2


 その夜、私は沼田と飲みに出た。居酒屋で軽い夕食をとった後、二人の行きつけのバーへと流れ込む。


 薄暗い店内のカウンターに座り、バックバーを眺めながらサイドカーを傾ける。暖色の照明の下に、彫りの深い沼田の顔はよく映えた。


 私とこの男の関係は複雑なようでシンプルだ。入社したては教育係の五歳年上の先輩。その一年後に恋人になり、三年後に別れ、彼が美人で頭の悪い奥さんをもらってからは、浮気相手をやっている。といっても枕を交わす事は半年に一度程しかない。どちらかが極端に酔っ払った日を除けば、飲み仲間と呼んでも仔細ない間柄だ。


「それにしても、お前も可愛いところあるよなぁ」


「は? なにが?」


「俺と飲む口実を作るために、わざわざあんな画像まで用意して。いじらしいじゃないか」


「馬鹿じゃないの。そんな事するわけないでしょ」


 この男の取り柄なんて、仕事と顔だけだ。欲望に忠実で、男として程度の低いこんな奴に、そこまでする価値はない。


「じゃあなんなんだよ、あの写真?」


「知らないわよ。私はアンタの仕業だと思っていたんだから」


「だから俺じゃねぇからな。さっき送信履歴もみせてやったろ?」


「ええ。奥さん以外の女の人の名前が並んでいるのを確りとね」


 沼田は「ははは」と乾いた笑いを漏らす。本当にどうしようもない男だ。


「しかしそう考えると不気味だな。昨日の夜も同じ事あったんだろ?」


「仕事から家に帰る途中でね」


「まさかストーカーか? なにもこんな気の強い女を狙わなくてもいいのに」


 腰に回ってきた腕を、ピシャリと叩く。


「ストーカーが会社にまで入り込んでくる? それに会社で撮られた時、後ろにはアンタしかいなかったのよ」


「でも俺じゃねぇからな」


 このままでは堂々巡りだ。


 しかし沼田が嘘をついているようにも思えなかった。少し問い詰められれば、自分が二股をしている事すら簡単に認めてしまうような男だ。


 考えても分からない事は考えても仕方がない。自分に言い聞かせるが、沼田の下らない話を聞いている最中にも頭の片隅に、不完全な恐怖は纏わり続けた。


 グラスが一杯、二杯と空になり、体が熱を帯びてくる。意識に少しずつ靄がかかり始め、それが漸くその恐怖までもを包み込もうという時だ。


 カシャッ。


 背後でまた、シャッター音が鳴った。


 私は直ぐ様、振り返る。


 そこにはシックな黒色の壁が立っているだけ。


「ねぇ。今の音……」


 隣でウィスキーを飲んでいる沼田へ問い掛ける。


「はぁ? 音?」


 あれだけハッキリと鳴ったシャッター音が、沼田には聞こえていなかった。


 バッグの中で、スマホが震える。


 送り主が空欄になっている受信メールを開き、表示さた写真を目にした途端、全身の血が引いていった。


 私を背中から撮した写真だ。左には軽薄な中年男の後ろ姿。その背中に見切れた形で、カウンターを挟んだ向こうのグラスを拭くバーテンが写っている。


 私の視線は、その写真の左隅から動かせなくなっていた。沼田の左、誰も座っていないはずのカウンター。その内側から、テーブルの上に覆い被さるようにしている、人間の女性らしきものから。


 これは、なんだ。


 半透明の体。こちら側へ垂らされた長い髪。その両脇に投げ出された蒼白い腕は冷たくも生々しい。


 現実味のない異質な存在感に、体は恐怖を訴えかけてくる。存在していないはずの存在に、頭が異常を知らせている。


 スマホから目を反らし、沼田の体越しにその場所へ目をやる。だけど、そこに女の姿はない。


 私の異変に気が付いたのだろう。沼田が私の手元を覗き込んだ。


「おいおい。なんだよ、こりゃあ」


 沼田は自分の左を確認し、背後の壁を確認し、眉をひそめる。


「お前、これ。マジでちょっとヤバいんじゃないか?」


 写真について、心当たりがないわけではなかった。


 写真が送られてくるようになったの一昨日の晩から。つまり、あの事故の様子を私が撮影した日からだ。


 死傷した運転手は女性。髪の長さは、今しがた届いた写真に写る女と合致している。


 これまでの人生、オカルトといった類いのものを鼻で笑って通り過ぎてきた私であったが、ここまで状況が揃ってしまえば、最早気付かぬふりなどしてはいられなかった。


 それを沼田へ語ると、沼田は珍しく真剣な顔になって言った。


「理沙。今回の仕事は諦めろ」


 こんな時だけ、この男は私を下の名前で呼ぶ。


「は? そんな事出来るわけないでしょ」


 折角巡ってきたチャンスなのだ。


「長年この業界にいるとな、時々こういう話にぶつかる事がある。その中で、お前のように仕事を優先させた奴が良い結末を向かえたという話は、一度も聞いた事がないよ」


「それはそうよ。ハッピーエンドじゃ、人に話す価値がある内容ではないもの。私はやめないわよ。実害が出ているわけでもないんだし。それにもし本当にこの写真を送ってきているのが事故にあった女性だとするのなら、その無念を伝える事こそ私達に与えられた使命だとは思わない?」


 沼田は言い淀み、私の顔を見つめてから、大きなため息を一つ。


「ったく。新人の頃の素直さはどこにいったのかねぇ」


「何年も前の話を、何年間し続けるつもりよ。アンタは」


 店を出た後、頼みもしていないのに沼田は家にまで着いてきた。強いてそれを拒もうとしなかったのは、こんな男でもいないよりはマシと思える程に、私が動揺していたという事だろう。弱味に漬け込まれたようで癪である。


 形ばかりにシャワーを浴びた後、ソファーに座り、普段は見ないバラエティー番組を見る。気の迷いで買って家に置いたままにしてあった男物のスウェットに着替えた沼田は、隣に座り、途中のコンビニで買ってきた缶チューハイを飲んでいる。


 テレビで上がる笑い声と連動するように、沼田も声をだして笑う。馬鹿にするような笑い方。くしゃっとなる目元。懐かしく思ってしまったのは、ここがホテルや居酒屋じゃないから。


 女の家に入り込んだ事が余程嬉しいのか、奇妙に思える程に溌剌としている。矢継ぎ早に私へ冗談なんかを言ってきて、テレビで芸人がする一発ギャグを真似てみせたりもした。


 お前はそんなキャラじゃないだろう。口にしなかったのは、私なりの気遣いだ。フェミニストなところは、昔から変わっていない。


 日付が変わる頃になると、互いに騒ぎ疲れ、口数も少なくなっていった。ポツポツと会話を交わしていると、急な静寂がやってきて、私はそれを狙っていたかのように口を開いた。


「そろそろ。帰った方がいいんじゃない?」


 沼田は意外そうな顔で、こちらをみる。


「あれ? 泊めてくれるんじゃないの?」


「会社の上司との飲み会で朝帰りなんて、違和感しかないでしょ。明日も普通に仕事があるというのに」


 私がシャワーを浴びている間、この男がだれかと電話をしていた事には気付いていた。「上司との飲み会で遅くなるから先に寝てていいよ」なんて言う相手は、一人しかいない。


「でもお前、大丈夫なのか?」


「何が?」


「何がって、そりゃあ……」


 沼田は言い淀む。さっきまでのふざけた振る舞いは、私にあの写真の事を忘れさせるため。しかし自分からそれを聞いてしまっては意味がない。相変わらず詰めが甘い男だ、と思うと、何故だかそれを微笑ましく感じた。


 奴は少しだけ考える素振りをみせた後、諦めたように息を吐く。


「じゃあ水だけもらえるか? 少しは酔いを覚まさないと」


「分かった」


 私はキッチンへ向かい、シンク横の棚に納められていたグラスを手に取った。物の少ない部屋だが、ミネラルウォーターくらいは常備している。そのまま背後の冷蔵庫へ向かおうとする。


 が、突然腕が動かなくなった。


「え?」


 グラスを持つ右腕が、その場に固定されてしまったかのように動かない。腕には誰かに掴まれているかのような感触がある。そこを覆う服の袖が、不自然な皺を作っている。


 カシャッ。


 背後で鳴った音に、全身が、みるみると粟立っていく。


「な、何よ。これ」


 足を踏ん張り、腕を体の方へ引こうとする。


 動かない。


 締め付けは徐々に強くなっていく。痛みに堪えきれず、掌からすり抜けたグラスが、床に落ちて耳障りな音を発てた。


「どうした!」


 沼田が駆けてくる。


 私は右の手首を左手で精一杯引っ張りながら、必死に訴えかけた。


「動かないのよ! 右腕が!」


 足元に散らばったガラス。ヒステリックな金切り声。状況は把握出来なくとも、異常は伝わったのだろう。


 沼田は透かさず私の元へ寄ってきて、一緒に右腕を引っ張り始める。


 痛い。


 腕が更に締め付けられ、顔が歪む。


 痛い。痛い!


 それでも私は引っ張り続けた。得体の知れない存在に触れられているという恐怖から、なんとかして逃れるために。


 すると突然、拘束が外される。力のやり場を失った私達はそのまま後ろへ倒れ込む。


 キッチンは、一瞬にして静かになった。私達はその中で、ただ黙って荒い呼吸を続ける。


 ブゥゥゥ、とスマホがリビングのテーブルの上で、音を発てた。

 

 沼田はこちらへ目をやり、私の真っ青になっているであろう顔と小刻み震える体を確認すると、ゆっくりと立ち上がって、リビングの方へ消えていく。


 腰より下に、まるで力を入れる事が出来ない。痛む右腕の袖を捲り上げると、その箇所が掌の形のように青紫に変色している。


 私のスマホを握って、沼田が戻って来た。


「理沙。流石にこれは看過できねぇよ。編集長には俺からも言ってやるから。な?」


 目の前に差し出されたスマホには、シンクの前に立つ私の後ろ姿が映し出されていた。


 その直ぐ右隣には、あの白いワンピースを着た髪の長い女性が立っている。不自然に飛び出た女性のお腹が、ぐしゃぐしゃになった青の乗用車を思い起こさせる。女性は俯いたまま、グラスを持つ私の右腕を握っている。

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