第3幕

  舞台は第二幕と同じ。日時は第二幕から二週間ほど経った、十月の三五夜。

 夜空には望月が懸かり、その影は上手の庭を隈なく照らしている。ただし、夜空には月を隠しおおせるほどに大きな雲がたなびいている。

 第三幕では、秋の夜にふさわしく月影は視覚的に、虫の音は聴覚的に、秋の情緒を醸し出している。舞台中央からやや下手寄りの室内は、夜になってカーテンが閉められている。

 その室内には誰かがいるようであるが、暗闇の中のため、観客からは見えない。幕が開くと、庭に黒田玲子、頼宗母子が板付いている。秋の夜長に庭を漫ろ歩いている様子。


●第一場●


玲子 〈頼宗、ねえ。ちょっと、聞いているの?頼宗、ねえったら〉

頼宗 〈何だよ、聞こえてるよ。聞こえてるから、そんな甘ったるい声聞かせないでくれ。まったく、心持ちが悪いぜ〉

玲子 〈ふふ、それもそうね。ごめんなさい。ねえ、あの月を見てちょうだい。煌煌として一点の翳りだに無いわ〉

頼宗 〈そうだな。古より、秋の月は、様々な風流人にめでられて来たと言うから、俺等も一つ、心有る雅人の仲間入りと行きたいね〉

玲子 〈マァ、「古より」なんて、一廉の、どこぞの国文学者様のような口振りをして・・・〉

頼宗 〈ははは、なら俺も一丁、『枕草子』に関する研究論文でもしたためて、末は帝国学士院恩賜賞かな。いとをかし、いとをかし〉

玲子 〈そうよ、それがいいわ。そうすれば、永司さんの専攻する『源氏物語』と共に、国文学の二大権威並び立つわ〉

頼宗 〈そうなりゃあ、傑作だったろうな。もっとも、時既に遅し、今さら何を〉

玲子 〈今さら、なんてことは決してないものよ〉

頼宗 〈そもそも、そんな頭脳が俺にあったら、一高から帝大へととっくに進んでいるだろうよ。いや、俺なら、海軍士官学校から兵学校、末は海軍大学校かな。マァ、別に、進みたいという希望も持ち合わせちゃいないがね。おっと虫が〉

玲子 〈あら、これでもわずかばかりだけど期待もしていたのよ。でも、秋の虫を踏み潰す国文学者なんてのも、有り得べからざる代物だわ〉

頼宗 〈ははは、俺には日夜を耽美に費やすような生き様が柄に合う。それも、こんな美じゃないぜ(ト足もとの虫の拉げた死骸を見下す)

街の中心に屯する美さ。その美には季節なんざ関係がない〉

玲子 〈どうでもいいことよ。それより、肝心なのは、最近あなたと倫子さんの仲はいかがなものなのかしら。余り仲睦まじいような気配が感ぜられないのだけれど・・・ちゃんと心配りしているの?〉

頼宗 〈心配りも何も、そんな人目につくような素振りを見せちゃあ、元も子もない。あの夫婦にばれてしまうよ。そうなりゃ、万事休すなんだから。いやでも隠隠として来るだろうよ〉

玲子 〈悠長なものね。分かっているの?余り大人しく、慎ましくし過ぎていても、魚は逃げてしまうのよ。あなたが万が一失敗して、倫子さんとあの海軍の兵隊とがまとまってもご覧なさい。私達母子の青写真はたちまち灰になってしまうのよ〉

頼宗 〈ああ、ああ、分かってるよ。しつこいなぁ・・・別に自慢することでもないが、俺だってその扱いにはこなれたものなんだぜ。伊達に、あいつらに「玲子さんの碌でもない放蕩息子」と呼ばれちゃいないよ〉

玲子 〈なら、倫子さんはあなたに任せて置くけど。しつこいようだけど、何としても舞踏会までには倫子さんの心、もしくは体まででもよろしいけれど、とにかくあなたの物にしておくのよ。それが遂げられたなら後は、倫子さんは別にどうしても構わないわ。捨ててもいいことよ。マァ、あなたに限ってそんなことは無いでしょうけど、ほんとうの恋仲になって道行と出てもよろしいのよ〉

頼宗 〈その後ねぇ。さて、一体どうしたものか。あの顔と体はなかなかの、俺でも蠱惑は感じるねぇ。マァ、しかし、うちに秘めたる気性は、全くもって剣呑だ。あの将校も聊か閉口しているようだしな。くくっ、こんなことはまだ気が早いっちゃ早いな〉

玲子 〈いいこと、私達母子の目的はまだまだ、もっと先なる大きい目途であることを、くれぐれも忘れないで居てちょうだい〉

頼宗 〈重々承知してるよ。ちょっと、話の道を外れてしまっただけさ。そんなことより、なぁ、久々にあれを聞かせてくれないか?なあ、頼むよ〉

玲子 〈ふふ、可愛い私の坊や。よおくお聞き〉

頼宗 〈あいつらに聞かれないように気をつけてくれよ(ト室の窓をうかがう)〉

玲子 〈それはお母様の時代、明治時代に、取り分け、井上馨外務大臣によって催された、燦めくような鹿鳴館での夜会にまでさかのぼる話。あの時代には、徳川幕府瓦解から急速に開化した文明の余波に背中を押されたように、貴き人々は皆、欧風な装束に身を包み、軽快な舞踏のステップに夜を数えていたの〉

頼宗 〈で、お母さんのお母さん、つまり僕のお祖母さんはどうだったんだい?きっと耀くような美しさだったんだろうなあ〉

玲子 〈私のお母様、つまりあなたのお祖母様は、貴いお家の御出身、都の公家に坐すは姉小路侯爵家の御令嬢でいらっしゃったのよ。貴い御令嬢でいらっしゃれば、もちろん西欧の作法から舞踏まで心得ていらっしゃり、当然鹿鳴館の夜会にも出席遊ばされておりましたわ。その美しさたるや、鹿鳴館のシャンデリアや瓦斯燈を、上から見下ろす月のよう、いいえ、月初めの天長節に月はあらで、さながら、夜天に鏤められた爛爛たる綺羅星のよう〉

頼宗 〈まるでフランスかオーストリアの貴族のような、気高く美しい女性だったみたいだね〉

玲子 〈でも、お母様のお心はどうだったか、今となってはわからない〉

頼宗 〈それでも、優しくて綺麗な人だということはたしからしいや〉

玲子 〈そう、それは疑いようがないわ。欧風な格好をしていても、心は他のどんな女性よりも日本的で、大和撫子そのものでいらしたんだわ〉

頼宗 〈それほどに見目麗しき人だったならば、さぞ幸せな前途があったんだろうね?〉

玲子 〈ええ、お母様にはその時、御身分にふさわしい、結ばれるべきお相手がいらっしゃったのよ。お相手と申しますのも、華族に列せられ給ひける、旧大名家・華族佐竹氏の御令息、彼もまた、照り輝かむばかりの美男子、並んだ二人はさながら、畏れ多くも内裏雛のよう。

(急に豹変し、声が低く重くなり)それが、あの男さえ鹿鳴館にひょこひょこと罷り越さなければ・・・。あの男が樺山次官の随身でいなければ・・・。ああ・・・(トよろける)〉

頼宗 〈(玲子を支えながら)分かった。母さん、もう十分だから、少しばかり休もうじゃないか〉

玲子 〈いいえ、大丈夫よ。お母様の御無念は、こんなものじゃなかったはずだわ。仇を討つべき私が、こんなところで仆れてどうするの。サァ、続けるわ、放しなさい。お母様は、あの男と鹿鳴館で初めて顔を合わせ、二言三言話しただけでいらっしゃったのに、なのに、それ以後もあの男と度々逢い引きすることをあの男に強いられた・・・ああ、それはお母様が佐竹氏と結婚なさった後も続いたの。きっと、姦佞なあの男が何かと理由をつけて誘惑したんだわ。お母様が逃れられないように仕組んで、そうよ、そうに違いない。でなかったら、既に佐竹家と縁談のまとまっていたお母様が、あんな男と言葉を交わすことさえあるはずがないのだから(ト次第に激昂する)〉

頼宗 〈・・・・・・・・・(ト玲子の口上に任せている)〉

玲子 〈数年の後、お母様は懐妊なさった。これは間違いなく、佐竹家の御令息の御子だったのよ。それでも、あの男が色々と動き回っていたために、周囲は有らぬ事を疑った・・・。ねえ、何を疑うことがあるの?私は絶対に姉小路家のお母様と佐竹家の御令息との間の子だと言うのに〉

頼宗 〈疑うことなんか何もありゃしないさ。なのに、一体誰がそんなことを言い触らしたのか・・・ただひとり、疑わしい輩がいるよ。それは〉

玲子 〈言わないで。どうかその先は言わないでちょうだい。これ以上あの男について耳にするのも穢らわしい〉

頼宗 〈ご、ごめん。そんなつもりは〉

玲子 〈とにかく、かような疑惑を吹っ掛けられては、もはや、お母様の安住の地は失われたも同然だったわ。まだ産褥に臥しているうちに、早くもその女の子は、華族黒田家のある傍流へと預けられた〉

頼宗 〈何と可哀相な話だ。人の道に悖る行いを平としてするなんて〉

玲子 〈産まれて来てしまった子は、親が違えど、どんなに環境が劣悪であろうと、育つのが自然の摂理。その女の子も、すぐに稚い児童へと成長し、そして心身共に形成される十代のある時、すべての真実を知ることになった・・・〉

頼宗 〈黒田家での暮らしはどのようなものだったの、不具合は無かったかい?〉

玲子 〈たしかに、出生から預けられるまでの過程は、父も母も異なる点で『落窪物語』よりも過酷なものがあったわ・・・でも、黒田家もやはりそこは華族に列せられし御家柄、『落窪物語』のような継子虐めやそれに類するようなものも、決して存在していなかったから、大丈夫だったわ〉

頼宗 〈そりゃあよかった、よかった〉

玲子 〈しかしね、いつもどこか馴染めずに、遠慮がちで、周囲に気を遣い、自分を殺して地中深く埋めるような生活だった。されど、私が本当に、本当に、不動明王の如き形相になったのは、お母様についてのお話をある知人から聞いた時でしたわ(トみるみる怒りが表情に浮かぶ〉

頼宗 〈それで、僕のお祖母さんは一体どうしてしまったんだい?〉

玲子 〈私が黒田家で窮屈ながらも暮らしていた星霜、お母様は御自分がお輿入れになった、言わば御自分の家とも言えるところで、日夜周囲から辛く当たられて、ついには病に冒され、それでもまともに看病しても貰えず、私が八歳になる頃に肺病で空しくなられたとのこと・・・

(唐突に声を張り上げ)それを聞いて私は、佐竹の人々も十分に恨んだのだけれども、何よりも誰よりも、あの男を一番憎んだわ。あの男さえ居なければ、すべて順風満帆な日々がお母様に。ああ、悪の元凶はあいつ。お母様の仇は必ずや、この私が、より酸鼻な方法で・・・ただそれだけのために、真相を知って間もなくわたしは、育った家を飛び出した。これまで、届出を出されても何とか行方を晦まし続け、魔窟から始まり、花柳界、いいえ、花柳界なんてさような美しい字面ではないわ、文字通りの苦界からやっとここまでたどり着いたのよ〉


【この時、暗闇の室内に人影が入り来たりて、電灯を点ける。明かりが点くと、閉め切られたカーテンの隙からもわずかに明かりが漏れる。これに頼宗が気付き、あわてて玲子を制止して、二人連れ立って消えようとする】


頼宗 〈(あわてて)母さん、そこの窓を見て。恨み節は十分聞かせて貰ったし、志も新たにしたから、さあ、もう行こう〉

玲子 〈ああ、ああ、頼宗、あなたも母に協力してちょうだい。あいつらを四散させるのよ(ト半狂乱の体)〉



●第二場●


【場面、月の差していた庭から電灯に照らされた室へと移る。月が雲に翳ったと見え、屋外はたちまち暗闇に包まれる。室内には、臥したまま、寝ているか否かも判然としない西原老翁と、そのかたわらで自分の腕を枕に突っ伏して寝入っている瑠璃子がいる。室に入ってきて明かりを点けた影の正体は倫子である】


倫子 〈(寝ている瑠璃子の肩を揺さぶりながら)お母様、お母様、こんなところで寝ていらっしゃったら、お体に悪いですわ。秋もすっかり深まって、今晩のような夜にはまた一段と冷えて来るでしょうから〉

瑠璃子 〈・・・・・・・・・・〉

倫子 〈お母様ったら、ねえ、起きて下さいまし。あちらの御部屋へ行きましょう〉

瑠璃子 〈(はっと目を醒まし、左見右見して)あっ、倫子さん。起こして下さったの。ありがとう。お義父様の面倒を見ておりましたら、私もつられて、すっかり寝込んでしまいましたようで〉

倫子 〈疲れていらっしゃるのね。無理も無いわ。今日は早くお休みになって〉

瑠璃子 〈いいえ、今日はまだあの人も帰って来ていらっしゃらないでしょう。お帰りになる時まで寝たままでいなくて、本当によかったわ。あなたに起こして頂いて助かったのよ〉

倫子 〈とにかく、お爺様のお世話は、今日はもうお終いになさったら?お父様も今宵の会はなかなかそう早くには終わらないでしょうから、お父様がお帰りになるまでは、この私が代わりに待っていますわ〉

瑠璃子 〈いいえ、疲れなら存外平気なものよ。今日は、特にこれと言った働きもしてはおりませんもの。それに、今日はあの方も、名誉ある賞を下賜された記念の催しですから、きっと御気分よろしくお帰りになるはずですわ〉

倫子 〈分かりました。では、とりあえず、この部屋からはお出でになって、あちらへと行きましょうか?〉


【この時、床の西原老翁がやや大きく寝返りを打ち、顔を顰めながら呻きに近いような声を絞り出す】


瑠璃子 〈(西原老翁のこの動作を見て、思い出したように)ちょっと、倫子さん、お待ちになって。何も、注意する訳ではないですけれど、これからはもう少し、お爺様にも気をお遣いになって下さいまし。今のように、急に明かりを点けたり、大声で話したり致しますと、容体にも障りあるといけませんから〉

倫子 〈えっ、何をおっしゃっているのか、私にはわかり兼ねますわ。何故、わざわざ私が気など遣わなくてはならないのでしょう?〉

瑠璃子 〈(倫子の意外な反抗に虚を衝かれたように)えっ、今何ておっしゃったの?私はあなたに、寝ている人に対してなるべく気を遣ってやって下さいと申しただけなのよ〉

倫子 〈いいえ、お母様、十分聞こえましてよ。お爺様に配慮して、余り大きな物音や眩しさを避けなさいとのことでございましょう。でも、私としては、そこまで気を遣う必要が認められませんから〉

瑠璃子 〈マァ、何て事をおっしゃるかと思えば。単なる冗談でおっしゃるにも、ほどというものがありますわよ〉

倫子 〈いいえ、冗談ではなく。冗談で言うにしても、あのような人を持ち出すことは嫌ですわ。お母様が御自身の身を粉にして、お世話なさるのは御自由ですわ。ですが、金輪際、私はお母様のような献身を、あの人に呈することはございませんから〉

瑠璃子 〈倫子さん、今晩は一体どうしたの?何か変ですわよ。いえ、思い返してみれば、何も今晩だけに限りませんわ。このところ、倫子さんの態度、取り分けお爺様に対しての仕打ちには、何と苛烈なものがありましょう。どういう訳でございますの?何か理由がおありなら、聞かせてみてちょうだい〉

倫子 〈お母様が心配なさっているようなことは、決してありませんから、安心なさって。ただ、私はお母様の、自身が倒れそうになるまでにお爺様に奉仕なさる理由というものに、納得がいっておりませんの(ト玲子の独り言を盗み聞いたことは、おくびにも出さないでいる)〉

瑠璃子 〈そうかしら?私を思いやってくれているのは、大変嬉しいのですけれど、私には、何やらあなたの心の中に、恨みのようなものが垣間見られるような気がしてならないの。何か心中に秘していることがあるのなら、すっかり吐き出してしまって〉

倫子 〈・・・・・・・・・・〉

瑠璃子 〈正直におっしゃってちょうだい。まさかとは思いますけれど、玲子さんが関わり合いになっていらしては・・・。これはただの推測ですけれど、あの方に掛かっては、何かと厄介なことになりましょうから〉

倫子 〈(呆れるように)お母様のそのお人のよさと言ったら・・・。けれど、私はお母様と違いますもの、性分はやはり各々別個なのだわ。いずれ、機が来たりなば申し上げますわ〉

瑠璃子 〈・・・・・・・・・(ト倫子の心中を図り兼ねている)〉


【突然、廊下から黒田頼宗の声が響く。室と扉の境にたたずんでいた倫子を、廊下側から見付けて声を掛けた次第】


頼宗 〈やあ、倫子さん。こんなところで、どうか致しましたか?〉

倫子 〈あら、こんばんは〉

瑠璃子 〈その声は頼宗さんかしら?ねえ、倫子、まだ話は終わっておりませんのよ。ねえ、聞いておりますの?〉

倫子 〈分かってますわ。頼宗さん、ちょっと待って居て下さいまし(ト瑠璃子へではなく頼宗へと愛想を振り撒く)〉

頼宗 〈倫子さん、今宵は正に秋の夜長を絵に描いたよう。あなたも徒然を持て余していらっしゃるのでしたら、ちょっとそこまでお出でになりませんか?今宵に足りないのは砧の音くらいなもの〉

倫子 〈マァ、巧みなことをおっしゃるのね。けれど、どうやって秋の夜長を絵に描くのでございましょう?〉

頼宗 〈これはまた一本取られました。まぁまぁ、御ふざけはここまでとして、早速参りましょうか?〉

倫子 〈ええ、ぜひお供致します(ト廊下へと擦り抜けて行く。この間、瑠璃子を振り返ることはない)〉

瑠璃子 〈ああ・・・・。倫子・・・・〉


【しばらくの間、瑠璃子は悲しみと途方に暮れている。その間、どこからか時代遅れの砧の音が響いて来る。秋の虫の音、風にそよぐ葉の音、砧の音が昭和初期においても既に昔懐かしくなった侘びしい夜を奏でている。瑠璃子は静かに立ち去る。ややあって今度は玲子が室に入り来たる。先の二人と比較してぞんざいな動作が目立つ。玲子の登場時には既に秋の音楽は聞こえて来ない】


玲子 〈ふう、どなたかいらっしゃるの?(ト室内へ入るが、電灯は点けない)

(西原老翁に向かって)ふふ、この前、あなたに対して、いいえ、窓際で盗み聞いていた倫子さんに対して、わざと聞こえるように吐いたセリフが、ようよう功を奏し始めたようだわ。あの人の、あなたを軽蔑しきった目をご覧になりまして?しかも娘のそれに気付かないまま、愛娘に牙を剥けられる瑠璃子さん・・・。あのお二方の齟齬は一体どこに行き着くのでありましょう?そりゃあ、母に向かって自分の祖父の不貞を暴露できるほど、倫子さんも育ちがいいはずがありませんもの。今頃、心中穏やかならず、怒濤が寄せ返っておりますのではないかしら?マッ、私をお怨みになってもらっては困りますよ。よしんば、私が過度な偽りを申しましたとしても、元はと言えばあなたの、姉小路侯爵令嬢に対する身のほど知らずな振る舞いがなした業でございますものねえ。お怨みになるなら、若き日の御自分を、どうぞお怨みになって下さいな。

(庭で戯れる頼宗と倫子を見て)ほら、あなたの可愛がっていらっしゃった唯一の御孫さんも、今や私の義理の娘となる公算。世の中って不思議な物でございますこと〉

西原老翁 〈(にわかに苦しそうに体をかきむしって)う、あ・・・・う、い・・・き、く・・・お・・・(ト声にもならないような呻吟をなす)〉

玲子 〈(先入観から『雪子』と聞き間違え)今、何て?あなたの口から、御母様の御名前が発せられるなんて・・・。屈辱的で、聞き捨てなりません〉


【玲子、冷たい表情をしながら、咄嗟に、近くの卓上に置かれた、古九谷の大皿を手に取り西原老翁の頭上に振り上げる。いよいよ振り下ろすかという瞬間、廊下で大きな物音がしたために我に返って止める。酩酊状態の西原永司が、よろめきながら廊下を壁づたいに進んでくる】


玲子 〈永司さん、マァ、こんなに酔い潰れていらっしゃって・・・ただでさえ、たかだか晩酌一献で酔い痴れてしまいますのに。今日はまた、大量に聞こし召したようですね〉

永司 〈(玲子を瑠璃子と誤認して)ああ、瑠璃子、まことに申し訳ないな。ちょっとだけ強いられて呑んだんだが、自分では全然酔わないだろうと思って・・・〉

玲子 〈はい、はい、分かりましたから。そこのお部屋でしばらくお休みになっているうちに、やがて酔いも醒めて参りましょう(ト西原老翁が臥している室へと連れ込む)〉


【永司、室に入ってすぐさま、床の絨緞に寝転んでしばし意識を失う】


永司 〈(目を醒まし)うう、ここは?ああ、家に帰って来ていたのか〉

玲子 〈お目覚めになりましたか?つい数刻前に、酩酊なるままお帰りになった時には、どうなるものかと思いましたが、早くも大分お酒は抜けて来ていらっしゃるようですね〉

永司 〈あれ、瑠璃子はどこにいますか?僕は何故親父の室へなぞ入ったのだろう?それに君も居る、おかしいな(ト出ていこうとする)〉

玲子 〈(永司を引き留めて)いや、お待ち遊ばせ。瑠璃子さんなら、今日は夕方から突然体調をお崩しになったようで、残念ながら早々に床に就きましたわ。マァ、とにかく、私からも、改めて、帝国学士院恩賜賞受賞おめでとうございます〉

永司 〈ははは、まさかあなたから祝福されるとは思っておりませんでした。どうも、ありがとう〉

玲子 〈これは噂に伺ったことですが、どうやら最年少での御受賞とのこと、本当にめでたきことですわね。私までも誇らしくなりますわ〉

永司 〈マァマァ、学問に年齢は余り関係ありませんからな〉

玲子 〈永司さんの専攻は、国文学の・・・たしか『源氏物語』でございましたでしょう?私には、絶えて解り兼ねますけれど、一体全体どのような〉

永司 〈一口に『源氏物語』と言いましても、全五十四帖にもわたる、日本が世界に誇るべき一大巨編でありますからな。その巻の編成や区分等にもまだまだ緒論存在しておるのですが、線引きは曖昧ながら、僕はその中でも、特に、玉蔓十帖の後に続く『梅枝』から『竹河』までを重点的に取り組んでおります。それというのも、『御法』、『幻』と巻が続く中で、『幻』の次に『雲隠』と言う巻が存在していたようで、いかんせん、古来の散佚の挙げ句に現代ではついに不詳となりましてねえ・・・〉

玲子 〈へえ、そうなんですの。知りませんでしたわ〉

永司 〈さらには、この『雲隠』の巻は、光源氏の末期が記されていたようで、物語全般の構成上、かなり肝腎な巻なのです。まぁ、元々存在していないといった論もあるんですが。いずれにせよ、以後の研究が期待されておりますから、やり甲斐もあるというものですよ(ト学者肌に酔いが加わって饒舌となる)〉

玲子 〈すごいですわ。あなたの研究は、後世にまで残って、偉大な功績を残すことでありましょうね。それに、今日のあなたのお召し物と言ったら〉

永司 〈ああ、この燕尾服かい。これは、今日の為に急いで新調した代物なんだ。本当は、支出は抑えたかったんだが、今晩の会は帝国学士院会員の各博士は勿論のこと、華冑界は貴族院議員の御方々もいらっしゃると聞いたからね。あくまでも失礼の無いようにと思い〉

玲子 〈とても似合っていらっしゃるわ〉

永司 〈目の肥えた、あ、いや、服飾に明るいあなたにそう言って褒めて頂けたのなら、ほんとうなのだろうなあ〉

玲子 〈(出し抜けに真顔になり)この燕尾服なら、舞踏会で召していらっしゃっても不自然ではございませんわ〉

永司 〈えっ、舞踏・・・会ですか?ああ、あの時のことをまだ言っておられるのですか?いや、僕の洋服は、豈図らんや、調ってしまいましたが、まだ瑠璃子や倫子のそれはないですし・・・。女性の洋装はなかなか仕立てるにも時間が・・・〉

玲子 〈そのことなら、もとより心配御無用ですわよ。私と瑠璃子さん、倫子さんは、身の丈から肉置きまでほとんど同一ですもの。ゆえに、私の集めたドレスの中から、お似合いになる色彩・柄のものをお選び下さればよろしいわ〉

永司 〈ちょっと、待ってくれ。今の状態では何とも答えられない。ひとまず、瑠璃子と話してからではなければ〉

玲子 〈マァ、また瑠璃子さんに頼ろうとなさる・・・・〉


【この時、室外にて、急ぎ足の足音が響く。足音の主は、廊下に散らばる永司の所持品を見て彼の帰宅を知った模様】


永司 〈(足音の主が瑠璃子だと考えて)ほら、ちょうど瑠璃子がやって来たみたいだ。玲子さん、あなたにはここまで介抱して頂いて感謝しています。しかし、後は妻の瑠璃子にお任せ下さい。それでは〉

玲子 〈(唐突に永司の背中に強引に抱きついて)永司さん、お待ちになって〉


【閉ざされた扉の向こう側から、瑠璃子が呼び掛ける声と扉をたたく音がする】


瑠璃子 〈もしもし、お義父様の他に、どなたかいらっしゃいますか?永司さん、お帰りになりまして?〉

永司 〈(直感的に沈黙を貫いて)・・・・・・・・・〉

玲子 〈(永司の背に頬摺りしながら、薄ら笑いを浮かべて)今のこの様子は、瑠璃子さんの眼にはどういう風にお映りになるでしょうかね?マァ、想像には難くないですわね。あら、あそこのクローゼットなら人一人隠れることができるんじゃないかしら?(トおもむろに抱き締める力を緩慢にする)〉

永司 〈・・・・・・・・・・(ト動こうと身構える)〉

玲子 〈(再度、永司を強く抱きすくめて)その前に一つ。まだ、舞踏会の許諾をちょうだいしておりませんでしたわ?〉

永司 〈分かった、認める。認める〉


【永司が隠れたのと同時に、瑠璃子が無断で扉を開け、室へ入る】


瑠璃子 〈あら、玲子さん。永司さんをお見掛けになってはいらっしゃいませんか?〉

玲子 〈いえ、先刻からこの室には、お爺様と私だけでございますよ。ちょっとお体が心配で・・・。床擦れにでもなってしまうといけませんから〉

瑠璃子 〈それはそれは、お心遣いありがとうございます〉

玲子 〈ところで、永司さんがどうか致しましたか?もはやいい加減、お帰りになる刻限ではありませんか?〉

瑠璃子 〈それが、私が少しばかり、不覚にもうとうととしている間に帰っていらっしゃったと見え、廊下には御持ち物がばらばらと散らばっているという有様。あの様子では、御本人も大分酔っ払っていらっしゃるかと思い、心配で。平生ほとんど下戸に近いお方ですから、付き合い程度とは言え、周囲から続け様に勧められましたら・・・〉

玲子 〈あらら、心配ですねえ。でも、お荷物が廊下に散らばっていたなら、前後不覚で屋外を徘徊なさっている訳でもありませんでしょう、おそらくはお屋敷の中へは何とかたどり着いて、それから邸内のどこかにいらっしゃるのではないかしら(トクローゼットを一瞥する)〉

瑠璃子 〈私もそうではないかと思っておりますの。あの方は、お酒に酔うと千鳥足であちらこちらふらふらと歩いた挙げ句、どこででも、すぐさま寝入ってしまう特徴がございますから。居場所が判らなくなることがあるから困ってしまいますわ〉

玲子 〈寝入ってしまったなら、寝入ってしまったで、明日の朝には目を覚まして、御自分の行動を反省し、小さくなってお出で遊ばすのではないでしょうかね?〉

瑠璃子 〈あの方の性分からしたら、きっとそうでしょうね。でも、一応今晩中に捜し出して、介抱して差し上げなくては・・・深まっていく秋の冴えも、今宵はまた一段と研ぎ澄まされて来るでしょうから〉

玲子 〈マァ、何とよいお心掛けでしょう。永司さんはお幸せですこと〉

瑠璃子 〈いえいえ。それでは、これから倫子と一緒に捜して来ようと思います。玲子さんも、もし御暇がございましたら、お手伝い下さいまし〉

玲子 〈(何か悪巧みを発想したような表情を浮かべてから)あっ、瑠璃子さん。ねえ、ちょっとお待ち下さい。近いうちに私の室へといらっしゃって。あなたに似合うドレスを選定なさって頂きたいの〉

瑠璃子 〈えっ、ドレスですか?別に私は、ドレスなんて着る機会もありませんから、遠慮させて頂くわ〉

玲子 〈(意に介さず)その時には、倫子さんもぜひ御一緒に、お二人で連れ立っていらっしゃって。きっと、あなた方にお似合いの物が有ると思いますから、楽しみにしていらして下さい〉

瑠璃子 〈いやいや、ですから結構ですと申しているではありませんか〉

玲子 〈(急に真顔になり)じゃあ、来月の舞踏会はどういう御格好で出席なさるおつもりなの?〉

瑠璃子 〈舞踏会って、いつかあなたが私たち夫婦と言い争いになった時おっしゃっていた・・・・あのことですか?〉

玲子 〈ええ、私はあくまでも、本気で申しておりましたし、今でも心変わりしてはございませんのよ。支度なら、着々と進んでいて、永司さんの燕尾服も、僥倖にて手に入りましたし。後は、あなたと倫子さんがお召しになるドレスだけですわ〉

瑠璃子 〈そんな、今の御家の状況で、舞踏会なんて物を開けるはずがないということは、先日申し上げたではありませんか〉

玲子 〈そりゃあ、大勢が入り乱れて舞踏するようなものは、財政の面からも、建坪の面からも不可能だわ。でもね、一家だけで、一間を用いて舞踏するだけなら、じゅうぶん可能でございますわよ。せめて装束や音楽を、御爺様の時代の真似をもってすればよろしいんですもの。紛いなりにも、一つの立派な舞踏会ができあがることでしょう。お爺様もきっと喜んで下さいますわ。これはお爺様のお躰にも有益なのではないかしら?〉

瑠璃子 〈もっとも、あなたが何をおっしゃろうとも、永司さんがさようなことを了承なさるとは到底思えませんもの。いくら私に打診なさっても、無駄でございますわ〉

玲子 〈そのことなら、もはやとっくに、永司さんから御了承をちょうだいしているのよ。何でも、今日のためにせっかく新調した燕尾服が契機となりましたようで、たった一度お召しになるためだけに仕立てたのではもったいない、どうせなら、この燕尾服を有効に活用できる場所を、とおっしゃって。舞踏会にも出席して頂けるという確約をもらいましたの〉

瑠璃子 〈え、永司さんがそうおっしゃったというのは、どうも信用なりませんけれど、いつそんなことを?〉

玲子 〈同じ屋敷の中に住んでいれば、顔を合わせて話す機会もどこにでもあるかと思いますけれど?〉

瑠璃子 〈そんなの困りますわ。夫婦でありますもの、殊にそれが御義父様のめか(ト言い掛けて止める)〉

玲子 〈マァマァ、驚いたこと。皆までおっしゃらなくとも分かりますわ。あなたが普段から、私についてどう考えておられるかぐらいのこと。マァ、私と永司さんがいつ、どのようにして話したかなど、ここで言及するのはやめておきますわ。後は、あなたの御自由に、天馬空を行くような空想にお任せ致しましょうかしら・・・。そうだ、永司さんに直接お聞きになっては如何かしら?永司さんの御身が一番覚えていらっしゃるかもしれませんよ〉

瑠璃子 〈(顔を上気させて)あいにくですが、その必要はございません。あなたのような人の、誘惑や妄語にマンマと謀られるような私たち夫婦ではありませんから。重々ご承知置き下さいまし(ト室を出ていく)〉

玲子 〈それでは、ドレスの件、くれぐれもお忘れなきよう。お頼み申し上げましたよ(ト瑠璃子の後ろ姿に向かって言う)〉


【明らかに瑠璃子が室から出て行った物音がしたにもかかわらず、依然クローゼットから人が出て来る気配がない。玲子、呆れたようにクローゼットを眺めていたが、室の明かりを消して去ろうとする】


玲子 〈(去り際)そうでしたわ、永司さん、瑠璃子さんはお聞きの通り、怒ってしまわれたから、何とかなだめて差し上げて。そして近々、倫子さんとともに私の室にドレスを選びにいらっしゃるよう取り計らって下さいね。さすれば、あなたの濡れ衣もすぐに乾ききることでしょうから〉

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