Bottled Fish

テナガエビ

1, Bottled Fish

「今日もいい天気だな……海がシャイニングだ」


 誰もいない海だ。この一か月の滞在ですっかり癖になってしまった俺の独り言を聞いてくれる者も返してくれる者もいない。夏の強い太陽を受けて海はギンギンの銀色に輝いている。岩だらけの海岸を、転ばないように調査地点まで歩いて行く。足を保護するために履いているゴム製のマリンブーツはもうむれむれだ。


「はーい、今日も仕事取り掛かりますよー!」


 俺は卒業研究のために大学の臨海実験場に来ている。ここに滞在しながら、潮間帯の貝類の分布調査をして卒業論文のデータとする、それが俺のやるべきことだ。今年は長期の滞在者はいないらしく、常駐する実験場の技官をのぞけば他に人がいない。そのため、もうすっかり独り言が習慣化してしまっていた。他人と話す機会がないことがこんなにも堪えることだとは思わなかった。つい言葉が出てしまうのだ。


「さぁやっちゃうよ!」


 時計を確認し、じゃぶじゃぶと海水にまみれながら調査するラインを潮上帯から潮下帯へと引く。後はひたすら決められた範囲の生物を捕獲していくのだ。うまくデータが取れれば、そこに住む生物の種類によって、乾燥の度合や藻類の被度といった基質の状態とそこに分布する貝類との関係が分かる。


「ん?」


 ふと気が付くと一本の古い瓶が海水面から少し上がったところにあるタイドプールに浮かんでいた。ガラス製のコーラの瓶のような瓶だ。蕎麦屋そばやで出てくる瓶入りジュースの瓶といったらイメージしてもらえるだろうか。おそらく、海を漂っていたものが引き潮の時にこのタイドプールに取り残されたのだろう。


「海にゴミ捨てんなよ」


 別にゴミ拾いのボランティアをしているわけではないが、調査の邪魔なので後で捨てようと瓶を拾い上げた。


「うわぁっ!?」


 そして驚いた。中に液体と共にヒトが入っていたのだ。


なんだこれ……胎児か?


 心臓をドキドキさせながら観察する。幸い、胎児ではなく、ヒトでもない。ヒトの形をしており、銀色の長い髪が生えている。顔は少女のようにも見えるが、鼻がはっきりせず魚のようにも見える。目は閉じられて眠っているようだ。瓶をくるりと回すと下半身は魚のようだった。肌理きめの細かいうろこは太陽光を反射して虹色に輝いている。脚はなく、魚のようなしなやかな尾鰭おひれがあった。一方ではっきりと灰色の腕があり、体の横にだらんと揺れていた。


 人魚……?


 それが俺の脳裏に一番最初に浮かんだ言葉だった。




    >゜))))彡




 誰も見ていないはずの空間だが、瓶を実習場で個人で借りている飼育室へと素早く持ち帰った。ここなら空調も効いているので、こいつの温度管理ができる。

 もし、この瓶の中の生き物、これが本物の人魚あるいは人魚と見なされた生物なら大発見だ。少なくとも新種の何かであることは確かだろう。自分で研究して発表できるだろうか、それとも教授の協力を仰ぐべきだろうか。その場合、自分の功績を取られてしまわないか。いや、俺の功績とは何だ? 単に俺はこいつを拾っただけではないか。そんな期待と不安となんとかの皮算用が入り混じった感情も一緒に抱えて持ち帰った。


「さて、お前さんは誰なんだい……?」


 瓶の発見から2時間ほど経つが、人魚は相変わらず瓶の中の透明な液体の中で眠ったようにしている。飼育室でじっくりと観察してみたが、見れば見るほどこいつが何なのか分からない。魚のような尾鰭おひれうろこがある以上、水中生活をしているのだろう。長い髪のせいでえらがあるかどうかは分からない。口はヒトの口と変わり映えしないようだが何を食べているのだろうか。絶対とは言わないが、魚食性なら鋭いスパイク状の歯がないと魚に噛みついても逃げられてしまう。魚を押さえつけるにしては腕が華奢きゃしゃだ。石の下にいるような甲殻類を食べるにしては、もっと大きな口で飲み込めないと難しいだろう。魚や貝の卵なら食べられそうだが、そういったえさがある時期は限られている。

 そんなことを考えながら、デジタルカメラで写真と短い動画を撮影した。後で体重や体長も測るべきだろう。瓶内の液体を少し採り、塩分を測定すると海水と同じだった。これはただの海水のようだ。


「なんだこれ……紙?」


 ふと、この人魚の髪の間に紙切れのようなものが挟まっていることに気が付いた。ピンセットでそっと取り出すと、耐水紙らしく溶けていない。そこに小さな字が書かれていた。


『人魚は負の感情を吸い取ります。吸わなくなったら海に返して下さい』


 前にこいつを飼育していた人がいて、その人は頭がおかしかったのかな……


 それが俺の率直な感想だった。気を取り直して人魚を飼育水槽に移したいが、人魚の体は瓶口より大きいので瓶を壊さないといけない。それは面倒なので後回しにして、ひとまず窒息ちっそくしないようにエアーレーションを瓶にセットする。魚の飼育の常識から考えると水替えをしてやらないと、自分の排出物や分泌物で水質が悪化し、例え酸素が十分でも死んでしまう。もっともこいつが肺呼吸なのかえら呼吸なのかすら、分からないが。とりあえず、水温をここにある海水とあわせるべく、水槽に瓶を横転しないようにして浮かべた。そして、飯の支度をすることにした。




    >゜))))彡




 俺の携帯電話が鳴ったのは夕食後のことだった。母からだった。田舎の祖母の病状が進み、明日から入院することになったらしい。両親は週末にお見舞いに行くから、俺も来るように。もしものことがあるといけないから、必ず来るように。そういう話だった。電話にはうん、うんと対応して切ったが、俺は衝撃を受けていた。

 

 胃のあたりに重石を飲み込んだような不快感が湧く。


 俺は小学生までは祖母と両親と四人で暮らしていた。祖母はいつも俺のことを大事にしてくれた。公園でおもちゃを失くせば日が暮れるまで一緒に探してくれ、俺がお気に入りの毛布を破って泣けば、俺が納得するまで縫ってなおしてくれた。大学生になり、一人暮らしをすると自分の時間に夢中になった。家族の目を気にせず、好きな時間に遊び、自分で責任がとれるなら好きなだけ昼寝していてもよいのだ。そうこうしているうちに、家族や祖母のことが俺の中で薄れたようになっていた。そのことが今、罪深い事実としてのしかかってきたような気持ちだった。

 

 ふと、飼育室に戻るとあの人魚が目を覚まして瓶の中でくるくると舞っていた。泳ぐというには瓶は狭い。だが、動けないわけでもない。それは舞っているというにふさわしい動きだった。真っ赤な目で周囲を見て、ぬらぬらとした質感のある両腕をくるくると回し、体自体もゆっくりと回転させている。長い銀色の髪も体に巻き付くように一緒に回転していた。これが瓶の中でなければ、花畑で遊ぶ少女のようだ。


 目が合った。不思議な眼差しだった。その目は深海のサメのようにタペータムのせいか、きらきらと光を反射する。夜のネコの目のような感じだ。赤く輝く目は不気味だが、ついじっと見つめてしまう。何か訴えかけるように口をぱくぱくさせていた。


「よう、お前は誰なんだ? どうした腹が減ったか? 外に出たいのか?」


 本当は、こいつについていろいろ調べようと思っていたが、先ほどの電話で気持ちが萎えていた。心がずっしりと沈んでいるのだ。だが、このままこいつを放置するのもかわいそうなので、何かえさを与えてみることにした。できるだけ水が汚れないものがよい。本来なら海まで行ってカニでも取ってきてやるべきなのだろうが既に潮が満ちている時間であり、カニを捕まえるのは難しい。


 これなら食べ残しても掃除がしやすいか……


 俺は長期滞在のためのおやつから、プロセスチーズを取り出して、その小片を瓶内に入れてやった。


「おおー、おおー、食えるのか? うまいか?」


 やはり腹が減っていたらしい。人魚はチーズの小片を捕まえるとぱくぱくと食べていった。心なしか真っ赤な目が嬉しそうにこちらに向けられる。もっとほしいのだろうか。どことなく、ゲームに出てくるクリーチャーみたいな雰囲気はあるが、仕草はかわいらしかった。


 人魚がチーズを食べ終わるまで、俺は祖母の病名をネットで検索していた。どうしても気になったのだ。そして、これからのことを考えてさらに気持ちが沈む。病名と一緒に検索ワードに「治療方法」や「自然治癒」といったワードも付け加える。


 必ず来いってことは……やっぱり危ないんだよなぁ……


 ふと人魚を見ると、もうチーズは食べ終わり、瓶の内壁に張り付くようにしてこちらを見ていた。心なしか、水の色が明るくなり、まるで遠くから見た熱帯のサンゴ礁の海の水のようだ。だが、この瓶、これっぽっちの水に色がついて見えることはあり得ない。何か懸濁物けんだくぶつでも混ざったのだろうか。それにしてはきれいなエメラルドグリーンに見えた。


「お前は俺の不安を吸い取ってくれるのか? それなら、この感情なんとかしてくれ……いや、できることなら感情じゃなくておばあちゃんを助けて欲しいくらいだ」


 もちろん本気ではない。人魚は真剣そうな表情でこちらの話を聞いているが、分かっているのかどうか分からない。その日は夜もなかなか寝付けず、冷蔵庫にしまっておいたビールを流し込んで無理矢理眠った。




   >゜))))彡




 その日見たのは不思議な夢だった。ゆっくりと水の底に沈んでいく。だが息苦しくなかった。ただ、上方できらめく水面が見える。周りには何も見えない。まるで大洋の真ん中に沈んでいるかのように、どこまでも水が広がっている。俺の体はゆっくりと、もっときれいなはずの水底へと沈んでいった。


 そこで目が覚めた。


 一晩眠ったせいだろうか。祖母の病状への不安は消えていた。心配はあるが、残る時間を充実させようとなんだか勇気のようなものが湧いていた。昨日の不安が、あの言い様のない心の重さがずっと遠い日のことになったかのようだった。心が軽くなれば行動する元気も湧く。俺は調査のスケジュールを組み換え、祖母のもとへ帰省できるよう予定を立て直した。

 次に人魚の様子を見に飼育室へと向かう。昨日は結局瓶の水を替えずに寝てしまった。まさか死んでないといいが、とどきどきする。部屋に入り、ぎょっとした。

 

 はっきりと瓶の中の水が変色していた。昨日まではまるで熱帯のサンゴ礁の海の景色を切り取って瓶詰めにしたかのように、美しいエメラルドグリーンだったのに、今ではまるで都会の運河の泥が混ざったかのように黒く濁っている。人魚はその中でうっすらと赤い目を開き、ぐったりしていた。呼吸が弱々しい。


 やらかしたか! 水質が悪化したか!?


 俺は慌てて瓶を取り出し、海水を取り替えた。この実験場は飼育実験のために沖合の海水を引いているため、特定の蛇口をひねれば新鮮な海水が出る。生き物がショックを受けないように、汲んだ海水からチューブを通し、サイホンの原理で水を送り出す。あふれた海水が瓶の上からシンクへと流れて行き、次第に瓶内の濁った海水は新鮮なものに置換されるはずだ。


「え? いや、ウソだろ?」


 思わず声が出た。蛇口から新鮮な海水を入れたはずが瓶内の水がきれいにならない。そのくせに瓶の外へとあふれ出てくる水は透明で変色も濁りもない。あり得ないことだ。瓶を傾け三分の一ほど水を出し、直接海水を注ぎ込む。本来はやってはいけないような水の替え方だが、やはり瓶内の水は濁ったままであり、外に出る水に濁りは見られない。まるで、この瓶の中、人魚の周囲だけが汚れた世界になってしまったかのようだ。ふと、あの手紙に書いてあったことを思い出す。


「お前、本当に俺の感情を吸いとったのか? ばあちゃんの死への不安を?」


 人魚が目を開き、真っ赤にきらめく目でじっとこちらを見る。俺の言ったことを肯定こうていしているような気がした。この水の濁りは俺の負の感情を吸い取ったせいなのだろうか。そんなことはあり得ないと思うが、この真っ赤な目を見ているとなんとなく信じる気になってしまう。そんなことがあり得るのだろうか。だが、もし、もし万が一でもそれが本当なら……


「俺の頼みを聞いてくれたのか……ほんとに? ……ありがとう。だがそれはやめろ。返せるもんなら俺に返せ」


 自分でも気づかないうちにそう話しかけていた。


「俺の不安だ。俺のばあちゃんだ。どんな結果が待っていても俺が背負ったり、なんとかする感情だ。だから返してくれ。お前がそれで苦しむことじゃない」


 こんなか弱そうな生き物に、俺の代わりに負の感情を背負ってもらうのが、俺の代わりに苦しんでもらうことがバカげているように思えたのだ。この生き物が俺の不安を吸ってくれたと考えること自体もかなりバカげてはいるが。

 それに、あれだけ可愛がってくれた祖母が危ないというのに、不安の一つもしっかり抱えずに前向きになっている自分がひどく滑稽こっけいにも思えた。不安にさいなまれるのは楽しいものではない。できることなら避けて通りたい。だが、大事な人への感情を、例えそれがネガティブなものであってもそんな簡単に処理できていいのだろうか。その程度の気持ちしか、俺は持てない人間だというのか。


 俺は瓶を持って海岸に出た。逃がしてやろうと思う。俺の感情が俺のものであるように、こいつの生もこいつのものだろう。研究のために、俺は貝を初めいろいろな生き物の生をずいぶん犠牲にしているのだが、この人魚には情が湧いてしまった。


「じっとしてろよ」


 瓶口を石にぶつけて割り、人魚に傷がないことを確認してから海へと放った。人魚の肌は新鮮な魚のように少しだけぬるっとしていた。人魚は真っ赤な目でしばらくこちらを見ていたが、すぐに泳ぎ去っていった。その銀色の髪が太陽を照り返すもすぐに見えなくなる。去る直前、人魚の顔が笑ったように見えたが、果たしてどうだったのか。


 ふと、胃のあたりにあの重い感覚が戻る。


 これだ、俺の感情の重さだ。つらいけど、これでいいんだ……


 海に背を向け、実習場へと戻る。実を言うと少し怖さもあった。もし、本当にあの人魚がヒトの感情をなんとかできるなら、自分の感情を他の生物にコントロールされるのではないかという怖さが。まさかとは思うが、急にあいつを逃がす気になったのも俺の本心だったのだろうか。それともあいつの意志なのだろうか。後ろではいつまでも波の音が繰り返される。ふと一瞬だけ、きゅーんという聞いたことのない鳴き声が混ざったような気がした。

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