四冊目 『北斗の人』

捜索対象:司馬遼太郎著『竜馬がゆく』『燃えよ剣』他



桃もちみいか(@MOMOMOCHIHARE)さんが近況で

『燃えよ剣』

を取り上げておられました。


 もうタイトルみただけでテンションマックス。――大袈裟と御思いでしょうが、こればかりは理屈ではありません。

 自分以外の誰かが『燃えよ剣』を読んで面白いと思っている――それを知っただけでうれしい。

 自分で書いている分にはそうでもないのに、どうして人様のページで紹介されていると、こんなに深いところまで刺さるのか(笑)


 特に『燃えよ剣』そして『峠』は、新しく映画で見られるのが楽しみで、最近読み返したばっかりです。


(……みられるよね? スクリーンでガトリング砲が見られるよね? ね?)


 剣道やってた頃、どっぷりハマった司馬遼太郎先生の歴史小説群。

 あのタイトルやこのタイトルやらがもう、浮かんでは消え浮かんでは消え。

 気が付けば、一度棚から外して頑丈めの衣装ケース(透明)に退避させていた歴史時代小説を掘り返し始めていました。


 ――うん。そうですね。また寄り道ですね……


 それはともかく!(強引)

 いやー先輩との地稽古(互角稽古)で『鶺鴒の尾』をやってみたら「ふざけんな!」とボコられたのもいい思い出。

「セキレイの尾って、実は相手を挑発して怒らせる技で、実力差がある場合、怒った相手に一方的に殴られるだけなのでは?」とか悟りました。(間違っています)


 ◇◇◇


司馬遼太郎。


 1923年(大正12年)大阪に生まれる。記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。時代小説、歴史小説に代表作多数。また『街道をゆく』など数多くの随筆では歴史と土地、そしてそこに住む人々に温かくも鋭いまなざしを向ける。

 講談ではなく教科書でも専門書でもなく、現代人に受け入れやすい、喜びや怒り、あるいはコンプレックスを抱く人物としてキャラクターを生き生きと描き、遠い過去の歴史的偉人達や名もなき人々を、等身大の人間として私たちの前によみがえらせてみせた。

 その作品の影響はもはや娯楽読み物の枠を超え、独自の史観は多くの人の共感を呼び、現代日本人の歴史観にすら大きな影響を与える。1996年(平成8年)没。

 享年、72歳。


 ……このエッセイでよもやこの人の、プロフィールを紹介することになるとは思いませんでした。


『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『世に棲む日日』『花神』『峠』そして『北斗の人』。

短編集の『新選組血風録』『幕末』そしてなんといっても!『人斬り以蔵』!


 ……みごとにチャンバラと戊辰戦争に特化している石束の性癖……じゃなくて趣味がまるわかりです。


 一人一人に、その人だけの『司馬遼太郎』がある、ということなのでしょう。

 読んだ本と好きな小説を書き出してみると色々発見があるかもしれません。


 今でこそ『坂の上の雲』も大好きですが、前述の作品あたりを読んでた頃はまったく食指が動きませんでした。『艦これ』やってなかったら、一生読まなかったかもしれない(いらない告白)


 ――ごほん。


 その、あまりに魅力的なキャラクターとストーリー。登場人物への愛情や悲しみを感じさせる描写。分かりやすく強い説得力をもつ独自の人物像と歴史解釈、平易でありながら決して単調ではない文章によるアウトプット。

 膨大な下調べや知識量に裏打ちされるとはいえ、これはフィクションであり娯楽作品。そう承知で読んでいた。そのはずだったのに、気が付けば自分自身の歴史観やさらには人生観までが物凄く影響を受けていることに、しばらくたってから気づく。

 それこそ日本史のレポートや論文を書くときに

「巷間言われるところの坂本龍馬像は司馬遼太郎の小説の影響が大であるはあるけれど、この度新発見の書簡類を見た限りにおいては……」

なんて但し書きを入れなければならない程に――まるでそれが、さも『現代日本人の思う日本史の常識』であるかのように、読み手の思考と心の奥に届いて、残る。それも作品だけじゃなくてそこから生まれたテレビドラマや映画によって繰り返し、繰り返し……


 今の日本人の歴史観にこの人の作品がどれほど大きい影響をあたえたかと思うと、そらおそろしいくらいです。

 無理もない、とも思います。

 いやもう、いったん読み始めたら止まらない魔的な魅力というか、中毒性があるといおうか。つい魔が差して全部机の上において読み返して……楽しくて幸せで。

 

 そして。その一方で。カクヨムで遊んでいるわが身を省みると。


 自分の書いた文章の中に司馬作品のくっきりとした爪痕を感じてりつ然としていたり。

「そうか。石束じぶんの、剣道女子好きのルーツはこんなところにあったのか」とか今更気づいて愕然としたり。

「……さな子さん、かわええ。」とか、高校時代の自分よりも素直になった自分を発見したり。

「――というか、こんな、いつ読んでも何度読んでも面白い時代小説がこんなにいっぱいあるのなら、自分で書く必要なんてないやん」とか、なんとなく挫けたり。


 等々、うっかりパンドラの箱を開けちゃった感があります。

 いろいろ創作の姿勢とかアイデンティティとか色んなものを、現在進行形でぐらんぐらんゆらされておるのです。

 正直、「読むんじゃなかった。開いちゃったよ。どうしよう」などという気分にすらなります。

 とはいえ、ここで筆を投げてしまっては、先にまな板に上げた大先達方の諸作品に申し訳が立たないので、ともかくも一稿まとめたいと思います。


 とても虚心では向かい合えない小説ばかりで、あれこれ書いてもとっちらかる一方なので、ごく狭いテーマでの感想文にしたいのですが、石束視点の、勝手な感想ですので、そのあたりは汲んでいただけたらなと思います。


 どのへんをテーマとするかというと。

 高校大学時代に激しく自己を投影した司馬作品中の

「剣術道場」

あたりを中心に本稿は進めてまいりたいと思うわけです。


◇◆◇


 放課後に図書館と剣道場にしか行かない高校生活を送る人間がいたとして。

 たぶんそのかばんの中に文庫本があるとしたら、コレしかないだろう、

『燃えよ剣』と『竜馬がゆく』。


 ……いや、そんな高校生がどのくらいいるかもわかりませんが。


『六三四の剣』に代表される村上もとか作品や盛田賢司さんの『しっぷうどとう』『月明星稀』。女子剣道漫画『BAMBOO BLADE』etcetc…… 剣道マンガにもいろいろありますが、けっして数が多くはないそれら読み終えてしまうと、小説の方に進まざるをえないわけで。

 ご存じの方にはいわでもがなですが、『燃えよ剣』は冒頭、主人公土方歳三が、因縁のできた相手と決着をつけるべく剣(ちから)を望み、試衛館を舞台に剣術と喧嘩にのめりこんでいきますし、『竜馬がゆく』は坂本龍馬が剣術留学のために故郷を旅立つところからはじまります。いずれも彼らの人生の出発点は剣。『道場』で剣を学ぶところから立ち位置と自分自身を確立していくのが序盤の流れです。


 江戸時代後期は竹刀による稽古法が実用化され、木刀よりも袋竹刀よりも安全に稽古が出来るようになった、日本剣術史上の画期でもありました。

 世情が不安になると武術道場がはやるのは世の常です。フランスでも革命前はフェンシングの道場が増えたなんて話もあります(サバチニの『スカラムーシュ』が丁度この頃のお話)が、学ぶ人が増え、道場が増え、竹刀と防具による安全な稽古法が確立され、指導者によって教え方や剣の技術そのものにも差異が生じ、それを流派の特徴と許容することで、流派ごとの個性――剣風が生まれる。

 灼熱の時代のほんの少し前。それぞれ縁のできた場所で過ごす後の志士たちの青春時代。各々さまざまに、流儀の道場で剣を学んだ若者たちが、その教えを時に体現し、時に背きながら人生を歩いていくための手がかりとする。

 そのような青春が司馬作品の登場人物の共通の原風景として存在するのです。


『剣道の理念とは、剣の理法の修練による人間形成の道である』とは、今日、剣道にかかわる人が等しく共有する現代剣道の理想ですが、


「維新を己の体一つで駆け抜けた若者たちの出発点に存在し、その生き方すらも左右した『剣術』。司馬遼太郎という人は『剣』を人格形成の重要なパーツとして幕末動乱の英雄たちを描こうとしているのではないか」


とそのようにも感じました。


 もちろん「身に着けた流儀やその修行の過程が、人間の人格にも人生にも、あるいは「死にざま」すらにも影響を与える。与えずにはいられない」というのは、司馬遼太郎作品のみならず、剣豪剣客を主人公とする時代小説の定石でもありますので、その点でもこれらのお話は王道のチャンバラでもあるわけです。


◇◆◇

 

 とそんな理屈っぽいことはさておき。


『竜馬がゆく』の『剣術修行編』とでもいうべき序盤、文庫本だと第一巻の後半ぐらいに、

「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」

という言い回しがあります。

(反射的に仮面ライダーを思い出しそうですが、たぶん関係ありません)

 これは松崎浪四郎という剣術家の方が残した批評が大元ですが『安政諸流試合』とその後の『対抗戦』のエピソードで、それぞれの道場を代表して登場する剣客たちがそれはもう、この言葉がぴったりくるような味付けで出てくるわけです。これがほんとに楽しい。

 いま、なろうやカクヨムでも見かける、異世界学園ものでの『対抗戦』ネタは、ずっと遡ると、実は『竜馬~』の『安政諸流試合』を見た人がはじめたんじゃないか、とか思うくらいカクヨム目線で見てもぐっさり届く面白さです。


「いやあ、『燃えよ剣』とか上下巻だし、『竜馬がゆく』は全六巻だし。今更ちょっと手が出ないわ」


 という方も、ぜひとも第一巻だけでも読んでみてください! 『燃えよ剣』も京都へ行く手前あたりまで!

 これがもう「青春剣道小説」として実に完成されています。

 特に『竜馬がゆく』の文庫第一巻は、龍馬と(剣道漫画的にいえば、大体)宿命のライバル(っぽい位置づけの)桂小五郎との全力対決で丁度終わって、キリもいいのです! 武士とは何か、ここにいる『おのれ』とは何者かを語り合う、龍馬と桂が初々しい(笑)

 そしてここで一旦『竜馬~』にしおりを挟んで、ザッピングっぽく『燃えよ剣』を読むと、桂小五郎がこっちにも出てきます。


 桃もちみいかさんの近況ノートでもちらっとありましたが、どこか屈折や暗さ、執念深さを漂わせる本作の土方歳三。桂に「ねちっこく」絡むんですよね。これに対して

「逃げますよ」

と、さらりと答える桂小五郎。

何となく後々関係を予感させるやり取りに、しびれます。


 個人的に。あくまで個人的な印象なのですが。

 石束は、司馬遼太郎という人は、時代小説や歴史小説の人物造形や行動原理に「恨み」「怒り」「情念」「怨念」ではなく、深刻さでいえばそのずっと手前の「コンプレックス」を持ち込むことで、キャラクターから時代小説的な重さや暗さを取り除くことに成功したのではないかと思っておりまして、青春時代の坂本龍馬・桂小五郎・土方歳三の三人の在り様を対比させるこの書き方にものすごく納得したのを覚えています。


◇◆◇

  

 なおもつづけます。

 剣術道場を舞台とした青春群像というべき、『竜馬がゆく』『燃えよ剣』の序盤ですが、この勢いでつっぱしってしまいますと(笑)


『竜馬がゆく 桃井道場外伝』とでもいうべきお話が岡田以蔵・武市半平太を中心とした『人斬り以蔵』(短編集『人斬り以蔵』所収)。

『燃えよ剣』『竜馬がゆく』の両方で強キャラとして登場する桂小五郎。そのルーツを神道無念流に求める『逃げの小五郎』(短編集『幕末』所収)は、まさに『竜馬がゆく 斎藤道場外伝』でした。

 

 じゃあ千葉道場はどうなっているのかといえば、千葉周作を主人公とした『北斗の人』が面白いです。

『燃えよ剣』の中で千葉道場に触れた時にものすごく千葉周作をほめる箇所があるのです。(比較対象で天然理心流がケナされるんですが)そこが頭の隅に残っていると龍馬が学んだ北辰一刀流と千葉道場がどんな風に出来上がったのかが『北斗の人』を読んでいるうちにだんだん鮮明になってきて

「そうか千葉道場とは、そういう『教育の場』だったのか」

と思えるのです。


 歴史上、千葉周作と坂本龍馬はすれ違いで出会えません。あっていたらどんなに楽しいか。ナリこそ大きいが子供の龍馬と、最晩年の千葉周作が、一言でも言葉を交わしていたとしたらどんな会話をしたろうかと考えるだけでも、ワクワクするのですが(笑)、惜しいところですれ違うというのも、それはそれで歴史の妙というものでしょう。

 

『北斗の人』はお玉が池玄武館の草創期で終わっていて、『竜馬がゆく』の定吉先生(作中では貞吉先生)や重太郎さんさな子さんは出てきませんし、『四天王』の森要蔵も入門前。『竜馬がゆく』第一巻最後あたりで登場する『千葉道場最強』千葉栄次郎が、『北斗の人』の最後の後日譚部分で少し出てきて、『世界』をつないでいます。

 そういう意味では『竜馬がゆく』の後に読むと『竜馬がゆく 千葉道場外伝』みたいな感じにみえなくもありません(笑) というか見えてきます。


『北斗の人』において、千葉周作は「武士の独占物であった剣術を、誰にでもわかるように作り替えた人物」として規定されました。

 それは『竜馬がゆく』で、破格の、それまでの日本人の枠を飛び越えた快男児として描かれた坂本龍馬が若き頃に学び、その思想に影響を与えた「北辰一刀流」を作った人物であれば、

「きっとそんな人であったろう」

という司馬作品世界における物語的必然であって、けっして史実ではなかったのかもしれません。

 それでも「なるほどなあ」と納得させてしまう力があるのが、司馬遼太郎作品のすごいところだとおもいます。


◇◆◇

  

 若き日の英傑たちに深く刻み付けられる、それぞれの流派の『剣理』。


『燃えよ剣』で、土方歳三が沖田総司が、試衛館の近藤勇とともに古き武士を体現するかのような天然理心流を学んだこと。その剣を引っ提げて乱離たる時代のど真ん中へ駈け込んでいいったこと。


『竜馬がゆく』で、坂本龍馬が桶町小千葉で北辰一刀流を学んで、その自由で明るく合理的な剣風に触れたこと。江戸という情報の最先端で未来と世界への目を開いたこと。


『人斬り以蔵』では、鏡心明智流・桃井道場の塾頭となった武市半平太が組織経営に才覚を示したこと。身分と貧しさゆえに我流で殺人剣を身に着けた岡田以蔵が自らのゆいいつの『剣』(さいのう)に引きずられるような生き方しかできなかったことが描かれ、


『逃げの小五郎』では、「力の斎藤」と呼ばれた神道無念流・練兵館の塾頭であり、屈指の撃剣家だった桂小五郎がなぜ『逃げの――』とよばれたのか、ということに触れる。


『北斗の人』は最後の剣豪とでもいうべき剣術家であり、同時に優れた教育者であった千葉周作が、古い時代の剣術を解体して、合理的で明解な『北辰一刀流』を打ち立てるまでを描く。それは北辰一刀流のみならず、最先端の江戸の剣術道場の主流となり、そんな各々の道場は剣術とともに最新の情報を共有し未来を語りうる交流の場、人材の供給源となっていく。その対極に気組と木剣で心身を練り上げ、相手をねじ伏せる天然理心流の剛毅をもって武士道を体現する男たちの集団『新選組』を置くと、両方が際立って分かりやすく、また読んでいるこちらの心にしみこんでくる。


 変化を加速する合理、理想を守り続ける意地の相克が、激突する動乱への兆しが、若者たちが無邪気に稽古をしている道場の風景を起点としていると思いながら読むと、なんかこう、竹刀を握る手に力が入るような気がしてきたものです。


 あー、なんか無性に素振りがしたくなってきたー!

 竹刀袋、どこにあったかなー


(本の整理、いつもどおりに中断)


 



 



 

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