賢者はいつもお腹が痛い

藤名

第1話

 そう広くもない部屋で、電気、ガスの戸締りをひととおり確認し、俺、城崎亘希きのさきこうきはよし、とひとつ頷いた。人生で初めての海外旅行、明らかに浮ついている自覚のある俺は、三度戸締りを確認し、ようやく傍らにある大きなスーツケースを手に取った。


「じゃあ、非日常にしゅっぱーつ!」


 上がったテンションのまま大きな独り言を呟いて、一歩踏み出したその瞬間、ぐらりと目の前が揺れた。急にバランスを失った体に、目を瞑ってスーツケースの持ち手に縋りつく。しばらくしておさまった立ちくらみに、恐る恐る体を起して目を開けるとそこには見慣れない景色が広がっていた。


「……は?」


 石造りの壁に、年季の入った木の机、その上には立派な表装の本が積まれている。簡単に言えば昔のヨーロッパみたいな。


「んっと?」


 何かの見間違いかと右手で目を擦っていると、覚えのない声が聞こえた。慌てて振り返ると、そこには顎下くらいまでの金に近い茶色の髪に、琥珀色の瞳の美人がいた。生え際にクセがあるのか、長めの前髪が自然と分かれてサイドに流れている。

 ……いや、もしかして男か? ファンタジー漫画の魔法使いのような長いローブを着ているため体の線がよく見えないが、女と言うにはあまりにも凹凸がない。さっき聞こえた声が、この人のものなら女性にしては低い気もする。だからと言って男性のように低いわけでもないので決め手にはならないけれど。

 その美人がまた何事か話しだした。うん、やっぱり女の人にしてはちょっと声が低い気がする。ちなみにその美人が話している言葉はさっぱり聞き取れない。日本語ではもちろんないし、英語でもフランス語でもなさそうだ。


「は、はろー」


 とりあえず困った時の共通言語、英語で話しかけてみる。発音が思いっきり日本人なのは大目に見てもらいたい。相手も俺に通じていないのに気がついたのか、一度口を閉じた。そしてゆっくりと手を伸ばした。白く細い人指し指が何かを摘まんでいる。何かを渡そうとする動作に、思わず手のひらを出すと、そこにカラフルな糸で編まれた輪が置かれた。美人がまた口を開く。


「どう、これで通じる?」

「あ、あれ? わかる」

「それ、僕の魔力が編み込んである腕輪だよ。それを身に着けている間は言葉が通じるから持ってて」


先ほどまで何を言っているのかさっぱりわからなかったのに、今の言葉はすんなりと理解ができた。まるで魔法みたいに。


「あ、そっか、夢かな、これ?」


魔力とか、そんないかにもな異世界トリップ展開あるわけがない。俺は先日二十五歳になった、立派、かどうかはさておき、社会人だ。世界のどこかではきっとこんなファンタジー展開が起きているはずだと憧れる純粋な心はとうに捨ててしまった。


「残念だけど、夢じゃないよ」


そんな俺の脳内の合理化もむなしく、美人にあっさりと否定された。


「夢じゃなければ、何ですか? 拉致?」


ドッキリ、にはさすがに手が込んでいるし、それ以外となると知らぬうちに薬でも嗅がされて運び込まれたとしか考えられない。ただ俺のような小市民を拉致するメリットは思いつかないけれど。


「うんまあ似たようなものかな」

「は?」


冗談のつもりだったのに、うっかり肯定されてしまった。意味がわからない。


「君の足元にある布を見てもらえるかな?」


 美人が下を指さす。そこには魔法陣のような丸い図形の、白い糸で手の込んだ刺繍がされた布が敷かれていた。その円の中心に俺とスーツケースが立っている。だれの仕事か知らないが、こんな高そうな繊細な模様の刺繍を踏んでいるのは申し訳なくて、とりあえず円の上からどいた。


「これは君を、こことは違う世界から呼んだ魔法陣だ。そして、呼んだのは僕、オルファニアム王国魔術研究部所属のイオリス・ハルナークだ、よろしくね」

「オルファ……なんだって?」

「オルファニアム王国、イオリス・ハルナーク」


あまりにも聞き慣れない単語に、最後まで復唱出来ず聞き返した俺に、ご丁寧に美人は自分の名前までつけて繰り返してくれた。


「僕のことはイオリスでいいよ。君は?」

「え、ああ、城崎亘希」

「キノサキコウキ? 長い名前だね」

「あ、名前なのは亘希で、城崎は苗字です」

「そうか、ならコウキだね」


 あまりにも動揺していて、うっかり本名を答えてしまった。とはいえ今さら偽名に変えるのもおかしいし、そもそも個人情報がどうとか言っている場合ではなさそうな気がする。夢ならそのうち覚めるだろうし、もし夢でないならとりあえず現状を把握しなければならない。


「それで、俺は何のために呼ばれたんでしょうか?」


これがラノベなら、勇者となって魔王と戦うとか、チート能力を貰って世界を救うとかそんな感じか。正直俺に格闘とか出来るとは思えないが。


「え、ああ。倉庫で偶然古い魔術書を見つけてね。今はもう読める者が少ない古代文字で書かれていて、暇潰しに解読してみたんだ。そうしたら異世界との扉を開く魔法陣だってことだから興味本位で試してみたんだ。いやーすごいね、成功したよ」

「えっと、つまりそれは俺に特に用事があって呼んだわけではない?」

「うん、もちろん。そもそも異世界なんてものの存在が半信半疑だったからね。誰か限定して呼ぶなんて出来ないよ、試してみたら偶然君が選ばれただけだね」

「なーんだ、それなら俺はもう用無しですね。実験成功おめでとうございます。じゃあ、もとの世界に返してください。俺はこれから人生初の海外旅行、イタリアへ行くんです。空港にはずいぶん早く着くように用意しました、今ならまだ間に合います」


さあ帰せ、今帰せ、と立て板に水のごとく話しかける。なんとも傍迷惑な話だが、新しく見つけたものを試してみたい気持ちはわからなくはない。ダメと言われてもやりたいコックリさんみたいなものだろう。しかしそんな俺の期待も空しく、美人改めイオリスはあっさりと言い放った。


「ごめんねー、その魔術書がさ、最後のページが滲んでて読めなかったから僕も知らなかったんだけど、その魔法陣一回使い捨てだったみたいだね。本来その魔法陣の糸は銀色なんだけど、君を呼んだら糸が真っ白になっちゃった。魔力がすっからかんでもう君を送り返す力は無いみたいだ」


……いま、今、なんて言いやがりましたか、こいつ。


「は、はあああぁぁぁぁぁぁぁーーーー!?」


確かにさっき「非日常に出発!」と叫んだのは俺だ。だけれど異世界なんてそんな冗談みたいな非日常は誰も望んでない。俺の絶叫が石造りの部屋に響き渡ったのは言うまでもない。

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