第3幕 ノイジー

*子供たち

@目撃Ⅰ

 第二子が生まれてから一年が過ぎた頃、以外にも第三子を身ごもっていた。

もう妊娠五か月であった。ただでさえお腹の出ている私の体形は見る見るうちに妊婦らしくなっていった。

こんな身体でも、次々と産まれてくる家事、育児をこなしていかなければならない。

毎朝、息子を幼稚園バスに乗せるために、近くのタバコ屋の前まで連れていくのだが、この日はうっかり遅れてしまい、バスに乗り遅れてしまった。

「ごめんね、拓くん。幼稚園バス行ちゃったみたい。幼稚園までママとかおちゃんと一緒に行こうね」

「うん!いいよ。朝からお散歩だね」

息子は物分りが良く、滅多に駄々を捏ねなかった。乳母車を押し、息子と手を繋ぎ、徒歩二十分は掛かる幼稚園まで公園の道を通り抜けて、楽しい話しを探しながら、三人の時間が流れていた。

 もう直ぐ幼稚園に着くという頃、道路の反対側の車線に見かけた車が止まっていた。

そのフロントガラスの奥には、なんと、とっくに出勤したはずの夫、大門真一が座っていたのだ。車の中で新聞を広げ、ゆったりとした時を楽しんでいるようだった!

この光景を見た瞬間に、私の心は震えた。

夫がここで〈毎日何をしているのか〉がはっきりと読み取れた。


夫と同じ職場に通っている〈桂木恵子〉と待ち合わせて、一緒に仲良く通勤をしているのだ。彼女は、この車が停車しているところから三分ほどのアパートに住んでいた。親切心で会社への通勤労力を軽減するために、車に乗せているのかもしれないが、私に内緒で待ち合わせをしていることが許せなかった。

子供のことなんか、眼中にないのだろう。まるでカッコウのように、子育てを人任せにして、自由気ままに空を飛んでいる不届きな鳥のようだ。

道を隔て、同じ時間に、同じ場所にいながら、私達と夫は別世界にいる事を実感した。車の中で新聞を読んでいた夫も、私達の存在に気が付いたが、私は子供の手をしっかり握り、

(あなたなんか、親でも夫でもない!)と、

心の中で叫びながら、知らん顔をして夫の車の前を通り過ぎた。

悔しさと悲しさで暫し無言となった。

「ねえママ、そうでしょ!」

娘が一生懸命に私に話しかけた。子供達が話す言葉も耳に入らなかった。

「ごめん、何が?」

 子供たちの声が私を現実に引き戻してくれた。



@引き金 

 食事の仕度をしていた日曜日の夕方、子供の声で電話があった。

「もしもし、大門さんですか?」

 可愛らしい女の子の声だった。

「はい、大門です。どなたですか?」

「カツラギ アイコです・・・・・・・・・・」

 聞き覚えの有る名前である。

「お母さんが帰って来ないんですけど・・・・・・・・」

 小さな声で遠慮気味に言った。

 きっと我が家へ電話することを躊躇っての事なのだろう。

「桂木さん?うちの会社で働いている桂木さんの愛子ちゃん?」

 あの桂木恵子の子供からの電話だった。子供とも以前、私の母の友人宅で会ったことがある。母親に似ていて、とても可愛い子供だった。突然の電話に驚くと共に、元気の無いその声に胸騒ぎがした。

「どうしたの、何かあったの?」

「お母さんがまだ帰って来ないんです。お腹が痛くて……」

 腹痛で困っていることよりも、彼女の寂しさのようなものが伝わって来た。ともかく容体を聞いてみることにした。

「とっても痛いの?吐き気はするの?何か昼間、変なものを食べなかった?」

色々な事が絡み合いどうするべきか悩んだ。母親の留守中に、まして浮気相手であろう家に行くことなど出来なかった。

盲腸を心配しながらも、

「凄く痛いのかな・・・? おばちゃん、行った方がいいのかな?」

と、そのつもりもなく聞いてみるとと、

「うん、来て欲しいんだけど」

と、以外な即答を受けた。様子を聞いて電話を切るつもりでいたが、この即答に気が変わった。

「じゃ、急いで今行くからね!」

母性とも言うべきものが、私をじっとさせて置かなかった。

私はふたりの子供を義母に預け、ヘルメットを被るとバイクに乗り彼女の家に走った。妊娠五か月といえどもお腹の出っ張りは八か月並で、誰がみてもバイクに乗る無謀な妊婦の行動に見えたと思う。

 桂木親子は、我が家より十分程のところに住んでいた為、バイクだと五分程で到着した。暗いアパートの階段を上り、桂木恵子の部屋のドアを叩いた。

「おばさんだけど、愛ちゃんいる!」

 ドアの奥から「ハイ」と声が聞こえた。

私は躊躇うことなくドアを開くと部屋の中へ入った。

愛ちゃんはしゃがみ込んで座っていたが、苦しそうには見えなかった。部屋に上がり込み、愛ちゃんの額に手を充てても熱はなく、痛みもさほど酷い様子ではなかった。ひとりで居る不安から一時的にお腹が痛くなったようだ。

何度も会った訳でもない私に電話を掛けて来たこの子に、愛しさと刹那さを感じた。

ほっとして、部屋の中を見渡すとタンスの引出しが開けたままになって下着が飛び出したり、流しの下のドアが開きっぱなしになって鍋や調味料が散乱していた。

(毎日、忙しくて大変なんだな)と、ただそう思った。

タンスの上には、見たこともない変わった新興宗教の本尊なども祭ってあった。

(離婚をし、親子二人で生きて行くことは、想像を絶する苦労と不安があるのだろうな)と、私はこれ以上の何も考えはしなかったのだが・・・。


「何かあったら直ぐに電話をしてね!」

 帰るに忍びなかったが、愛ちゃんに、そう言い残して帰宅した。

私が家に戻ってからすぐに、夫が帰宅。

「ただいま!」

 私はいの一番に、今あった事を伝えた。

「桂木さんちの愛ちゃんから電話があったのよ。具合が悪いから来てって言うんで、今行って来たところなの!」

 夫は驚きはしたものの、ニヤニヤしていた。

「具合はどうだった?」

「お腹が痛いって言っていたんだけど、大した事はなかったみたい」

「部屋は綺麗だったか?」

 と、夫は思いがけない質問をしてきた。

「きれいだったとは言えないかな・・・」

とだけ私は答えた。箪笥の引き出しが開いて、下着が飛び出したりしていることを同じ子育て中の女として伝えたくなかった。


 夫は、彼女の家に直ぐに電話をした。

「女房が行ったらしいけど、子供大丈夫なの?・・・・・・・・・」

 しばらく彼女と電話でやり取りをしている夫の姿に、ふたりの付き合いが長い事を感じた。従業員と社長。私よりも長い間一緒にいるのだから、親しくなるのは当然。だが、今迄一緒にいたであろう事が直ぐに理解できた。

今日は、日曜日。父親が家にいてくれたらどんなに助かるだろうか。仕事だと思えばこそ頑張れるのに、そんな私を尻目に、夫は日曜という一日を謳歌し彼女と遊んでいたのだ。

こそこそとしたやり取りが終わると、最後に

「部屋は綺麗にしておけよ!」

と、夫はまたも突飛な事を彼女に言い放った。 

まるで私が「彼女の家が汚かった!」とでも告げ口したようではないか。

彼女には、(裕福に暮らしている奥さんが、母子家庭の荒れた家の中を見て笑っている)とでも思ったのだろうか。

 この誤解が引き金となり、彼女からの露骨な挑戦が始まった。



*挑戦                                                     


@告白

 ある日、二度目の電話が入った。

「もしもし、奥さんですか?」

「はい大門の家内です」

 電話の声は以前と同じだった。

「ご主人と別れてくれませんか!」

「何言ってんの! あなたどなたですか?」

 私の中では、浮気相手は〈桂木恵子だ〉と決めていたが、主人に一度病院の玄関で鎌をかけただけで、この事は未だ暗黙の領域だった。

「あなた、桂木さんでしょ!」

 私の挑戦が始まった。

「違います。とにかく、ご主人と別れて欲しいんですけど………」

「そんな事できないわ。なんで別れなければ成らないの? こんな電話を掛けて来てどうするつもりなの!」

「奥さんより、私と居る時の方が、気が休まると言ってますよ」

「当たり前でしょ! 子供がいたら休まる暇なんてないわよ」 

(家庭には、子供の泣き声や、臭い生ゴミや、汚れた洗濯物が散乱するのだ。気など休む暇も無く毎日の戦いがあるのに、呑気な事を言うな)と思った。

「あなたは、主人が好きなの?愛してるの?」

「そんなことわかりません」

「分かりませんって、どうゆうこと。自分のしていることが分かってんの!」

 その後もしばらくの間、抜け殻のような会話は続いた。


 夫が帰宅すると、今日の出来事と共に、私の中にあった想いをぶつけた。

 ダイニングテーブルに座る夫の真向かいに腰を下ろし、私は静かに話を切りだし出した。

「今日、桂木さんから電話があったわ。彼女と浮気しているのは解かっているわ。私と別れてくれって言ってましたよ」

 そう詰め寄る私への弁解は何もなく、黙り込んだままだった。

「お願いだから彼女と別れて下さい!」

 私は、ダイニングテーブルに額が付きそうになるくらい頭を下げ懇願した。それでも夫は黙っていた。やっと口を開いたと思ったら、

「できない!」

と、伏目がちに一言、言った。私はもう一度、

「桂木さんと別れて下さい!お願いします!」

と、押し殺すような声で言った。

 その時、夫の口から出た言葉は想像もしていない一言だった。

「浮気じゃないんだ! 本気なんだ!」

何という言葉だろう。「本気」この一言でこれからの人生、そして全てが不安になった。自分に正直な人であったが、身重の妻に伝えるべき言葉ではないはずだ。そして、さらに身勝手なことを言った。

「おまえも一生懸命愛したらいいじゃないか!」

 夫の事をもっと愛せと言うのである。桂木恵子以上に愛せというのか!まっぴらごめんだ!確かに私は、夫を愛していなかった。

あの好きだった幻に終わった男性、「桜井」を、なんと二年間も、一日も欠かすことなく夢に見ていたのだから。

夢の中では、ただ淡々と会話したり、買い物をしたり、旅行に行ったり、ありとあらゆる夢の内容だった。夢に見ていることを不自然だとも思わず過ごしていたが、大変異常であることが、夫の言った言葉で気付かされた。

夫の心の中に、私の深く愛せない魂の冷ややかさが伝わっていたのかもしれない。夫もどこかで、他の人に心があることを分かっていたのかもしれない。

でも、この人に尽くそうと思って結婚したことに嘘はなかった。

 私は、ただ泣くしかなかった。

自分に正直な人だが、身重の妻に伝えるべき言葉ではないはずだ。

そしてもう一人私と同じく泣いている人がいた。親友、花田美咲だった。彼女が我が家にやってきて驚くことを告白した。

「めぐちゃん、家の主人浮気しているのよ。仙台によく出張に行って女と会っていたの」

「えー花田さんのご主人が!子供たちはどうするの?」

「私と結婚する前からの付き合ってたみたい。この前、主人の素行調査を探偵所に依頼したの。電話に盗聴器を仕掛けたんだけど、聞くに堪えない内容だった。子供もどうやらできているらしいし、毎回いやらしい会話をしてたわ。家も建ててあげてるみたい。離婚することにして、明日あの家を出るから!」

(やっぱり、やる事がはっきりしているというか、私みたいに愚図愚図していないな)と思った。

美咲は数日後、実家へ帰ると言って家を出た。

(常識から外れた自己中男がどこにもいるものだ)と思ったが、まさか親友の美咲の家にもいたとは驚きだった。妻の存在を何だと思っているのだろうか。自分のこと以上に腹が立ってきた。渦中にいると麻痺してしまうことが、他人の出来事を通して改めて口惜しさが増してきた。私の場合はどうすればいいのだろう。

別れる勇気もない。夫はそれを見透かしているのだろうか。穿った目ですべてを観察していた。



@存在の意味

 誰かが、「人の不幸は蜜の味」といったが、他人事なら、面白おかしく茶の間のおかずになったりもするが、自分の身に降りかかることは、地獄の苦しみとなる。

我が家にもその続きがあった。

あれからも何度となく、桂木恵子からの電話があった。

「もしもし、奥さんですか」

「はい。あなた桂木さんですよね! 主人から聞きましたよ。毎日のように会社の帰りに会っているんですってね」

「ええ、私から誘った訳ではありません」

 初めて桂木恵子として話しをした。

「どっちが誘ったのかそんな事知らないけど、ちょっと酷いんじゃない」

「ご主人は、子供を産んでもいいと言ってますよ。奥さん、ご主人と別れていただけませんか!」

と、彼女に再び言われた。

「本当に私と別れたら、あなた主人と結婚してくれる!一緒になってくれるの?」

私は本当に二人が愛し合っているのなら、それも仕方ないと思い始めた。

〈私という存在〉が人の幸せを遮っているなら、そんな〈存在〉でありたくないと本当にそう思った。

 しかし彼女は、

「そんなこと分かりません!」と答えた。

 確かに先のことなど解からないかもしれないが、人の家庭に入り込んでそんな返答は不誠実である。

彼女の話しを聞いていくと純愛から少しづつ、ずれているようにも思えた。

(一生を共にしたい)と思うなら迷わず「YES」と言うはずである。

「それじゃ困るわ!離婚しても意味ないでしょ!」

「奥さん、そんな事言ったって別れる気ないんでしょ!」

 私の本当の気持ちを彼女に問われているような気がした。

「別れるとか、別れないとか、あなたに言われる筋合いじゃないわ」

(彼女の愛が私の愛より上まっているなら、私は引き下がる)そんな程度の愛であるのだろうか?受話器を持ちながらも、自分の深層心理を探って宙にいた。 

ただ、子供のことだけ。ただ、お金のことだけ。夫は愛していない、ただの手段なのかもしれない。


そして、今夜も桂木恵子から携帯に電話が入った。 

今、彼女と別れて帰宅したばかりであろう夫に、桂木恵子から電話が入った。

「もしもし・・・・・・・・・うん分かった」と言うと、夫は携帯電話を切った。

「彼女が来て欲しいって言ってるんだ!」と、

(迷子の子犬を救いに行く)とでも言うように、私に電話の内容を伝えた。

「何であなたが行かなきゃならないのよ!」

「だって、彼女が『来て』って言ってるんだよ!」

妻を前に置いて、まったく理不尽な言葉であった。

(夜中に夫を呼出し、その呼出された内容を夫が妻に告げる)なんと私を無視した行動だろうか。私は、

「行かないで!」と叫んだ。

 それでも夫が、

「行って来る!」と言った瞬間、私は思いっきり夫の顔に平手打ちをしていた。

この時、自由にならない人の心にものすごく苛立ち、義憤を込めて夫を叩いた。

それでも夫は私の静止を振り切り、玄関から彼女のもとへと向かっていった。

 

私は、子供を叱る時以外、初めて人を殴った。女性には暴力行為がDNAの中から消されているのかと思うほど滅多に手をあげたりしないが、止めることの出来ない何かが、私を反射的に動かした。一時間もすると

「今日は帰らないから」と、夫から毒々しい声で電話が入った。

沢山の家族がこの家の中に居るのに、真っ暗な部屋の中に一人ぼっちで立っているように感じた。自分の存在を無視される事の悲しさは、とてつもなく深い悲しみだった。

(私っていったい何なんだろうか?一生懸命、良い妻になろうとしているのに、良い人間であろうと努力しているのに。夫からも愛されず、家族の面倒を見ながら家政婦さんのように生きているだけ。こんなことをする為だけに生まれて来たのだろか?)

ふと、「如蓮華在水」という一説が思い浮かんだ。

泥沼が深ければ深いほど美しい花が咲くと云う。

(私の前世での結果を受けて、今、この夫と夫婦でいるのかもしれない。お金があるのに、家があるのに、子供もいるのに、なんでこんな苦しみの中にいるのだろう。辛い今日も明日には過ぎ去った日となる。今を一生懸命生きてゆけば必ず道が開けてゆくはず。嘆いてばかりいても苦しみは増すばかり。この苦しみから逃げ出さず戦おう。最後は絶対に幸せになってやる!)

私は、イメージトレーニングのように、自分の存在を無視された苦しみから逃れるためこんな思考を巡らして、この泥沼から這い上がろうとしていた。


@キスマーク

 それでも、次から次へと桂木恵子の挑戦は続いた。

他人に聞かせると驚かれるが、長い間の習慣で私は夫の頭を毎日洗髪していた。〈グルーミングのつもりなのだろう〉と仕方なく続けていたが、ある夜も夫の頭を洗う為にお風呂場へ入ると、ハットするものが目に飛び込んできた。

夫の肩先にキスマークがあったのだ。明らかにそれと分かるほどの深紅の痣だった。

初めて見せつけられる夫と彼女との交わりに、嫉妬心が体中を熱くした。

心臓もドキドキと音を立てているようだった。

「キスマークじゃない!ふざけないでよ!人を馬鹿にするのも大概にして!」

普通の主婦ならかなりの確率で夫を問い詰め罵倒するはず。

なのに私は、心の中でそう叫び、タオルを放り投げ、黙って風呂場を出ていった。

 そのキスマークの挑戦は一度だけではなく、その後も何回となく続いた。

 一度に四つも五つも付けてくる事があった。

 首筋、肩、胸。主人の身体に痣のように点々と付くキスマークは、まるで伝染病の斑点のようにも見えた。

「いいかげんにしてよね!何なの、そのキスマーク!」

怒鳴る私に、主人は焦るでもなく、自慢下に愛された事への喜びに薄笑いを浮かべて、湯船に浸かっているだけだった。

このキスマークが、桂木恵子の「私への挑戦状」なのか、それとも夫を困らせようとする嫌がらせなのか分からないが、愛情の深さよりその気の強さを感じさせるものだった。

夫が私に「伝染病のようなキスマーク」を隠そうともせず見せびらかす姿は、まるでコントのようにも思え笑えもした。

この詳細を家庭裁判所に申し出れば「妻」の存在は勝利し慰謝料を請求できる話なのに、渦中の私にはそんなことを考える余裕さえなかった。



*悲劇

@ロミオとジュリエット

冬が始まった寒い夜、夫が真夜中に帰宅をし、自分の車の中に桂木恵子がいることを知らせた。

「今、車の中に桂木さんがいるんだ」

 今更、何を言われても、されても驚かなかった。

「家に入ってもらったら」

と私は彼女を家の中に入れるように言った。しばらくすると、夫が彼女を連れて裏庭から入ってきた。私は、玄関から入ってくるものと思っていたので、物凄く驚いた。まるで幽霊がはいってくるように二人が、裏庭の引き戸を開けて入って来た。

裏庭から入って来ること自体この騒動のすべてを現しているように思えたし、この時も心の中で「クスッ」と笑っていた。正面の玄関から入れる立場ではないが、何だか不自然で滑稽だった。

 

真っ暗な部屋の中に、私たちの人生に大きな石を投げつけた、その人が立っていた。

遭難から救援されたように、夫に肩を抱きかかえられながら灯りの付いていない奥の部屋に上がって来たのだが、誰も電気を付けようとはしなかった。

二人はそのままコタツの中へ傾れ込んだ。きっと、今まで別れ話しをしていて、決着が着かずここに来たのだろう。私は何も声をかけなかった。

 三人の間には何の話し合いがあるでもなく、暗く重い空気が漂っているだけだった。

 私は二人の傍から離れ、隣りの明るい部屋で襖越しに二人を眺めていた。

名門モンタギュー家の息子ロミオと、宿敵キャピュレット家の娘ジュリエットとの悲恋を描いた運命悲劇のように。

「どうしたらいいの。私たちがこんなに愛し合っているのに!どうして一緒にしてくれないの!」と言わんばかりに、二人の影はずっと寄り添っていた。

ふたりは抱き合いながら、私の目の前でいつの間にか眠ってしまったのだ。

この二人の姿を見ながら、私は自問自答した。

(いったいこの出来事は、私に何を言おうとしているのだろうか。皆苦しんでいる。私も苦しい。何でこうなるんだろう?皆が幸せに成れる道はないのだろうか。

苦労や悩みなどない、私が主役の人生を送りたい。でも何も起こらない人生など有り得ないし、それではつまらない。自然界でも、冬があればこそ、春の暖かさや、花の美しさがより一層引き立ち、野球においても、抜きつ抜かれつの激戦の末、九回裏の逆転ホームランで勝利する。こんな手に汗握るゲーム展開が面白い。わざわざ険しい山に挑戦する山登りも、自然と自身の限界に勝ち、登頂に立つ満足感を得る為に、そこへ向かわせる。すべて、難関も苦悩も乗り越えてこそ人生の醍醐味があるのだから)

地獄を見ているというよりも、達観にも似た心境だった。

私は、冷静に寒そうに寄り添う二人に毛布を掛ける余裕もあった。



@子犬

 こんな騒動の最中、我が家へ二匹の子犬が預けられた。主人の取引先の社長から、「飼い主が見つかるまで」と言う約束で頼まれたのだ。茶色の柴犬に似た雑種だった。

 子供達は大喜びで、子犬に頬刷りをし満面の笑みを湛えていた。

(このまま飼ってあげたい)と言う気持ちで一杯だったが、義母や義父、それに子供たちの面倒で手一杯だった。

「このわんちゃんは預かるだけなのよ。しばらくの間だけ、可愛いがってあげようね!」

と、息子と娘に前もって言い聞かせた。子供にとってみれば、まったく残酷なことである。情が移った頃返さなければならないのだから。引き取り人も決まらないまま一週間が過ぎたある日、夫の兄が倒れ入院をしたという知らせが入った。

 もちろん、お見舞いに駈け付けるところだが、私は連日の浮気騒動ですんなり行く気になれず抗った。

「私は行かないわ!」

「何言ってんだ!早く支度しろ!」

 と、夫は私の抵抗を察し怒鳴った。義母と義父も玄関で待っていた。

「行かない!」

 ささやかな私の抵抗であったが、なすが儘にならない私に怒り、夫は私の足を蹴ってきた。痛さより、悔しさでいっぱいだった。それでも、義父や息子が、

「めぐみ、どしたんだ! 早く来いや!」

「ママ、早く来て!」の声に促され、夫への服従ではなく病院へ向う事となった。

 男は、自分への従順がなされない時、暴力にでたりするが、何故悔しくても腹が立っても言葉だけで済まないのだろうか。この男に憎しみを感じた。


 自宅の玄関に、二匹の子犬を留守番役に置いて、半日の間、家を空けた。義兄のお見舞いを終え皆で帰宅したのは、午後七時を廻っていた。

カギを開け、家の中に入ると部屋の中がとんでもない事になっていた。

まるで空き巣にでも入られたように、部屋中に切り裂かれた洋服や、花瓶に有った花が散乱していた。子犬たちの犯行である事は一目瞭然だった。いつもキレイに部屋を片付けていた私は、この状況を見て、気の狂ったように泣き叫んだ。まるで悲劇の主人公のように。

「家が目茶目茶になっちゃった! 家が目茶目茶になっちゃった!」

夫は、何で私がこんなに泣き叫んでいるのかを理解していたと思う。ただ、犬の仕業だけで泣き叫んでいるのではない。破壊へ向かっている家を憂いて泣いていることを。

夫もさすがに私を哀れに思ったのだろうか、部屋の中に上がり込んでいた子犬を玄関に放り投げた。

「ドスン、キャンキャン」という音と共に、子犬は玄関のドアに体当たりをして失神をしてしまったのだ。息子は動かない子犬を抱きかかえ、死んでしまったのかと思い、彼もまた泣き叫んだ。心も部屋もめちゃめちゃになってしまった惨憺たる思いが鳴き声となって響いた。愛するものが消える事への悲しみが、家の中に散乱した。


@摩擦

 それでも夫の行動を静観するしかない私だったが、事態は刻々と変わっていった。

 愛し合う二人の間に明らかに亀裂が生じ始めたのだ。

 ある日、夫が夜遅くに帰宅すると、

「大変なことをしちゃったよ! お母さんどうしよう!」

 と顔面蒼白で私に言うのだった。

 もしかしたら(車で人でも撥ねて来たのだろうか)と思いドキッとした。

(いったいこの男は何をしてきたと言うのだろうか?)

 まるで時限爆弾のように、いつ破裂するか分からない恐さのある男だ。

「どうしたの?何があったの?」

と恐々と尋ねてみた。

「彼女を殴って怪我をさせてしまったんだ!」と夫は小さな声で言った。

(なあんだ!よかった)と正直思った。

「顔を殴ってしまって口の中を切っちゃたんだ。四針も縫ってしまって。お医者に『女性を殴るものではありませんよ』って怒られちゃったよ!」

 私を母親とでも思っているのだろうか、甘えて話しているように聞こえた。

 そのうえ、

「車の中汚れているから掃除してくれる!」

と、言うのである。

何事かと思いながら車のドアを開けると、助手席のシートが血でよごれていた。彼女の頬にパンチが当たり口の内側を切った時、飛び散ったのだった。

家族と天秤に掛けても愛する人だった彼女が、心変わりをしてきたことへの苛立ちから言い争いをしたようだった。

汚れた車内の血をティッシュと雑巾で拭き取りながら

「何でこんな事、私がしなければならないのよ!」と呟いた。

いつも物分りの良い妻として、黙って対処する自分自身の弱さが情けなくもあった。

 しかし、(心の中には〈強い自分〉が居て、それが表面に登場しないだけなのだ)と自分を慰めていた。ただおとなしく時を過ごしている私ではない。

男女の愛は、いつまでも同じテンションで続くことはありえない。

可愛くて素敵で、死ぬほど好きだと思っても、一緒に生活をしているうちに、オナラをしたり、イビキを掻いたり、寝起きの素顔を見ているうちに、いつの日かその思いは薄れる。人間としてどれほど完成しているか、成長させようと真摯でいるかが、愛すべき対象となっていくのだ。

 ふたりの間にもお互いの欠点が目に付き、摩擦が生じ始めてきたのだった。

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