第8話

     ◆


 森の中を歩き始めると、猟師は俺の弓がない、と言い出した。

「元の場所へ戻りますから、そこにあるかもしれません」

 オリフがそう答えると猟師は、仕事道具なんだ、大切なんだ、と繰り返していた。それはそうだろうが、自分が命を助けてもらったことを重く受け止めてほしい。もっとも、本人は死んだことを忘れているようだが。

 元の場所へ戻るのは造作もなかった。森の中の目印を知りすぎるほどに知っているし、足跡を辿ればよかった。そこにちゃんと弓が落ちていた。矢筒もだ。こちらは私が彼を切り捨てた時、一緒にベルトを切り払われて落ちたようだった。

 弓を確かめてから、ここならもう帰ることができる、と猟師が言う。やれやれ、これで終わりだ。

「しかしあんたたちは、どこの誰だ?」

 やっとそれに気づいたというか、弓を手にして矢もあって、少しは余裕ができた、ってところかな。

「この森には悪魔が出ると噂になっている」

 冗談めいた口調だが、その向こうに恐怖が見えた。

「あんたたちが、その、見間違えられたのかな」

「この世に悪魔がいるという根拠を知りたいかな」

 私が言葉尻をことさらに取り上げるように言うと、猟師の顔が強張った。強張ったが、私たちが子供にしか見えないせいだろう、彼の心は危ういところで挫けなかった。

「悪魔はいたと思うがね。昔は龍だって実在した」

「だから、根拠は?」

「俺は、見たことがある。龍を、見たんだ」

 猟師がよくわからないことを言い出したので、思わずオリフを見てしまった。オリフもこちらを見て、視線がぶつかる。私としては、この猟師が一度死んで、アルカラッドに蘇生されたせいで、何か不具合が出たとしか思えなかった。

「どれくらい前のことですか?」

 冷静な声でオリフが質問すると「子供の頃さ」と猟師が変に熱っぽい視線になり、語り始めた。

「まだ子供だった。二十年は前だ。父親がやっぱり猟師で、俺を連れてこの森へ入った。そうだ、父親が言っていた。神殿があるが、近づいてはいけない、そこは聖域だと。あの神殿がそうかもしれない」

「龍をどこで見たのですか?」

「いや、木立の向こうに見えた。俺と父親で鹿を追いかけていた。追いかけていたってほどじゃないな、あれは。それより前に矢が当たったが、鹿は逃げた。父親は、いずれ動けなくなるから、ゆっくりと森の中を進んでいた」

 こんな話を聞いて、何の意味があるんだろう? そう思いつつ、オリフが真面目な表情で聞き入っているので、私は黙っていた。

「鹿が木立の向こうで、何でもない木の幹に寄りかかって、動かなくなっていた。しめた、とも思ったし、これで帰れるとも思った。距離はそうだな、百メートルほどだった。そこへ、龍がやってきたんだ」

「どのような?」

「最初、空が陰った。だから頭上を見上げた。何かが落ちてきた気がしたが、それは巨大な翼で、しかしほんの一瞬で、消えた。視線を下ろすと、奇妙な生物が動かない鹿のすぐそばにいた。二本の足で立ち、首が長い。翼もあった。うろこに覆われている。瞳が、真っ赤なんだ」

 それはまた、昔話のそのままじゃないか。

「その龍が、倒れている鹿に、頭を近づけた。鹿が震えた。ただ、そこで龍がこちらに気づいた。それで、その、溶けるように消えた。影みたいに、消えたんだよ」

 どうやら本当に、彼はどこか具合がおかしいらしい。

 私はもう興味を失って、オリフを連れて去ろうとした。だけど猟師が最後に口走った。

「鹿に近付いて、死んでいるのを確認した。でも、ものすごく熱かった。死んでいるとは思えないほど」

 反射的にオリフを見る。オリフはこちらを見ずに猟師をじっと見ている。猟師はもう、地面を見ていた。

「こんな話をあんた達にするとは、俺もどうかしている。あんた達も、無事に帰れよ」

「ええ、こちらこそ、興味深いお話でした」

 微笑んだオリフに、ばつが悪そうな顔をしてから、「ありがとよ」と手を持ち上げてから、猟師が離れていった。

「帰ろうか、アンナ」

「さっきの話をどう思う?」

 すでに見えなくなった猟師が去った方を見てから、オリフが答える。

「事実かもしれないし、違うかもしれない」

「龍が鹿を生き返らせる意味は?」

 そうなのだ。そこが一番、気になった。

 アルカラッドは猟師を蘇らせた。なら別の龍が、鹿を蘇らせてもう不思議はない。

 しかし何故、鹿を?

「龍からしたら、人間も鹿も、大差ないよ」

 あっさりとオリフがそう言って、身を翻したので、私も渋々とそれに従った。背中に声を投げかける。

「なんか、馬鹿にされている気がするけど」

「次元が違うんだ。時間もね」

「どういう意味?」

「そうだね、これは、僕たちが植物を採集するのにも似ている。森の中で山菜を採るのも、木の実を採るのも、僕たちからすれば大差ない行為でしょ? それと同じように、龍にとっての生命は、人間だろうと鹿だろうと同じなんだろうね」

 訳のわからない理屈だった。

 人間と鹿。山菜と木の実。次元が違いすぎる。

 神殿に戻り、置きっ放しだったカゴの中身を整理して、その時にはすでにいつも昼食になる時間帯だった。二人で手分けをして料理して、どうにか形になった。アルカラッドは何も言わず、もういつもと変わらない。

 午後になり、講義の時間になった。アルカラッドの魔術が時空を捻じ曲げ、私たち三人はそのままどこともしれない岩山の上にいた。

 崖の上で、下を見下ろすと人々が列になって歩いていくのがよく見えた。ほとんどが女か子供、老人で、武装している兵士は少ない。その兵士も皆一様に疲れている様子だった。頭上を振り仰ぐものもいるけど、私たちには気づかない。太陽の角度で、まぶしくて見えないのかもしれない。

「ここに何があるのですか?」

 オリフの問いかけに、「悲劇の一つさ」とアルカラッドが答える。

 咆哮が頭上から響き渡った。今度は私とオリフが頭上を仰ぐことになる。

 真っ青な鱗をした龍が舞い降りてくる。人々が悲鳴をあげ、逃げ惑うのを睥睨し、龍が首をたわめる。

 伸ばす動作と同時に、息吹が吹き荒れた。高密度の魔力、火炎に限りなく近い波動が谷間を席巻した。

 龍の息吹は火炎に見えても、火炎のように対象を焼き尽くすというレベルではない。

 息吹に触れた途端、人々が塵に分解され、断末魔もあげず、消えていく。肉体だけじゃない。服や持ち物も消えていく。

 まるで夢、悪夢のようだった。

 生き残った人々が悲鳴をあげることもできず、龍を見ていた。

「やめろ!」

 声を上げたのは私のすぐ横にいるオリフだった。



(続く)

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