第5話 敗走(後)

 化け物がしゅるると長い音を発しながら、倒れた佐成サセイへとにじり寄る。周囲の兵はもう一匹の化け物に追い回されて混乱していた。助けは期待できない。佐成サセイにはまだ武器として剣が残されていたが、この化け物相手に自分の腕で戦えるとは思えなかった。


 うまくいくかは分からないが……

  

 佐成サセイは昨日拾ったうろこを一つ取り出すと化け物の方へと投げつけた。化け物はそれに目を奪われる。


 今だ!


 脱兎のごとく逃げ出す。幸い、追って来ない。


 あんなのと戦っても無理だ。まずは蘇延ソエンに報告するしかない。佐成サセイが素早く後ろを振り返ると、化け物二体はうろこに意識がいっているようだった。他の兵士たちも化け物から距離を取ろうとしている。


「えっ!?」


 だが、本陣に行く途中で思わぬ光景に出くわした。さっき来た援軍の陣列が乱れている。よく見ると白い装束の騎兵が援軍の陣中を切り裂くように駆け抜けていた。忘れもしない阿薩あさつの騎兵だ。状況は分からないが横槍を入れられたのか。


「敵襲! 敵襲!」


 本陣周辺も混乱していた。前方から兵士が逃げてくる。督戦している上官が戦うよう怒鳴り、剣を振るっていたがまもなく、味方と敵の兵士が入り乱れて殺到してきた。どこかの陣が崩れたのだ。辺りが武器と武器とで響き合う打撃音で満ちる。


 もうここまで敵が来ているなんて! 蘇延ソエンは!?


「て、撤退だ! 逃げろ、いや、一度後方で再編成するんだ!」


 立派な鎧を身にまとった武将が馬に乗って走り去り、その部下らしき武将や兵士がそれに続いた。


「うわあああっ!」

「こっちへ来るなっ化け物ぉっ!」


 向こうではあの化け物が暴れ続けていた。


 蘇延ソエンを助けなければ!


 佐成サセイは何度もそう思った。だが、本陣に行こうにも敵味方が入り乱れてとても近寄れない。自分には一人で敵陣に切り込む武力はなく、蘇延ソエンを助けるだけの兵力もなく、捨て身で突っ込む覚悟もなかった。

 行かなければ、せめて馬に騎乗して突っ込めば本陣にたどりつく可能性もあるのではないかと思っても足がすくむ。もうここは無理だと脳内で声がするのだ。自分は救ってくれた旧友の助けにすらなれなかったと、佐成サセイの中で無力感と自己嫌悪が膨れ上がる。

 

 もう……だめなんだ……

 

それでも生きるためには逃げなければならなかった。


 こんなはずじゃなかった


 例の白い装束の敵兵がもうすぐそこまで来ていた。阿薩の言葉だろうか、独特のキツネが鳴くような鯨波が轟く。やつらが一斉に突撃して来る前触れだ。馬蹄の音が響く。敵の騎兵も近くにいるのではないか?


 こんなはずじゃなかった!


 佐成サセイは自分の馬のもとへと走った。よるべき「大樹」はまたなくなってしまった。最悪だと嘆息しようとして、ふと以前書物で読んだことを思い出す。古代のの国が攻められ、陥落間近となったとき、王は絶望する臣下に「最悪だと言っているうちには最悪ではない」と言って励ましたという。いや、これは励ましになっているのか?


 結局、蘇延ソエンの軍は崩れた。間道から来たのか、敵兵が後方にも進出しており後退した部隊は再編成どころではなく、混乱し、まもなく潰走状態に陥った。佐成サセイは潰走状態の中でせめて蘇延ソエンのもとへ合流しようと何度か高所から周囲を確認したが、その都度敵が近いことを認識させられ必死に逃げることしかできなかった。例の化け物はどうなったか分からない。だが、あの竜は我々にとって凶兆でしかなかったのだ。


 ああ、蘇延ソエン、無事でいてくれ


 俺は屑だな。何の役にも立たない。


逃げている間、ずっとこの二つの思いがぐるぐると佐成サセイの脳裏で渦を巻いていた。



   ◇



 あれからどれだけ走っただろうか。最初のうちは敵兵を警戒し、周囲の気配に中止ながら行動していたが、いつの間にか何も考えることができなくなっていた。疲れ切ってしまったのだ。乗っていた馬も疲れ、もう走ろうとせず、ふらふらと歩くのが精一杯になっていた。


「……そうだな、ずっとずっと走らせてしまったもんな」


 改めて気づき、ぼそりと独り言を言う。ここで馬を失うわけにもいかない。馬から降り、その手綱を引いて歩くことにした。


「どうどう、すまなかったな、疲れただろう」


 改めて辺りを見回す。何もない。笑ってしまいそうなくらいの大平原だ。こんなに広くて人気のない平原は初めて見たのではないだろうか。今までは無人の荒野で行動する際も味方や敵がいた。所々に乾燥地帯特有のくすんだ色の頼りない草が密生している以外は、ほとんど植物もない。北の方はるか彼方には茶色い大地、そしてそのさらに向こうに白い冠を有するとがった山並みが見えた。その上に広がる空には乾いた青が広がっている。


 隠れるところがどこにもない……


 そう思うとぶるっと震えが走る。後ろを振り返ったが、追う敵兵の姿も敗走する味方の姿も見えなかった。夜間、無我夢中で逃げているうちに街道から大きく外れてしまったのだろうか。

 馬の背に乗せた荷物をがさごそと漁る。竹の水筒に入った水、配給されたあわ二斗ほど、豆が少々といったところだ。あと、小麦粉を薄い環状にこねて乾燥させた携帯用のぴんが、紐を通して丸めてあり三日分ほどある。あとは雑多な物と、弓矢と横刀、これが持っている物の全てだった。


「……空が青いな……」


 諦めが入る。これからどうすればいいのだろう。結局、軍と離れてしまった。故郷に帰るにも道の心配、食料の心配がある。かといってぐずぐずしていれば敵兵に追いつかれ殺されてしまうかもしれない。だが、故郷に帰ったら帰ったで、逃亡兵として責任を問われるのではないだろうか。なんとか合流できる部隊を探し、必死に弁明すれば保護してもらえるのではないだろうか。いや、いっそのこと、どこかこの辺に定住して、余生を過ごすのが一番安心できるだろうか。西域の言葉はなんとか習得できそうにはなっていた。


 ぶひひーんと、突然馬がいななく。


「どうした?」


 跳ね返るように起きあがり、敵でも見つけたのかと辺りを見回すが、何もいない。ふと遠くに一筋の緑が見えた。ゆるゆるとうねりながらも、木々が生い茂っている。柳だろうか。


 そうか、川があるのか!


 馬も水が飲みたかったのか、水辺近くの柔らかい草を食みたかったのだろう。水があるのは自分にとってもありがたいことであった。早速、川へ馬を連れていってやる。木々をかき分けると確かに川が流れていた。それほど頼もしい水量ではないが、乾燥地帯の川にしてはしっかりと流れており、水色もきれいだ。馬はうれしそうにごくごくと水を飲み始めた。佐成サセイも水を一口ふくんでみたが、変な味はしない。安全そうだと確かめるとのどを潤し、ついでに水筒の中身を入れ替える。遠征地での飲料水は煮沸するのが常識だが、これだけきれいなら大丈夫ではないだろうか。


 ふと自分の身だしなみを確認してみる。自分の耳が赤黒くなっていてぎょっとしたが、良く見ると返り血のようだった。水面に写った顔、自分の顔は「その年齢にしては険があり、気難しそう」と評されてきた。その顔が今は砂埃で汚れ、さらに目尻や頬に明らかに疲労の影響が見て取れる。必死に逃げてきたせいか、服のあちこちが砂や泥で汚れていた。頭部の結った髪をほどいて洗いたいところだが、時間がかかるので、巾をつけ直すに留める。気候が乾燥しているせいか、不思議と汗で汚れた感じはない。


 考えてもしょうがないことは考えてしょうがない。せっかく生き残ったからには、生き延びるためにできることをしよう。


 不安を無理やり飲み込み、そう思い込もうとする。馬を川辺近くの木につなぎ、しばらく自由に草を食ませた。その近くに座り込み食事を取ることにする。火を焚いて敵に見つかるわけにはいかないので、携帯食の餅を一つ紐からむしり取り、口の中でゆっくりとふやかして食べた。それにしても疲れた……さっきまで動いていた脚が、座りこんだ途端、大地に吸着してしまったかのように動かせない。

 懐に手を入れる。そこには、亡き父親からもらった護符が入っている。なんでも祖父が東方の異国の出身で、その時から受け継がれているものらしい。触るといつも不思議としっとりとしており、なおかつひんやりとした感触がある。


 ご先祖様、どうぞお守りください。無事に故郷に帰れるその日まで。


 気が付くと佐成サセイはそのまま眠ってしまっていた。

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