の正面から少し右に逸れた席に座った。

 目線の高さがほぼ俺と同じだから、身長は百七十センチの後半ぐらいということになる。外見から想定される年代の中では、結構良い体格のほうだろう。

 それで中年ともなると、自然に威圧感が生じそうなものだが、目の前ににこにこ笑いながら座っている人物からは、そのような雰囲気は微塵も感じられなかった。

 むしろ、それとは真逆の『のほほん』とした印象を受ける。まるでホッキョクグマの大きなぬいぐるみのような人物である。

 そして、そのことからやっと俺は、その人物の正体が分かった。

「あの、総務課の宮内さん――ですよね?」

「はい、宮内みやうち健司けんじと申します。よく私の名前をご存じですね。初めてお目にかかるはずなのに」

 あ、そもそも最初から初対面であることはばれている。だったら変な遠慮なんかするんじゃなかった。

 俺は少しだけ顔が赤くなるのを感じながら言った。

「はあ、その、総務課の友人から話を聞いたことがあるので。最近、他の会社から移ってこられた方ですよね?」

「そうです、そうです。ああ、大島さんから聞かれたんですね。それなら話が早いなあ」

 そう言って、宮内さんは目を細める。俺は別な意味で目を細めた。

「あの、どうして俺が大島の友人だと分かったんですか?」

「それはもちろん、大島さんに木下さんのことを教えて頂いたからですが」

「はあ、そうですか――」

 必然的にそうなるわな、と俺は考えながら話を続けた。

「――で、俺に何か御用ですか?」

 すると、宮内さんはわずかに眉を潜めて、申し訳なさそうにこう言った。

「それがですね。『ザ・ワールド・オブ・メイズ』について、教えて頂けないものかと思いまして」


 *


『ザ・ワールド・オブ・メイズ』は、「VRMMO(バーチャル・リアリティー・マッシブリー・マルチプレイヤー・オンラインゲーム)」である。

 米国の老舗ゲームメーカー『メイズ・アンド・ドラゴンズ』社が二〇二五年に発表したゲーム・システムで、簡単に言ってしまえば「仮想現実空間上のアバターになって多重構造を有する迷宮世界で冒険する」ゲームだ。

 欧米系のゲームは、日本製のようにユーザー・フレンドリーな仕様になっていない場合が多いが、中でもこの『ザ・ワールド・オブ・メイズ』は硬派な世界観で知られている。

 執拗なまでに現実感が追求されており、レベルやステータスという概念はあるが、それが数値情報として仮想空間上に表示されることはない。あくまでも個人データである。

 また、アイテムは身に着けるかバックパックに入る分しか携行できない。

 迷宮の途中でマップを保存できないし、外に戻るワープルートも存在しない。

 辛うじて、迷宮の外に出たところでマッピングデータを保存出来るところが、現実との相違点である。

 このハードな設定が意外にもウケて、二〇二九年時点で史上最多の登録者を誇っていた。

 一方、使用方法は至って簡単。

 ユーザーはベッドや椅子などに身体を預けて、頭部に網目状のBMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)とFMD(フェイス・マウント・ディスプレイ)を装着し、首に太いバンドを巻く。

 その後、目を閉じて『オン・ザ・ワールド』というコマンドを音声入力すれば、脳内に別世界が広がるようになっていた。

 視覚情報は、FMDから生じる疑似網膜情報信号を網膜から直接取り込む。

 聴覚情報は、インナーイヤフォンによって提供され、外部の音はノイズ・キャンセリングされている。

 触覚、嗅覚、味覚などの情報は、頭にかぶったBMIが電気的な刺激を発し、それが大脳に送り込まれて生成される。

 そして、首のバンドが脳からの運動信号を脊髄の手前で読み取ると同時に、対信号を発生させて末端筋組織への伝達を相殺する。

 その一方で検出された運動信号は解析され、視覚情報に反映されていた。

 また、このVRMMOには他にも珍しい特徴がある。

 それは、利用者登録後に行われる『感覚異常を最小限に抑えるための実際能力測定試験――通称『体力測定』だ。

 創成期のVRMMOは、現実の感覚よりももっさりした動作しかできなかったが、技術が進歩するにつれて、それが実際の感覚に近づき。そして追い越していった。現在のVRMMOでは、現実ではありえない動きすら実現可能となっている。

 そこで問題となったのが「感覚異常」だった。

 初心者の段階で、VRMMOの超人的な動きを体感してしまうと、どうしても実生活にその影響が出てしまう。だからといって、実際の感覚よりも鈍いところからスタートすると、今度は初期の段階で脱落者が多発する。

「とろくて面白くない」からだ。

 そこで、実際の体力に近い動きを実装するために、『ザ・ワールド・オブ・メイズ』では最初のインストラクションで、操作者本人のその時点の数値を測定することになっていた。

 ゲーム内のアバターは、現実世界の自分と同じ身体能力を初期値とし、経験値を累積することで、その数値に対して補正をかけることができる。

 また、通常の市街地では感覚異常を避けるために初期値が使用されるが、フィールドに出るとその経験値補正が有効になる。

 ある特定の環境の中でしか発現しない補正能力であるからこそ、現実世界と仮想世界の感覚的にシームレスな行き来が可能となるのだ。


 *


「ですから、いわゆるチートというのは起こらないわけですね」

 俺がそこまで説明すると、宮内さんは不思議そうな顔をした。

「チート、ですか?」

「ああ、すみません。それも聞いたことがないんですね――」

 俺はなにか別な言い方を考えてみる。

「『チート』というのはゲームの用語で、『卑怯なほどに恵まれた初期の能力』のことです」

「ふうん。そんな力があったら便利ですが――あれ、でも、オリンピック選手が体力測定を受けたら、最初からすごい数字がでるんじゃありませんか」

「確かにそうなります。しかし、オリンピック選手はそんなに大勢おりませんし、しかもその優位性は初期値だけのことですから」

「ああ、そういうことですか。なるほど、なるほど」

 目の前でしきりに感心している宮内さんを見ながら、俺は思った。


 ――この人、なんでゲームなんかやりたいと思ったんだろう?

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