第2話 犬の警官 バット・メーカー

 ネオ・トーキョーはすり鉢状のクレーター跡に出来た街で、深く抉られたそのクレーターには何階層ものフロアがあり、住人はあちこちの階層に散らばっていた。


 クレーターにはレッド・コミューンの空間強襲揚陸艦が縦に突き刺さり、ネオ・トーキョーの新しいシンボルになりつつ有った。街の人々はそのシンボルを《ハードシップ・タワー》と呼んでいた。


 元は美しく今よりも健全で、生活を楽しむ人々が住む街だったようだが、今は治安の緩さに託けて如何わしい商売や不徳な商売をするものの街になっている。


 ケイスがパトロールしているのはネオ・トーキョーの街でも最下層に出来た歓楽街で、ニューオークボと言った。


 そこにいるのは明日食うものにも困るようなクズのような住人と、そのお零れに与ろうする痩せ犬のような漂泊者ばかりだった。


 ここに日が射すことは滅多に無い。深すぎるし、空にかかる雲は常に厚いからだ。


 しかし、ケイスはそんな場所で夕暮れの燭光を見た。


 それは奇跡のようなタイミングで、夜の闇のなかで隠されていた路地の汚辱を、ビルの壁面に現れたシミを、通りを歩く人々の暗く淀んだ瞳を、オレンジ色に美しく顕にしていた。ハードシップ・タワーの灰色の外壁が、その時だけは赤く染まる。


 その光の中でケイスは先ほどの娼婦の目を思い出す。


 その目はケイスの記憶にあった。あの目付き。眼の色。思い出すまいとしても脳裏にその時の光景が思い浮かぶ。


 その女は雑貨店で商品を万引きした女だった。女の顔はもう忘れた。その女と出食わした時、ケイスもケイスの仲間達も煩わしい厄介ごとに出会ったと思った。


 それで、厄介な手間を省くため、その女に盗品を全部渡せば見逃してやる、と言った。盗品はケイス達の物になるし、女もお目溢しをもらえてどちらも丸くおさまるはずだった。


 女は無言でケイスを睨みつけていた。盗品を差し出す素振りもなかった。その女の態度が気に食わなかったケイスの上官が「やれ」と一言言った。それで、ケイスは女を動けなくなるまで殴った。


 ケイスは、女がなぜ自分だけを睨みつけてきたのか、と時々思う。女の目が忘れられなかった。


 あの時俺ではなく、他の誰かに目を向けていてくれればあるいは、とも思うがそれ以上は考える事をやめた。今更後悔しても仕方のないことだった。


 それから、ケイスのパトロール分隊における役割は大体決まった。女を傷めつけなければならない場面では、ケイスがそれをやった。


 誰かがやらなくてはならないことだったし、躊躇う素振りは市民には絶対に見せてはならなかった。


 侮られれば、それは警官と一般市民との間にある緊張関係が緩み、ケイス達警官に危害が及ぶリスクが上がることを意味していた。  


 少なくともケイス自身はそう信じ、その通りに実行した。


 ケイスの評判は街では最低まで落ちたが、それはケイスが選択したことであり、ケイスにもケイスの仲間たちにもどうすることも出来なかった。


 ネオ・トーキョーの街全体が闇に包まれ、反対に歓楽街の明かりが灯り、それにつれて如何わしい連中を見かけるようになると「そろそろ署に戻ろう」とゲイブマンが言った。


 ケイスは短く答え、それに同意した。ケイスもゲイブマンも二人一組での夜のパトロールは危険だと判断した。街中で隠れた敵意を感じる。機動警察の誇る武装も少人数で行動していては心もとない。


「収穫は無かったな」ケイスが言う。


「まぁそう言うなよ。小金は手に入ったことだしな」


「また署長にどやされるな」



「新しい署長は頭が固くて好きになれんよ」


 ゲイブマンは新任のキシダ署長をそうくさした。ケイスは、まあな、と曖昧な言葉で同意した。


「署に戻ったらどうする」とゲイブマン。


「4時間の待機勤務だ」


「よし、俺も同じだ。待機が終わったら街に出るとしようや」


 ケイスは断ろうとしたが、娼婦から巻き上げた金のことを思い出し、思い直した。


「いいだろう」


 娼婦から巻き上げた金など酒で使いきってしまうに限る。


 それで、二人は歩みを速めたりも緩めたりもせず、神経を緊張させて戻る道筋を辿った。


 署に戻って二人の上官にパトロール報告すると、珍しく辛辣な嫌味を言われることもなく解放された。

 

 ケイスはヘルメットを小脇に抱え、事務室のコーヒーサーバーに向かった。コックを捻ってコーヒーをカップにそそぐ。


 安いだけが取り柄の不味い代用コーヒーだが、今は温かい飲み物が有難かった。

席に戻ると、報告書を作成し始めた。煩雑なこの業務を嫌がるものは多かったがケイスは嫌いではなかった。


 文字で空白を埋めていく間、自分の感情を脇において行動その物を客観視出来るからだ。


 報告書を二部作成し、一部を上司に提出し一部をファイルの中に収めると、もう一杯コーヒーをカップに注いだ。


 勤務から開放されるまであと二時間近くある。


 署の入口の方から怒声が聞こえる。職員の声ではないようだった。


 ケイスは事務室から出、入口の方を見た。男が一人、二人の警官に小脇に抱えられながら連行されていた。その男が大声で警官に向かって悪態をついていたのだった。


「どうした?」


「カツラギだよ、例の」


「ああ」


 ケイスはカツラギと呼ばれた男の事を思い出した。


 カツラギはスタジアムで営業している小物のブックメイカーの一人で――ブックメイカーはマッチメイクされたファイト・マッチの掛率を出し客に配当を行う――その野心とは裏腹に才覚の方は今ひとつの男だった。


 そのカツラギの名前はケイスも知っていた。


「奴さんどうしたんだ?」


「破産して掛け金の払い戻しが出来なくなったらしい。客から恨みを買っちまってそれでこっちに保護を求めてきたんだと。だいぶ危ない目に合ったらしいぜ?」」


「へえ。しかしよく独房に空きがあったもんだな」


 これは軽い当てこすりの響きを含んでいた。いつもなら機動警察が一市民を保護することはまず無い。


 その響きを感じ取ったのか


「独房なら空いているさ。長居をする囚人なんかいないからな。それに署長が奴の為には便宜を計れとお達しだ」


「前の、だろう?今の署長はどうかな」


「さあな。方針が違うっていうなら街に放り出すだけさ」


 カツラギの声が遠くなり、全く聞こえなくなるとケイスは事務室に戻って椅子の上で二時間腕を組んでいようと心に決めた。

 待機勤務はトイレのほかは事務室から離れてはいけない規則で、勿論居眠りなど論外だった。

 しかし殺風景な事務室の中には気を紛らわせるものは無く、私物の持ち込みも出来ず(署内で私物の盗難事故が発生している)、従って待機勤務の間はケイスのように腕を組み椅子に座っているしか無いのだった。


 カツラギか。何故あいつの待遇は別なんだ?前の署長の弱みでも握っていたか。

 

それとも署長の身内だったか。


 そういえばあの署長は軍出身ではないという噂があったな。それで侮る奴はいなかったが。


 今の署長に比べれば気前のいい男だった。


 ケイスが腕を組みぼんやりと考えごとをしているとサイレンがなった。


 出動の合図だった。ケイスの脳から脊椎にかけて電流のような緊張が走った。二時間で終わるということは無いだろうな、酒が思い浮かび、ゲイブマンをちらりと見、それから急いでヘルメットをかぶった。


 ケイスが署に戻ったのは緊急出動から六時間後だった。


 街で大暴れしていたカントウ軍の手下どもを追いかけ回し、連中が作った死体を片付け、その間に街の住人から人夫を集めて瓦礫やスクラップの撤去作業にあたった。


 流石に体が疲労していたが、心の疲労はアルコールを欲していた。飲まなければ緊張は解れないと思われた。


 それで、ケイスとゲイブマンは連れ立って街に繰り出した。高級な店に入る余裕はないが、あまり安い店も避けたい。


 安い店はトラブルに巻き込まれる可能性が高いからだ。


 結局繁華街の一角で通りに面したビルの中で営業している店に入った。


 入り口にはドアがなく、軍用テントで覆われているだけだが、ちゃんとした屋根が


ある。屋根があるのは立派な店の証拠だった。


 店の親父に金貨を一枚放る。液体の入ったボトルを一瓶、グラスを二つ持ってきた。それらを持つとテーブルを一卓占領し、席に座る。


 純粋なアルコールキンミヤを水で希釈し、フレーバーボトルから数滴垂らして合成ウィスキーを作る。


 アルコールが胃に落ちると、人心地ついた。心だけでなく体も緊張していたらしかった。


「悪くない店だろう?」


「そうだな。屋根がある」


本当のところを言えば特別いい店だとも思えなかったが、それはゲイブマンには言わないでおいた。


「女がいないけどな」


「飲んでいる時は女など要らんよ」


「酔って女が欲しくならんのか?」


ケイスはそれには答えない。


ゲイブマンが真面目な顔をしてケイスに問う。


「お前、ゲイだっていう噂があるが本当か?」


影でそんな噂があることは知っていた。


「ゲイだったら良かったんだがな」


そう言って息を吐き出した。


「俺の相手をする商売女がいると思うか?」


「馴染みの女でもいないのか?」


「俺は殴るからな。寄り付く女なんかいやしない」


「そうか」


ゲイブマンはケイスの役割に思い至ったようだった。少し気まずそうな顔をする。


「さっきカツラギが保護を求めてきたようだが、ありゃなんだ?」


ケイスが話題を変える。


「ああ」


「詳しくは知らんが奴はバイヤーまがいのこともしていたらしい。

 前の署長のコネを使って押収品の横流しをしていたようだ。

 それ以外にも時々無くなる備品があるだろ?あれも売っぱらってたって噂だ」


 それについてはケイスも思い当たる節があった。機動警察の署長と言えど、羽振りがよ過ぎると思っていた。


「ふうん。まだコネがあるとでも思ったか。おめでたい野郎だ」


「案外弱みを握っていると思っているかも知れんぞ」


「同じことだよ。頭の弱い男だ」


「まあな。俺ならニューオークボから離れる」


「それじゃサンヤに行くしかないな」


それでカツラギの話は切り上げられた。


仕事の愚痴、上手く立ち回った同僚へのやっかみ、勤務中に出会った間抜けの愉快な話。女の話は慎重に避けられた。


ボトルを三本空け、いささか呂律が回らなくなってきた頃、いい気分のうちに店を出た。これ以上飲めば酒でひどい目に合うだろう。


 ケイスとゲイブマンは連れ立って夫々の家に向かう。

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