奇跡と裏切り

犬井作

本文

 羅生門の上に灯った松が、そこに捨てられた死骸を照らしていた。手足を放り出して重なっていた死骸は、うつろな目を黒洞々たる夜へと向けている。ところどころ穴の空いた板張りを、誰も揺らすものはない。しかしそこに、ぎし、と小さな軋みが鳴った。

 老婆が目を覚ましたのは、ちょうどその時である。なにか揺れる気配がして、重たくなった瞼に力を入れた。悪い夢を見ていた気がしたが、寒さと痛みと、鼻を衝く腐臭を感じたとき、夢などではなかったと老婆は気づいた。瞼を開けると、そこになにも映さないうつろな瞳があった。老婆は死骸の中で寝ていたのである。

 この老婆は、夜な夜な羅生門の死骸から髪を抜いて、鬘を作っていた者である。老婆はつい先刻、職にあぶれた若い下人と口論の末、したたかに蹴飛ばされて着物を奪られた。夜は深く、辺りは見えない。動く手立てもなければ、疲れていた。それで、死骸を寝床にしたのだった。

 死骸には柔らかいものもある。そして、熱を保ちやすい。服を着ていたものから布を頂けば、骨の固さは芯に残るが、寝床としてじゅうぶん使える。死臭など、この末法では誰も咎めない。信心深い人々は近寄ることさえしないから、誰にも邪魔されないという点でも良かった。

 そこに足音がしたのだ。ありえないはずのことだった。老婆はまたあの男が戻ってきたのかと思って、とっさに身を隠そうとした。が、すぐ、動こうとした手を掴まれた。

「もし、あなた、鬘を作るとは本当ですか?」

 可愛らしい声だった。少女のものだ。老婆はほっと息を吐きながら、顔を向けて、悲鳴を上げた。汚れた袿をまとった少女は首を傾げて、ああ、と爛れた頭を撫でた。

「わたし、禿でしょう。燃えてから生えなくなってしまったのです」

 少女の顔は、ひどい火傷に覆われていた。火傷は、頭頂部から後頭部の全体に、それから左目の目尻にかけてわずかに伸びていた。額から上は、皮が生焼けの肉のような色でいびつにひび割れたり、引きつったりしている。そのせいで、少女の目元はどこか不自然に強張って見えた。

 それでも不快を催さないのは、その顔立ちの整っているせいであろう。細長い顔に、無垢そうなくりくりした瞳があって、小さな唇がつんと突き出している。火傷の前は、たいそう可愛らしい子供だっただろう。

 老婆は答える言葉もなく、じっとその少女に向きあった。

 この時代、京では災害が立て続けに起き、病も流行り、飢饉も起きた。かつての豊かを失うと、京は死の街となった。立派な身なりをした人が物乞いをし、富民も貧者もみななにも持たず、腹を空かした。こんな子供がいてもなんらおかしいことではない。しかし老婆には、痛ましいほどの火傷をうけてもなお笑うこの少女に、どこか薄ら寒い気持ちを抱いた。

「もし。おばあさん、あなたが鬘作るって、本当?」

 少女は、老婆をくりくりとした目で見つめた。老婆は指を震わせながら、少女の手首を握る。

「それをどこで、知ったのだい」

「わたしはここで暮らしているのです。ここは暖かいし、水は溜まるし。だから、寝ていたのです。それが先刻、がたがたと音がして。そのとき聞こえてきたのです」

 老婆は少女をじっと見ていた。欺こうとしても、子供の目はすぐに本心を語る。企みごとをしているようには見えなかった。

「そうだよ。私は、鬘を作るよ」

「そうなんですね」

 少女は、嬉しそうにうなずくと、しばらく悩む素振りを見せたのち、顔を上げた。

「わたしに、鬘を作ってほしいのです」

 つっかえながら語られた少女の依頼を要約すると、つまりこういうことだった。

 少女は、数日前に起きた火災で家を失くした子供だった。そのとき、母も逃げ延びたが、不運にも物取りに遭って殺されてしまった。なんとか羅生門の上に逃げて追手を逃れた少女はしばらくそこに住んでいたが、そこで老婆が鬘を作ることのできるのを知った。母の遺体はまだ残っているはずだから、それで、自分のためのかつらを作ってもらえないか。

 老婆は、考えた。少しして、この少女に鬘を作れば、頭の火傷が隠せるだろうことに気づいた。そうすれば、この少女の顔に不愉快な点はなくなるだろうと。それで、了承することにした。

「だけどね、」了承する前に、老婆は尋ねる。「私は、売るために鬘を作っておる。おまえは、私に何を支払うのだい」

「いまは払えないけど、でも絶対に買いますから」

「それじゃあ、こうしよう。かつらを作ったら、お前は私の言うことを一つ聞く。どうだい」

 少女のたどたどしい口調に対して、老婆は安心させるように少女の腕を撫でながら提案した。

 少女は嬉しそうに頷いた。



老婆が少女とともに母親の死骸のもとへと向かったのは、翌朝のことである。日が昇り、人通りも絶えた朱雀大路をしばらく、少女の導くままに歩くと、東寺に向かう途上に焼け落ちた屋敷に行き着いた。そこはまだ、焦げた骨組みが残っており、まだ燃えて間もないことを示していた。

「お母様は、この先です」

 少女は焼け落ちた屋根から剥がれた瓦を避けながら主殿に足をかける。老婆はよろけながら、手をつくようにして登った。顔を上げると、変わらず燦々と照る太陽が老婆の目を刺した。

 少女の可笑しそうな声を聞きながら、老婆は手をひかれるままに歩く。目がくらんで、老婆は何度も顔を擦った。爪先に灰や朽木の感触がした。目を開くと、廃墟が広がっていた。

 もとは下級貴族の屋敷だったのだろう。二棟廊も東対も中門廊も無い狭い主殿は、しかし残る柱から、天井が高く、住みよい家だったと察せられる。しかしいまや、壁も崩れ落ち、かつての姿は見る影もない。

「あそこの庇の辺りで、お母様と一緒に踊りを見たんですよ。家人の方が、花の盛りに。ほら、あそこ――」

 と、少女が指差す先を見て、老婆は腰を曲げた影を見た。少し歩いて、それが松の影だと知った。庇の先には庭があり、たしかにそこで人が踊ることもできよう。が、今そこを横切るのは鼠であり、蝿であった。飛び交う蝿は黒い蚊帳となり、視界を遮っている。

「ほら、あそこに」

 少女が指差したのはその先である。老婆はここへきて、むしろ少女の手を引くように、その合間をかき分けた。羅生門の上で嗅いだ腐臭が老婆の鈍った鼻に届いた。

 死骸は、かろうじて女だとわかった。召し物が剥がされ、素っ裸にされた肌は、ところどころが黒ずんでおり、太腿の辺りには蛆が湧いている。まるで内臓が無数の虫となって湧き出しているかに見える。白日の下に晒された体は、生きた姿には程遠く、老婆は思わず目を塞ぎそうになった。

 老婆は、小心者だった。死骸なぞ、羅生門の上で、仄明かりに照らされてしか見たことがない。いままで見たのは、幸運にも、死後何日も経ったものだけだ。骨と皮だけとなった死骸は物質に過ぎず、見たところで、生前を思い出させたりはしない。だが、この死体は異なった。

 少女は老婆の袖を引くと、不安げに尋ねるのである。

「お母様の髪の毛を、鬘にできますか?」

 口にしたのは一度だが、しかし目は百の言葉より雄弁に訴えていた。

 老婆は死骸に目を戻した。確かにそこには、美しく、なお艶のある髪があった。老婆は、頷いた。そして、ひどい罪悪感を――これまで感じたことのない、過ちを犯している実感を伴って、女の髪に手をかけた。

 老婆は鬘を編んだ。少女は歌っていた。かつて聞いたという歌を。袖を体に巻き付けるように、小さく体を揺らしながら。その隣で、老婆は長い髪を互いに絡ませた。皺にまみれ、垢の溜まりほうだいになった、歪に尖った爪の先で。

 出来上がったのを見ると、少女は顔を明るくした。鬘を持ち上げると腕の中に少女は入り、目を閉じた。

 老婆はそっと腕をおろした。一歩、二歩と後じさり、小さく、呻いた。

「おお、おお……」

 次に目が開かれたとき、そこには火傷で瑕つけられる以前の、美しい少女の姿があった。まるで命を吹き込まれたように、その笑顔は瑞々しかった。



それから少しして、人通りのない朱雀大路を老婆と少女は歩いていた。またどこかで火事が起きたのだろう。西の方から昇る黒煙が青空へ伸び、辺りは薄く翳っている。そこを、手をつないで、少女は晴れやかに歩いているのだった。

「おばあさん、どうもありがとうございます。それで、わたしはどうすればいいのです」

「もうすぐ、そこまで、歩くんだよ」

 息を切らしながら、焦った様子で、老婆は歩いている。隣を歩く少女はしかしちっとも気づいた様子はない。母の髪が肌に触れるたび、嬉しそうに微笑んでいる。滑りそうなものだが、鬘はまるで始めから生えていたように、少女の頭に貼り付いていた。

「どこまでいくんですか」

 と、歌うように少女が尋ねて、

「もうすぐ、そこまで」

 と老婆が何度か繰り返した頃だった。朱雀大路から西へ、老婆と少女は近づいていた。黒い煙は先程より大きくなり、肉の焼けるような臭いと、ところどころから笑い声が聞こえ始めた。老婆は、足を止めた。それから親指と人差指で輪を作り、甲高く口笛を吹いた。

 少女は、驚いた様子で老婆を見た。

「おお、来たか来たか」

 酒に荒れた大声を上げて、黒煙の方角から男がやってきた。その後ろから、手下と思わしき郎等が続く。男は老婆のもとへとくると、勝手知ったる風に老婆の名を呼んだ。

「それで、今日は何を売ってくれる。また、鬘か」

 老婆は少女を一瞥すると、男に向けて首を振った。それからつないでいた手を前に突き出した。少女はよろけながら、男の前に躍り出た。

「これが、私があなたに売るものです」

 少女はハッと顔を上げて老婆を見た。だが口を開くより先に、男は少女の肩を掴んで引き寄せた。老婆はうつむいた。

「若いな」

「貴族の生まれにございます」

「そうか。では、このくらいが適当か」

 男は郎等に呼びかけて、老婆に食べ物や飲水、酒、それについ先程盗ったばかりの小刀を分けた。郎等は男から物も言えない様子の少女を預かり、引っ立てる。少女は呆然と、老婆を一心に見つめている。

「それでは、またあれば呼べ」

 男は踵を返して去っていく。老婆は、うつむいたまま、背中を向けた。

「裏切り者!」

 その、無垢な言葉に、老婆は顔を上げた。少女の目にこもった憎悪を、老婆は受け止めた。いつの間にか縄をかけられていた少女は、郎等に引きずられるように、連れて行かれた。

 老婆は、廃れ果てた羅生門へ向けてまた歩き始めた。重荷を背負い、身体を引きずるようにしながら。

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