葉桜の君に

一視信乃

今より先を

 春川桜子はるかわさくらこ、4月生まれの27才。

 大学を出てからずっと不動産会社で働いてきたが、去年の秋自主退職し、今年の春、デザイン専門学校へ再入学した。

 あこがれの、グラフィックデザイナーになるために──。


        *


 午後12時30分。

 二時限目が終わり昼休みが始まると、グラフィックデザイン科Bクラスの大半は、教室からいなくなる。

 友だち同士連れ立って、学校近くのコンビニかファーストフード店にでも行くのだろう。

 にぎやかな女子グループのあとを追い、わたしも慌てて廊下に出るが、エレベーターへ向かう彼女たちには背を向けて、ひとり足早に階段を下りる。

 一階に着くと、エレベーターはまだ来ていない。

 わたしは急ぎ玄関を飛び出し、前の通りを駅の方へと突き進む。

 肩にかけたトートの持ち手を、ぎゅっと強く握りしめて──。


 平日にも関わらず、駅周辺には人が多い。

 ビジネスマンに買い物客、学生らしき若者たち。

 その人混みにまぎれ、ようやくちょっと一息つく。


 ──さて、今日のお昼はなんにしようか。


 あれこれ迷いながら、駅ビル一階の食品フロアを抜け、二階から続く駅の自由通路を南口へ向かって歩く。

 そこにもいろいろお店はあるが、結局駅のコンビニで、アップルパイとカレーパンと、それからペットのラテを買った。

 これで昼食はゲット出来たが、まだ学校へは戻らない。

 そのまま南口を出て、高い所をゆったり走るモノレールのオレンジを横目に、駅から少し離れた児童公園を目指す。

 その隅にあるベンチでランチが、最近のわたしの日課だ。

 もちろん荒天中止だし、赤鬼の滑り台で遊ぶ子供たち (とその親たち) も大いに気になるが、しょせんは赤の他人だと無視することにした。

 ためらってたら昼休みなんて、すぐに終わってしまうもの。


 いつものベンチにトートと座ると、さっそくリンゴのパイをかじる。

 こぼれたカスがそよ風に乗って、どこかへ吹き飛ばされていく。

 今日は気持ちいいからいいけど、風の強い日は大変だったなぁ。

 これからどんどん暑くもなるし、来月には梅雨も始まる。

 そしたら、どこで食べればいい?

 学校近くじゃ誰か来るかもしれないし、毎日ベンジョ飯もイヤだ。

 悶々もんもんとしながら、カレーパンの最後の一口を飲み下したとき、「春川さん」と名前を呼ばれた。

 ラテ飲んでたら、噴き出してたところだ。


「何してるんです、こんなところで?」


 男にしてはやや高いハスキーボイスに振り向くと、メガネをかけた若い男が、小首を傾げこちらを見ている。

 コジャレた青いストライプシャツに色せたデニムというさわやかな出で立ちの彼は、あきよう、25才。

 デザイン科講師でBクラスの担任だが、人の良さそうなその顔は、パッと見、生徒にしか見えない。

 同級生が年下なのははなから覚悟してたけど、まさかセンセイまでとはね。

 向こうもさぞ、やりにくかろう。


「別に……ちょっと一休みしてただけです」


 答えながら、コンビニの袋をスカートで隠す。

 食べ終わっててよかったと、心底あんする。


「いいですよねぇ、この公園。僕も好きです。隣いいですか?」


 ヤダなんていえるわけがない。

 わたしは黙って、トートをひざに乗せた。

 二人がけのベンチだから、自然と距離が近くなる。


「あのオニ、見た目はちょっと怖いけど、この町の守り神なんですよ。春は桜がとてもキレイで、お花見に来る人も多いんです」

「桜? ホントだっ」


 園内に、ほどよい木陰をもたらしている、したたるばかりの緑は桜だ。

 夏のトーンに近付きつつある晴れた空によく映えて、コントラストが目に美しい。


「好きなんですか、桜? やっぱりだから?」

「桜キライな人なんて、あまりいないんじゃないですか」

「それはどうだろう? 僕もまあ、キライじゃないけど──」


 頭上にしげる若葉をあおぎ、彼はフッと息をらす。


「──なんか懐かしいなぁ。この近くに美大の予備校があるんだけど、その帰りにもよくこうやって、おしゃべりしたっけ」

「それってカノジョとかですか?」


 先生らしからぬ物言いにからかうようにたずねると、「まあね」とあっさり肯定こうていされた。


「絵が好きな子だったよ。マジメで一生懸命で……」


 レンズの向こうの黒い目が、不意にまっすぐわたしを見る。


「ちょっと春川さんに似てるかな、髪型とか雰囲気とか」

「えっ」

「おっと、そろそろ戻らないと」


 腕時計を一瞥いちべつし、すっくと立ち上がった彼は、もう先生の顔だった。


「春川さんも、遅れないよう気を付けて。駅通るより、モノレールの下か地下道通った方が早いですから」


 遠ざかってく後ろ姿を、わたしはただ呆然ぼうぜんながめる。


 ──からかうつもりが、からかわれたんだろうか。


 なんか釈然しゃくぜんとしないけど、余計なことにかかずらってる場合じゃない。

 午後の授業に出るために、わたしもノロノロ立ち上がった。


        *


 四限が終わっても課題が終わらず、しばらく居残ってやっていたら、すっかり遅くなってしまった。

 日脚がだいぶ伸びたとはいえ、世界の明度は下がってきている。

 いつもは本屋か画材屋、あるいは図書館へ寄ってから帰るけど、さすがに今日はまっすぐ帰るか。

 あんまし帰り遅くなると、親もあれこれうるさいし──。

 そう思って駅まで来たが、いつも以上の大混雑に、やっぱり寄り道することにした。


 わたしは南口を出て、黄昏たそがれる街をブラブラ歩く。

 自然と目に入るのは、浮かれたグループやカップルたち。

 わたしも昔はあんな風に、女子会したりデートしたりしてたっけ。

 女子会は、友人の半数以上が結婚してからあまり開かれなくなったし、あったとしても、ノロケにしか聞こえない夫のグチや子供の話ばかりでツマラナイから行くのをやめた。

 独身の友人たちは、それぞれシュミや仕事、あるいは婚活で忙しいらしい。

 彼氏とは、向こうが転勤で遠距離になったら、あっさりと終わってしまった。

 もう3年も前の話だ。


 ──ああ、なんか無性にみたくなってきた。


 とはいえ飲み屋は高いから、スーパーで缶チューハイを一本買って、またあの公園へと向かう。

 蒼然とした園内には、まだ意外と人影があったが、それにはいっさい構わずに、街灯そばのベンチを占拠し、レモンのチューハイをぐびぐびあおる。

 それからハーッと一息ついて、退屈な夜景を眺めていると、「春川さん?」と名前を呼ばれた。

 チューハイ呑んでたら、噴き出してたところだ。


「何してるんです、こんな時間に?」


 覚えのあるシチュエーションにもしやと思い振り向くと、やはりいたのは先生だった。

 昼間は手ぶらだったけど今はカバンを持っているから、仕事帰りなのかもしれない。

 そんなどうでもいいことを思いながら、今度はいつわりなく返す。


「ちょっと一休みしてるだけです」

「もう暗いし、女性一人じゃ危ないですよ」

「大丈夫。今のわたしは、桜じゃなくて葉桜ですから」

「は?」


 「そう、葉」といって、宵闇に沈む桜を仰ぐ。


「この木とおんなし。花の盛りを過ぎたから、誰にも見向きされないって」

「そんなことないですよ」


 思いがけない否定の言葉に、驚いて見返すと、彼はさらにキッパリいった。


「葉桜だって、瑞々しくてキレイです」

「そっちかよっ」


 思わず突っ込んでしまったら、なぜかげんな顔をされた。


「春川さん、もしかして酔ってます? それ、お酒ですよね」

「そりゃあもうオトナですから、お酒くらい飲みますって」


 わたしはプラプラ缶を振る。

 酒豪というほど強くはないが、これで酔うほど弱くもない。

 ここでカワイく酔ったフリとか出来たらいいんだろうけど、残念ながらわたしにはムリだ。

 それでも一応誘ってみようか。


「先生も一緒に呑みます?」

「いえ、結構です」

「それじゃあ、もうお開きってことで」


 即否定がなんか悔しく、缶を空にし立ち上がる。


「サヨウナラ、


 そのままとっとと帰ろうとしたら、いきなり腕をつかまれた。


「待って、っ!」


 いつもより甲高い、ハスキーな叫びが耳を打つ。

 ぎょっとして顔を向けると、向こうもハッと我に返ったように手を離した。


「ゴメン……」


 短い謝罪のあと、彼は一つ深呼吸して、真顔になる。


「春川桜子さん。Bクラス担任として、あなたに聞きたいことがあります。ちょっと座って下さい」


 なんとなくあらががたい雰囲気で、わたしは黙って従った。

 二人がけベンチに並んで座り、緊張しながら出方を待つ。


「春川さん、お昼いつもどこで食べてます? 学校にはいませんよね?」


 それは今、触れられたくない話題の一つだった。

 だからこそ、平静を装い、「外食してます」と答える。


「外食ねぇ」

「ダメですか? 他の子だって、牛丼屋とかバーガー屋とか行ってますけど」

「それは別に構いませんけど、春川さんはお店じゃなく、ここで食べてますよね」

「なんでそれっ……」


 聞くまでもない、見られてたんだ。

 今日だけじゃなく、前からずっと。

 どうやらここ、彼の通り道みたいだし。

 もっとよく、確めればよかった。

 己の愚かさを呪いながら、わたしはなんとか言葉を探す。


「……外で食べたい気分だったんです。新緑、気持ちいいし」

「天気の悪い日は?」

「そういうときはお店で食べます」


 半分ウソだけど。


「別に学校で食べてもいいんですよ。パソコンルーム以外ならどこででも」

「それは……いいです」

「なんで?」


 しつこい追及に、わたしは観念した。


「ボッチ飯見られるの、カッコ悪いじゃないですか」

「だったら誰かと一緒に食べれば──」

「誰かなんていませんよ。こんなオバサン、誰も誘ってくれませんし」

「それは春川さんが先に距離置いたからじゃないですか。誰かが誘おうとする前に、言葉は悪いけど、逃げたから」

「……それは、そうかもしれません」


 初日から、わたしは逃げた。

 若い子のノリに付いていかれず、バカにされるのが怖くって。

 入学前からわかってたハズなのに、実際間近に見た同級生たちは、みんなまだまだ子供みたいで、一気に気後れした。


「でも、わたしがいたら、みんな変に気ぃ使うだろうし……」

「僕もまあ、春川さんと同年代だし、たまにアイツらのノリについてけないときがあるからわかるけど、互いに気ぃ使うのは、悪いことじゃないでしょう。

 社会に出れば、いろんな年齢の人たちと付き合うことになるわけだし、それに、うちの科の子たちは、ヲタク気質というか、絵を書くのが好きなおとなしい子が多いから、そこまで怖くないと思いますよ。

 そもそも、春川さんがお昼にいないって気にかけてたのも、生徒たちですし。

 僕はたまたまそれを聞いて、こっそりあとを付けただけで」

「えっ?」


 それって、学校出たときから、ずっと見られてたってこと?


「ごめんなさい。どうしても気になったから、尾行しちゃいました。

 あっ、今は本当に偶然ですよ。たまたまこの近くの店に行く途中で──」

「……いいですよ、もう」


 偶然だろうがなんだろうが、今さら何も変わらない。


「すみません。

 すでに出来た輪に、後から入るのは難しいかもしれませんが……そうだ、今度僕の授業のとき、バーベキューにでも行きましょうか。

 それをきっかけにみんなと仲良くなれるよう、僕もサポートしますから」


 子供にでもいうように優しくさとす先生の顔が、淡くにじんできらめいて、うっすら光輝いて見える。

 やっぱり少し酔ってるのかな……。

 メイクが落ちるのも気にせずに、わたしは何度も目元をこすった。


「春川さん?」

「……わたし、余裕がなかったのかもしれない」


 充実した日々を送る友人たちの話を聞くたびに、自分はこのままでいいのかと不安になり、30になる前になんとかしなくちゃと焦って仕事をやめたけど、不安はさらに増すばかり。

 果ては、クラスメートの若さにまでしっし、すっかりくつになっていた。

 みんなの前では大人ぶってカッコ付けようとしていたけど、わたしだってまだまだ未熟だ。

 二年間この学校で学ぶと決めたんだから、変に焦らず学校生活も楽しまないともったいないかもしれない。

 もちろん、勉強もしっかりやって、ちゃんとグラフィックデザイナーになれるよう頑張らないと。


「ねぇ、先生。わたし、グラフィックデザイナーになれますよね?」


 大丈夫って言葉が欲しくて尋ねると、先生の笑みがこわった。


「それは……」


 さっきまであれだけ饒舌じょうぜつだったのに、急に黙りこんでうつむいて──。

 たった一言、ウソでもいいから「なれますよ」っていえばいいのに。

 それだけなのに。

 多分この人は、ばか正直な人なんだ。

 つまりわたしは、グラフィックデザイナーに……。

 彼の口から真実を聞くのが怖くなり、わたしはすっと立ち上がった。


「もういいです。ありがとうございました」

「あっ……」


 彼は顔を上げたけど、もう引き止めはしなかった。


        *


 翌日はちょうど秋田先生の授業がない日で、わたしは普通に登校し、いつもと同じに授業を受けた。

 昼も同じに外食で、と決めたけど、あの公園には行きづらい。

 じゃあどこで食べようかと思いながら下へ下りると、ロビーで先生が待ち構えていた。

 黒Tシャツにカーキのパンツというとてもシンプルなスタイルで、なぜかメガネをかけておらず、一瞬気付くのが遅れてしまった。


「お話があります。そこのテーブルで話しても構いませんが、よかったら公園に行きませんか」

「今忙しいので……」

「お願いします、聞いて下さい」


 頭を下げた先生の後ろで、事務員さんがこちらを見ている。

 自販機前の見知らぬ生徒も、チラチラ様子をうかがってくる。

 そのうち他の生徒たちも、たくさん下りてくるだろう。

 わたしは諦め、覚悟を決めた。


「わかりました。行きましょう」


 先生に付いて、地下道を通って公園へ行くと、確かにいつもより早く感じた。

 まあ、途中でお店に寄らないからってのも、あるかもしれないけど──。

 ベンチに腰かけた先生は、太股ふとももの上にひじを乗せ、祈るように指を組むと、おもむろに話を切り出す。


「まず、昨日の答えですが、なれると思います」

「ウソ──」

「ウソじゃない。これからうちで学ぶ知識と不とう不屈の精神、そして、丈夫な体さえあれば、全然大丈夫です。

 ただ僕は、君に、グラフィックデザイナーになって欲しくないと思った。

 君だけじゃない。すべての教え子に、なって欲しくないと思っています」


 デザイン専門学校講師にあるまじき発言に、わたしは言葉を失った。

 だが彼は、構わず続ける。


「僕にはかつて、グラフィックデザイナーの恋人がいました。前に少し話した、高校の頃から付き合ってた子です。

 僕らは同じ美大でデザインを学んでいましたが、僕は後輩の指導を手伝ったのが面白くて先生になる道を選び、彼女は憧れていた広告会社に就職した。


 僕もまあ、いろいろ大変だったけど、向こうは毎日終電で、徹夜も休日出勤も多くて、会う時間も取れないくらい、すごく忙しそうだった。でもアイツ、大変だけど面白いっていって、作ったモノとか見せてくれたりして、僕も、スゲーじゃん頑張れよって応援してました。

 けど、彼女はちょっと頑張り過ぎていたんです。


 ある日彼女が、病院に運ばれたって連絡が来ました。駅で、電車にぶつかってケガしたって。

 過労で倒れたらしいけど、自分から飛び込もうとしたようにも見えたって。


 まあ、ケガ自体は大したことなかったんだけど、うつ病って診断されて、しばらく入院してました。

 別人みたいにやつれちゃって、僕と話すのもつらそうで……」


 そう語る先生の顔も、ひどくつらそうに見える。


「退院した彼女は仕事に戻らず、親の田舎へ行ってしまった。

 仕事のことで悩んでたって、あとから人に聞きました。

 ツラいなら辞めればっていったのに、せめて二年以上は続けないとっていってたって。アイツ、スゴいマジメだから。

 それに優しかったから、僕には何もいわなかった。大丈夫って笑ってた。

 心配かけたくなかったんだろうけど、僕はいって欲しかったよ。

 話聞くくらいしか出来なかっただろうけど、それでも頼って欲しかった。

 さくら……」


 ふっと桜の木を見上げ、語りかけるよう呟いたのは、ひょっとして彼女さんの……?


「彼女、さくらっていうんだ。がわ 桜。だから、春川さんの名前がなんか引っ掛かって、雰囲気が似てるっていったのも本当で、彼女もこんな風に一人であれこれ悩んでたのかなって、スゴい気になった。

 それに、さくらがあんなになったのも、グラフィックデザイナーなんかなったせいだから、君には、なって欲しくないって思ったんだ。ゴメン。

 あー、僕、先生失格だなぁ……」


 弱々しく笑う彼に、一体なんて声かければいい?

 安っぽい慰めなんて、もう気休めにもならないだろう。

 それでも何かいわなきゃと、わたしは必死に言葉を探した。

 わたしが今一番伝えたいこと、それは──。


「ありがとうございましたっ。いろいろ心配してくれて。ツラいことも、話してくれて。とても嬉しかったです。

 グラフィックデザイナーが、スゴく大変な仕事だってこともわかりました。

 でも、どんな仕事にだって、大変なことは、あると思います。

 わたしの会社でも、人間関係のことで辞めてった子とかいましたし。

 だから大丈夫とはいえないけど、まずは挑戦してみたい。


 それとわたし、先生の授業好きですよ。わかりやすくて楽しくて。

 最初は正直、年下だし、頼りなく思えたけど、昨日のアドバイスも先生らしくて頼もしかったです。

 先生みたいな “先生” に会えただけで、この学校を選んで良かったと心から思います」


 こんなこと素面しらふでいうの、恥ずかしいけど、わたしはさらに思いをぶつける。

 どさくさにまぎれ打ち明ける。


「わたし、やっぱり一人は寂しいから、みんなとも仲良くなれるよう、頑張ってみます。だから先生、手伝って下さい。

 それともうひとつ。来年ここで、お花見しませんか。大好きな桜、先生と一緒に見たいんです」


 公園の満開の桜の下、独り彼女をしのぶ先生の姿が脳裏に浮かび、わたしはなんとかしたいと思った。

 彼女との思い出を、全部塗り替えてしまいたいと。


「もちろん、イヤじゃなければですけど」

「来年……そこの鬼も笑いそうな、ずいぶんと気の早い話ですが、そうですね、しましょうか、お花見。桜、とってもキレイですから。

 あっ、葉桜だってキレイですよっ。美しい花を咲かせるために、必要な準備を始めた桜。確かに、君とおんなしですね」


 あとからそう付けたして、先生は柔らかく微笑んだ。


        *


「いやー、すっかり葉っぱが目立つようになっちゃいましたねぇ」


 鬼公園の片隅で、茶色いコートのポケットに両手を入れた先生が他人事みたくへらりといった。

 花曇りの空の下、園内の地面には、うっすら積もった雪のように桜の花が散り敷かれている。

 それはそれで風情があって美しいけど、葉が出始めた枝の方は正直あんま美しくない。

 中途半端な感じがイヤだ。


「葉太先生が、旅行へ行っちゃうからですよ」


 かたわらに立つ先生をなじるようにめ付けるも、彼は「開花が早かったから」と、しれっと責任転嫁する。


「いつもならまだ見頃なのに。なんなら去年の写真見せようか?」

「いいですよ、もう。先生とはお花見出来なかったけど、クラスの子たちと記念公園でお花見しましたから」


 わたしはプイッとそっぽを向く。

 背中で「えーっ」と声が上がった。


「なにそれっ。聞いてないんだけどっ。なんで僕も誘ってくれないのぉ」

「先生、旅行でいなかったじゃないですか」


 チラッと様子を窺うと、本気で悔しそうだったから、ほんの少し溜飲が下がった。


「よしっ、じゃあ来年っ。来年こそ、一緒にお花見しよう。絶対だぞ」


 そこの鬼も笑いそうな、ずいぶんと気の早い言葉だ。

 しかもどこか子供じみてて、わたしも笑いが込み上げてくる。


「そうですね。それこそ、いつ咲くかにもよりますけど、もしかしたらそのときはもう、新米グラフィックデザイナーとして、働き始めてるかもしれない。そしたらグチ、たくさん聞いて下さいね」

「ああ、もちろん。いっぱい聞くから、どんなことでも話してくれ」


 やや強い春風が、枝に残った最後のべんを、一気に奪い去っていく。

 その様をただ見送りながら、わたしたちは約束をする。

 移ろう花のその先に、明るい未来があると信じて。

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