第5話 ダエワの王政復古④

 ゆっくりと、子供だって倒れなさそうな速さで、アクル・トウンは左の拳を突きだした。

 突き出しながら、自身の足の位置や、腰との連動が、おかしくないかを確認する。

 確認の後、左拳を引きながら、同じくゆっくりと右の拳を突きだした。

 こちらも同じく、姿勢や形に、不具合が無いかをあらためながらである。

 同朋グチの戦士たちは皆、笑ったものだ。

 いざと言う時、のんびりと正しい構えなど取れるモノか、と。戦神イラバにかけて、重要なのは即座の決心。次に、絶対に倒すと言う気構えであろう、云々。

 まあ、一理はあるとは思う。

 あるいは、それこそもっとも確実な手かもよ、と思わなくもない。

 ただ、完璧を把握していなければ、何がどれだけ不足しているか、従ってどんな結果になるかをまるで想像もできず、たいへんよろしくないのだよ、と思ってもいる。

 いずれにせよ、ある年齢を越えて後、負けたおぼえはアクル・トウンには無い。

 まあそれは、人並み外れた体躯のおかげと思う所もあるが。

 再び、左拳を突き出す。今度は、先程より速める。

 戻して右拳。

 次に左拳。

 少しずつ、スピードを上げていく。

 右。

 左。

 右。

 左。

 やがて、息を止め、出せる限りの速さで繰り出す。

 じわりじわりと前に出る。

 今、アクル・トウンの脳裏に浮かぶのは、拳の雨を受けながら、なお踏みとどまり、反撃の機会をうかがう敵手の姿である。

 そいつが、ついに支え切れず、仰向けに倒れた。

 右足で飛び、追いかけ、左足で倒れた敵手を踏みつける。

「ぶはああああああ」

 アクル・トウンは、大きく息をした。

の館が揺れましたよ。魔法抜きの、単なる身体能力での踏み込みで。いやはや、とんでもないですね」

 驚きと呆れが混ざった声がした。

 エルク・バウト。

 膝下まである貫頭衣を着て、背中まである銀髪を首の後ろで束ねた、ダエワの賢者が来て見ていた。なお、賢者身分の象徴とも言うべきフード付きのローブは、今は着ていない。

 すでに空には星が散らばっている。夕餉も既に終えている。

 彼も、公的な時間は終わった、と言う事なのかもしれない。片手に素焼きの酒瓶と、逆の手に銀製と思しき杯を二つ持っていた。

「なるほど。つまりだよ、魔法を使えば、これしきは出来る輩が、ダエワの都には居ると言う事かよ」

 その言に、賢者は苦笑した。

「そう言う風にとられても困るのですけどね」

「別に卑下しているわけではないのだよ」

 アクル・トウンも苦笑を返す。

「よろこばしいことなのだよ。十分に強いはずのおれが、さらに強くなる事に、まだまだ意味があると、そう言う事なのだから」

 自身が最強である事を、発見でもしたらつまらない。この先は、なにを楽しみで生きれば良いのか。

「ほほう。そう言うモノですか」

 一瞬、エルク・バウトは真顔になった。

 しかし、次には笑みを浮かべなおす。

「さて、その鍛錬ですが、まだ続けられます? それともと一杯やります? 続けるなら続けるで、それを肴に一杯やるつもりですけど」

「ご相伴にあずかるのだよ」

 アクル・トウンもすなおな笑みを浮かべた。

 賢者が持ってきたのは、麦酒ヒムルムだった。大麦を発酵させた酒で、果実によって香りが付けてある。

 彼の召使いたちが、テーブルと椅子。そして、銀皿に入ったピスタチオを用意していた。ついでに賢者が、この中庭に、魔法で灯りを取り付けた。

 そして乾杯し、杯を半分ばかり空けた頃である。

 不意に、エルク・バウトが口を開いた。

「さて卿は、グチの民の一つ、テペ氏族はトウン家のアクル……でしたね?」

「いかにもだよ」

 なにを今更、と言う態度でアクル・トウンは返した。

「一つ確認しておきたいんですけどね?」

「なにかよ」

「テペ氏族の首長の座……まあ正しくは、次の長の座ですが、取り返すつもりはありませんかね?」


 カツン!


 アクル・トウンは、知らず手中の銀の杯を、テーブルに強めの勢いで置いていた。

 酒が入っているから、少しばかり目が座っているかもしれない。

 ともあれ、きっぱりと断言する。

「無いのだよ」

 どうやら、目の前の賢者はご存知のようだが、テペ氏族の首長家をトウン家と言う。

 そして、アクル・トウンは、今の首長の弟だ。

「ふむ。しかしですね、グチ人の間では、家督は兄から弟に譲られると聞いています。しかるに、卿の兄上は、卿が居るにも拘らず、子に家督を譲ろうとしているとか?」

 グチ人の制度に関するエルク・バウトの理解は正しい。

 またテペ氏族に起きている事態に関する認識も正しい。

 だが、理解していない事がある。

 アクル・トウンは聞き返した。

「賢者様は、もしかしてイラバ神殿に行かれたのかよ?」

 昼間見た、斧持つ女神の姿を思い返す。

 それはグチ人の信仰する神であり、当然、そこには故郷から出てきたグチ人が居る。

「ええ。行きましたよ。裏取りに。いろいろ話を聞きました。ああ、クルガン人の皆さまにもあれこれ聞きましたのでご心配なく。卿だけを疑ったわけではない」

 賢者は手中の酒杯をひねる。

「話を戻して、イラバ神殿にテペ氏族の方がおられましてね、卿が正しい地位をとりもどすのに手を貸すと約束してくれるなら、に手を貸してくださると」

 野心の揺らめく瞳で笑う。

「正直なところ、味方は欲しい。そして、グチ人の有力氏族の長をやっている友人も欲しい。それがアクル・トウンなら幸いです」

「やめてくれるかよ」

 アクル・トウンはうなった。

「賢者様に吹き込んだ奴等は、兄貴に追放くらった奴等だよ」

「そして卿も、斧すら奪われ追放されている」

 斧は、テペ氏族をふくむグチ人の誇りの象徴だ。

おれは……アワン兄貴を尊敬しているのだよ」

 溜息をつくアクル・トウン。

「アワンの兄貴は、グチ人を……せめてテペ氏族だけでも、ダエワのように栄えさせたいと願っている。そのために、あれこれしているのだよ」

「ははあ」

 ふたたび苦笑するダエワの賢者。

 ダエワのように栄える? できるわけがないでしょう、と思っているらしい。まあ、その認識に間違いはない。

 見果てぬ夢だ。どれだけ楽観的に考えても、アクル・トウンの兄……アワン・トウンの一代では無理だ。

 ただし、無理と諦め、なにもしないよりはマシなはずだ。

 現首長アワン・トウンは、ダエワの衣服。ダエワの建築を導入した。

 それから、ダエワの制度もだ。

「トウンの家に仕える郎党を増やして、ダエワの賢者様たちのような、官吏の仕事の真似事もさせている。さあ、そうなるとだ、今まで長老たちが持ってた権利は取り上げなのだよ」

 当然、不満が出る。

 さてどうするか? 彼らの立場で考えてみよう。バカやらかした首長さまを、なにがしかの手段で引退させ、後継ぎに巻きかえしてもらえれば良い。

 して後継ぎとは?

 もしかして、アクル・トウンとか言う奴ではなかろうか?

 ある意味で不幸な事に、そのアクル・トウンとか言う奴は、首長を継いでも誰も文句は言わないほどに、豪勇の戦士と知られていた。

「だがおれは、アワン兄貴を尊敬している。おれは、おれが、この世で一番の力持ちになりたいとか言う夢しかないがよ、兄貴の野望は、かなえば氏族すべてがも潤うだろうよ。なんで長老たちと組んで邪魔などしたいものかよ」

 もし仮に、彼がトウンの家の生まれでは無ければ、単に忠実に過ごせば良かった。豪勇無双の戦士として、長を守れば済んだのだ。

 遺憾ながら、現実は違った。

 尊敬し、忠実であっても、それだけではすまない。周囲が放置しておかない。

 そして、アクル・トウンには、是が非でもテペ氏族の中に居なければならない理由が無かった。

 ほまれの斧を返上し、テペの里を出奔したのだ。

 まあ公的には追放だが。

「なるほど」

 エルク・バウトは銀杯をあおった。

「正直、さっぱり理解できません」

 野心に燃えるこの賢者の本音だろう。

「ですけれどまあ、世の中にはそう言う人も居るし、そこでごり押ししても良い事は無い、と言う事は分かります。テペ氏族不満組の皆さんを、手勢に計算できないのは残念ですが、はい。あきらめましょう」

「いや、すまんよ」

 アクル・トウンは真顔で言った。

「だが案ずる必要はないのだよ。おれが、百人力で働いて見せる」

「本当に出来そうだから、期待しています」

 賢者は、彼の勇壮な体躯を見ながら真顔でかえした。

「では一つ、腕力以外の仕事をしてみせようかよ」

 アクル・トウンは姿勢をなおした。

「ふむ?」

「マルファの姐さんの事だがよ」

 脳裏に浮かぶのは、泥まみれのクルガン人の事だ。

 いやまあ、風呂に入ったら一変したが。

 クルガン人らしい白い肌に、肩口までの金髪は麗しく、長くて広い袖の上着に、白いひだの多い膝程までのスカートと、革製の編み上げサンダルといういでたちは、艶やかと言えなくもない。

 ただ、美しいと言い切るには、その青の瞳が剣呑すぎる。

 刃物のような、と言うのがぴったりだ。

 ――あれはよほどの難物よ。

 そんな風に考えている。

「姐さんは何か隠し事をしているのだよ」

「でしょうね」

 賢者は肯定した。

「あの方の事も確認してきました。黒森チョールヌィリェスのマルファと名乗っておられましたが、少なくとも、ダエワに居る方に聞く限り、黒森チョールヌィリェスのクルガン人が、フラース・マッジャール様に恩を感じている様子はなかったですね」

 と言う事は、彼女の恩返しに来た、と言う話は嘘と言う事になる。

「まあ確かに、十四年前のカルカ事変の際、寛大な処置をしたと言う事実はあるのですが、昔過ぎます」

「と言うかだよ、あの目で分からんかよ」

 怒りか、怨みか、そう言った何かがあるとしかアクル・トウンには思えない。

「賢者として、思い込みに振り回されてはいけませんので」

 気取った様子で言うエルク・バウト。

 グチの戦士は、踏み込んだ。

「なんならおれが、穏便に姐さんにお引き取りを願おうかよ」

 かくも彼が気にするのは、マルファ自身の事もさりながら、エルク・バウトとの相性がある。

 マルファの目が刃物のように鋭いと言うなら、エルク・バウトの目はなにもかもを飲み込む大穴だ。

 ヤバさで言えば、今のところ甲乙つけがたい。

 一緒にしておくのは不味いのではないか?

 手を打つつべきではないか?

 まず両者を離しておいて、その上で、事と次第で両者に助力しても良い。

 大柄な体躯に似合わないことはなはだしいが、アクル・トウンは避けれるゴタゴタは避けておく主義である。

 でなければ、故郷を捨てたりはしなかっただろう。

「無用です」

 しかし、自信満々たるダエワの賢者は首を振った。

「あの方の敵意が、フラース・マッジャール様に向かわれているのか、それともダエワの国内派へか、はたまたダエワの都そのものへかは分かりませんが、その敵意は使い道があるかもしれないので」

「火遊びは避けた方が無難だがよ」

「はっはっは」

 エルク・バウトは思わず、と言う感じで笑った。

の立場で、危険を避けていては何も得れず、守れずですよ」

「危険を冒さねばならんからこそ、余分の危険は避けておくべき、と言う考え方もあるけどよ」

「ご忠告痛み入ります」

 一転し、賢者は神妙に一礼。

「しかしね、あの方の敵意は存外すぐに使うかもしれません。なにしろは、すぐにも国内派を離脱するかもしれませんから」

 真顔で見通しを語る。

「明日、黄金フラース宮で宴があります、お二人にも護衛として来ていただくつもりですが、そうすれば、その辺りの事情もお分かりいただけるでしょう」

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