愚痴からサモエド

笹ノ間 まくら

第1話 おひとりさま、陽キャのサモエドと出会う

 恋人を作ったことのない私はきっと、この先も一人で生きていくと思っていた。

 “一人でも生きていける”

 それは時代が進んで考え方がアップデートされてきた現代では、強がりでもなんでもない。ただの事実そのもの。

 私自身もそんな「おひとりさま」であることに特に違和感もなく日々を過ごしてきた。

 私の性格的に友人を作るのが得意ではなく、単独行動に慣れていた。私にとって、スケジュール合わせて誰かと何かをするというのは物凄いエネルギーを使うのだ。

 仕事のオフの日に職場の誰かと遊びに行った帰りは、一人で行動するよりもどっと疲れてしまう。帰宅したらそのままベッドに倒れ込む。なんてよくある事だ。

 そんな一人に慣れすぎた私だったのに、職場の同期の結婚ラッシュや「彼氏と同棲始めたの!」という話を聞いて今までロクな恋愛関係を築いたことがないなと、唐突に今までの生き方を思い返してしまい、少し寂しくなってしまった。

 一人が平気だった分、他者と密な関係を作り上げる前に自分から音を上げて去ってしまった事は少なくない。

 だが、何か自分から動こうとするとなると一気に気持ちが疲れてしまう。

 寂しいけど誰かと新しい関係を築くため一歩を踏み出すのは今さら面倒くさい。

 そんな矛盾した頭をクリアにするため、唯一とも言える友人の経営するダイニングバーで、話を聞いてもらう事にした。



 人生はきっと見えないだけでゲームのような選択肢がいくつもあり、一つの道を選ぶと、その先の未来が決まってしまうんだろう。

 私はその日の奇跡のような偶然を振り返るたびにそう思ってしまう。






 「はい、追加のカプレーゼお待たせ。しかし珍しいねぇ。いつもは一人で旅行とか行っても平気な子なのに。寂しいだなんてどうしたの?」

 ダイニングバー「エマノン」のオーナー兼シェフの彩ちゃんがカウンターから身を乗り出した。

 彩ちゃんは私の学生時代から唯一交流が続いている友人だ。高校の入学式で席が近くなった事をきっかけに仲良くなった。

 彼女は相手の意見を尊重するけど自分の意見もハッキリ言ってくれる。だからお互い無言の時間があっても一緒に居るだけで安心する。その関係が心地良くて気付けば 卒業してからも時々電話をしたり、彼女と彼女の夫が経営する店に行って食事をしたりしている。

 エマノンは食材にこだわって有機野菜や国産牛の料理を多く出す店だ。

 彩ちゃんは調理をメインに、がっしりとした体格の彼女の夫は食材の仕入れや細かい経理など裏方全般を主に担当して店を経営している。

 食事も美味しくてリーズナブルな価格なだけでなく、私の職場と自宅の中間地点にある大きな街の一角に店を構えているので通いやすくてありがたい。

 彩ちゃんは、私の気持ちの変わりように興味深そうにしてこちらを見ていた。

 いくら学生時代からの友達とは言え、こんな風に表に出すことがなかった自分のマイナスな側面を吐き出すのは初めてだった。なんだか恥ずかしくなってしまい、彩ちゃんの笑顔からカウンターに置かれたカプレーゼに目を逸らした。

 だが、逃げた先の皿の上でもトマトの赤とモッツァレラチーズの白のコントラストが眩しく、たった今私が吐き出した胸中と比較されているようで少しだけ居心地が悪かった。

 黙っているともっと気まずい思いをしそうな気がしたので、少しずつ、自分の気持ちを彩ちゃんに投げかけた。

 「最近職場の同僚の恋愛話を結構な量で浴び続けてたらなんだか急に一人でいるのが寂しくなったんだよ。今までの自分を振り返ってみると、映画も旅行も一人で行くのは苦ではなかったし、むしろ気を遣わないで済むから平気だったんだけど……。身近な人と思い出を共有出来るのも悪くないんだろうな。って話を聞いていた時にそう思うようになったんだ」

 私が吐き出す言葉を彩ちゃんは遮らず、うんうんと頷きながら訊いてくれる。

 聞き上手かつ料理上手な彼女にとってはダイニングバーの経営はきっと天職なのだろう。

 大学生の頃、彩ちゃんの家に泊まってレポートを書いていた時、夕飯にオムライスや鶏の甘酢あえを手際よく作ってくれた事をふっと思い出していた。大学を出てもう何年も経ったが、彼女の料理技術は停滞することなく店を構えるまで進化を遂げた。

 迷走している私から見れば自分の良い所を活かして稼げるのは大変羨ましく見えてしまう。

 「職場恋愛って世の中には結構あるんだろうけど、私の職場がコールセンターなのもあって女性比率が圧倒的に多いんだよね。数少ない男の人も既婚者ばっかりだから転職でもしない限り職場での出会いは望み薄かな」

 美味しいカプレーゼをつまみながらお酒を飲んでいるせいだろうか。

 瞬間的に思ったことが、降り出した雨のように口からどんどんこぼれ落ちていく。

 幸い、今の時間帯は店内には常連客である私の他は数える程度の人数しかいないので、他人の耳に入っても酔っぱらいのたわごとで聞き流してくれるだろう。

 「通勤してる時に電車の中でマッチングアプリの広告が出てたしやってみようかなって考えてみたけど、今まで一人で平気だった人間には小まめに連絡を取り合うのはハードルが高すぎるよ……。それに最近は仕事が忙しすぎて休みの日はパジャマのまま家で映画観てるから、外に出会いを求めに出掛けるエネルギーすら残ってなさそう。きっと恋愛に使うエネルギーを別の事に使い過ぎて、色んな事がおろそかになった結果がこれなんだと思う」

 思い返せば、私は自分のもやもやした気持ちを聞いて欲しかっただけで、本気で彼氏が欲しいという訳ではなかった。

 だから出会いのきっかけがありそうな事に対して消極的だったのだろう。

 「たくさん悩むと良いよ。悩んだ分、吹っ切れたり良い案が見付かったりすると思うから。こうやって話してるうちに気持ちも整理出来るだろうし」と彩ちゃんが笑って言ってくれたのが救いだった。

 結婚しても彩ちゃんはどこも変わらず彩ちゃんのままだった。学生時代からの優しさはそのまま今の彩ちゃんにもある。

 彩ちゃんの夫である彼も話には加わりこそしなかったが、遠くの方でグラスを磨きながら心配そうにこちらを見ていたので、私は笑って軽く手を振った。

 彼も優しくて良い人だ。他人である私から見ても、彩ちゃんとの関係性は良好だと思えた。

 ライフスタイルが変化したからといって、人間の行動や性格がガラッと書き換えられてしまう訳ではないのは根底では理解している。だが、仕事や恋愛、それから結婚というものと一緒にみんな遠くに行ってしまったみたいで寂しさを感じてしまう。

 例えるなら、私を含めた何人もの女の人が川原で立っていた所にボートがやってきて、みんな思い思いの場所に向かって漕ぎ出していく。なのに私だけ乗るべきボートが見付からずにどうしたら良いのか思いつかないで、遠くに行ってしまう彼女たちを見つめて川岸でぼんやりしている気持ちになるようだった。

 そんな悲しい想像をしてしまい余計に落ち込んでカウンターに突っ伏していた私の耳に聞き慣れない声が降ってきたのは、その時だった。


 「おねーさん、僕で良ければお試しで付き合ってみるのはどう?」


 どういう事だ? と思い声の方に顔を向けると、カウンターの二つ隣の席に座っていた私より年下に見える青年がこちらを見ていた。

 黒い髪をふわふわとカールさせ、ぱっちりとした二重の彼は、綺麗というよりどこか可愛らしい印象があった。体型に合った服を着て人懐こそうな笑顔を見せる彼には言葉の裏はなさそうに思える。

 ただ、こういう酒の席で声を掛けられる経験がなかったので戸惑って何も言えずにいた。

 これがもしオンエア中のラジオ番組だったら放送事故として扱われたであろう沈黙が流れたあと、彩ちゃんがすかさず助け舟を出してくれた。さすがだと思う。

 「お試しってことは、君とこの子がデートでもしてアリかナシか決めるの?

 彩ちゃんの質問に対して彼はこう答えた。

 「そうそう。でもお互いを知るって面も考えると、短期間だと良い所も悪い所も分からないと思うんだよね。だから一年間、長い目で見ていくのはどうかな」

 確かに一年間という期間であれば良し悪しどちらも見極められそうだ。

 彼の言っている事は悪くないように思える。

 私が彼に話を詳しく聞こうとする前に、もう一度彩ちゃんが彼に声を掛けた。

 「一応私の経営している店でナンパしてきたから口を挟むけど、君がどういう人かが分からないと少し心配かな。この子は私の昔からの友達でもあるから余計に」

 彩ちゃんの一言で彼が申し訳なさそうにはにかんだ。

 「そういえば、まだ自己紹介もしてなかったよね。ほら、これ学生証。つい最近まで一応大学生してました。今度学生証は大学に返却しなきゃいけないんだけど、僕はこういうものです」

 財布から取り出した学生証を彩ちゃんに手渡した後、彼は私にひらひらと手を振った。

 彩ちゃんは学生証を私に見せつつ

 「ここの大学、かなりレベル高い所だよ。わざわざナンパするために学生証偽装して持ち歩くのは面倒だろうし、この学生証本物だと思うよ。ほら」

 私にも見せてくれた学生証には「四ツ谷(よつや) 鴇(とき)」という彼の名前と顔写真がしっかりと記載されていた。

 私はまた彩ちゃんを経由して学生証を彼に返してもらった。

 「四ツ谷くん、あなたの素性は分かったけど具体的にはお試しって何をすれば良いの?」

 「じゃあ、まずは僕が住む家を一緒に探してくれる?」

 家? いきなり何を言い出すのか。意図を掴み切れずに思わず怪訝な顔した私に対して彼はこう続けた。

 「今住んでるアパートが学生用のアパートなんだけどね、卒業するから退去しないといけないんだよ。だけど就活が上手くいかなかったからしばらくフリーターだし、家を新しく借りるには大学卒業をしたての僕ではどうしても信用やお金が足りないんだよね」

 「実家には頼れないの?」

 私が聞くと、彼は少し決まりの悪そうな顔をした。

 「実家に報告したら、大学を出たら社会人なんだから自活しなさいって言われてるから何かしてもらうのは難しいんだ……。だから、まずはおねーさんと一緒に物件探しから始めようかなって」

 それなら家を探すというのも納得だ。だが、お試しで付き合う割には随分とまどろっこしくないだろうか。

 「どうせ家を探すんだったら一緒に住む家を探す方が早いんじゃないかな」

 と、思わず口を衝いて出た。彼は戸惑いが隠せない様子だった。

 「良いの? でも会ったばっかりの僕と住むって大変じゃない?」

 「うん、だから住むって言ってもルームシェアとかシェアハウスみたいな感覚で家を借りる。って言うのはどうかな。私の住んでる所もそろそろ契約更新だったから丁度良いかなって思って。あとは、わざわざ学生証まで見せてくれたのもあるからね」

 私がそう言うと、彼はほっと息をついて笑った。

 「良かった。じゃあ決まりだね。今度おねーさんの休みの日に家を見に行こうよ。そうだ連絡取りやすいようにLINE交換しておこうか。あと、お試しとは言え付き合うんだし僕のことは鴇で良いよ。」

 そう言って彼は立ち上がった。その瞬間、思っていた以上に彼の背が高い事に気付き、私は目を丸くした。

 座っていたから気付かなかったが、恐らく一八〇センチは超えている。手足も長くすらりとしていて、今時の若い子らしい体つきだと思った。

 ふわふわと笑う彼を見ていると、大きい事もあり、なんだか大型犬のサモエドに見えてきた。

 突然我が家に帰ってきたら家族が連れてきた大型犬が家にいて「今日からこの子も家族よ」と家族に言われるまま大型犬を迎える人もこんな気持ちになるのだろうか。

 大型犬をいきなり目の前に連れてこられたような気持ちで、私は会ったばかりの彼と家探しの日程決めと連絡先の交換を済ませた。





 鴇くんとは午前中から待ち合わせをして物件を探すことにした。

 三月だというのに真冬並みに冷え込んだので、私はマフラーをクローゼットから引っ張り出してつける事にした。

 外に出ると寒い上に、どんよりとしたグレーの雲が空を覆っていた。

 まるで、今まで全然知らなかった相手とこれから暮らす家を探すことを考えて消極的になっていた私の気持ちそのものみたいだ。しばらく暗い気持ちで歩いていたが、待ち合わせ場所に着く頃には雲の切れ間から日差しが差し込んできたので、なんとなく背中を押されたような気がした。

 鴇くんはベージュのチェスターコートに白のセーターとジーンズを合わせて着てきた。

 私を見て早歩きで嬉しそうに向かってくる姿を見ると、セーターの色も相まってますますサモエドに見えて思わず笑ってしまった。

 「似てるね」つい声を掛けてしまった私に対し、彼は首を傾げた。

 「似てるって誰に?」

 「サモエドって犬。大型犬でいつも笑ってるみたいな顔してるんだよ。

 君みたいにね。それこそ口には出さなかったが、初めて会った時からよく笑っていたのでずっとサモエドみたいだなと思っていた。

 サモエドに似ていると言われた鴇くんはきょとんとしていた。

 「あっ、悪気があって言ったわけじゃないよ。嫌な気分にさせたならごめんね」

 慌てて私が取り繕うと、彼はクスクスと笑って

 「じゃあおねーさんは特別に僕のことサモちゃんって呼んでも良いよ」と言った。

 「サモちゃん」

 彼の名前自体、鳥の名前ではあるが今度は犬になってしまった。

 唐突にあだ名を提案されたから、今度は私の方がきょとんとした顔をしていたと思う。

 「そう、サモちゃん。名前で呼んでもらうのも良いけど、愛称の方がなんだか親しみやすくなるかなって」

 その後、彼は不動産会社向かう道中で何度か私を呼び止めては「サモちゃん」と呼ばせる練習をさせた。

 おかげで目的地に到着する頃には、すっかりサモちゃん呼びが定着してしまった。


 それからというもの、私は鴇くんのことを本名ではなくサモちゃんと呼ぶことに慣れてしまった。そのせいで真面目な話をする時なんかに本名で彼の事を呼ぼうとすると照れくさくなってしまうのはもう少し先の事だったりする。


 最初に相談に行った不動産会社では、サモちゃんよりも少し背の低いフレンドリーな男性社員に対応してもらった。

 はきはきとした喋り方で、初めは感じよく思えたが話の合間合間から「何としてでも契約させよう」という勢いを感じてしまい、私もサモちゃんも気圧されてしまった。

 それに私達が話している間に割って入って

 「なるほどですね。ではお話を聞いている感じだと駅から近くて築年数も浅い物件が良いと思うんですが仮にこんな物件はどうですか?」

 と強引に話を進めようとするのもモヤモヤしていた。

 三軒目のアパートを内覧したあとで、私とサモちゃんがどうしようか話している途中でも

 「なるほどですね。他にも家賃面でお得な物件やペット可な物件もありますよ。なにか気になるポイントはありますか?」

 とお面をはりつけたような笑顔で言われてしまったので、咄嗟に私が

 「二人でゆっくり考えてみます」

 と言い、サモちゃんを連れて逃げるように不動産会社をあとにした。

 私達を担当してくれたあの男性社員と相性が悪かったうえに、お互いにしっくりくる物件が見付からなかったこともあって、時間だけが無駄に過ぎていった気がした。

 寒い中それぞれ遠い場所にあるアパートを見るためにあちこち動き回った事も加わって、なんだか一気に疲れてしまった気がする。

 気持ちを切り替えるためにもお昼ご飯を食べる事にした。

 体が冷えた事もあってうどん屋を選んだが、暖房の効いた店内に入った瞬間に私もサモちゃんも一気にほっと出来たので、このうどん屋を選んで良かったと思う。

 私は玉子とじうどん、サモちゃんは餡かけうどんを食べる頃には二人で顔を見合わせて溜め息をついてしまった。

 「引っ越しって難しいね」

 湯呑みに入ったほうじ茶を飲みながらサモちゃんが困り顔で言った。

 「僕が今住んでるアパートは親と一緒に見て決めたんだけど、住んでるうちに色々気になる所が出てきたんだよね。でも仕送りもしてもらって住んでたっていうのもあるから引っ越したいとか文句は言えなかったけど。今度は自分の理想の家を決める所から始めないといけないからエネルギーがないと疲れるね」

 「分かるよ、それ。住んでみないとマイナス面って分かんないよね。でも、さっきの不動産会社の人、強烈だったなあ……」

 温かいうどんを食べているうちに、私達は体の芯から満たされていた。やっぱり、冷えと空腹の際は何かを決めるのは良くない。

 「あれだと、どんなに良い部屋を見せてもらっても印象に残るのはあの人だけだよね」

 サモちゃんは餡かけうどんを少し食べた後苦笑いをした。

 「きっとノルマがあっても悟られないように売り込むのが仕事のできる人なんだろうけど。あの人は真逆だったね」

 私がそう言うと、サモちゃんは「なるほどですね」と不動産会社の社員の真似をしたので思わずうどんを噴き出してしまうところだった。

 きっと私一人で物件を探しに行ってさっきの彼に対応されていたらモヤモヤを抱え込んで後で怒ったりもしたかもしれない。

 だけど、こうしてサモちゃんと話しているだけでも気持ちがリセット出来て落ち着けたのでありがたいと思った。

 私より先にうどんを完食していたサモちゃんが

 「今度は違う会社に相談しに行こうよ」と提案したので、私は全面的に賛成した。

 うどん屋から出る前に二人で最寄りの不動産会社を探してみたら、歩いて十分もかからない場所にさっきの会社と比べて規模は小さいようだが不動産会社があったのでそこに足を運んでみることにした。

 私は、一人では行き慣れない場所に行く時には必ずと言って良いほど道を間違えるのだが、今日はサモちゃんが一緒にいるから迷うことなくすんなりと二軒目の不動産会社に辿り着く事が出来た。

 そこは個人経営のようで店構えは古かったが、なんだかどこかで見たような懐かしさを感じて親しみが持てた。

 引き戸を開けて店内を見渡すと、誰もいない。

 どうしたんだろうと思い、店内を見渡す。

 すると、ストーブの前に陣取って暖を取っている白地に茶色のブチ模様のネコのまるまるとしたお腹を撫でながら

 「チャコちゃーん、ストーブはあったかいかにゃあ? 今日はお店に誰も来ないからお店はおしまいにしてパパと一緒に遊びましょうかにゃあ?」

 とニコニコしている小柄でふっくらとした男性が目に入った。

 男性は私達が呆然としながら見ていた事に気付くとハッと立ち上がり

 「大変失礼いたしました。今日はあまりにも寒くてお客様も朝からいらっしゃらなかったので……つい」

 と顔を真っ赤にして恥ずかしそうに頬をかいた。

 名刺を受け取るとその男性が店長であることが分かった。

 猫は店長のペットでチャコちゃんと言うそうだ。

 店長の自宅から毎日一緒に出勤してきて、この店の看板ネコになっていると教えてもらった。

 「それで、今日はどうされましたか?」

 しっかりとした造りの革製ソファーに座るよう促しながら店長が聞いた。

 柔らかくて質の良いソファーに腰を下ろし、私が口を開く前にサモちゃんがこう言った。

 「僕たち結婚を前提に付き合っているんですが、結婚前に同棲してみてお互いの役割分担とかを一緒に考えてみようと思ってるんです。そのための物件を探したいんですが、何か良いところはありますか?」

 私が驚いてサモちゃんを見たが、サモちゃんは何事もなかったかのようにケロッとしている。

 店長はサモちゃんの話を聞いて、まるで自分の家族に起きた出来事のように顔をほころばせた。

 「それはおめでとうございます! それでしたらご結婚されてからも暮らせる家が良いですね。少し奥で調べてきますので、良かったらうちのチャコちゃんと遊んでもらいつつお待ちいただけますか。あ、先にお茶を淹れてきますね。いやぁ結婚とは本当におめでたい。折角なので、少し良い茶葉でお茶をご用意しますね」

 店長は私が「お構いなく」と言う間も与えずに、いそいそとドアを開けて店の奥に引っ込んでしまった。

 今はこの場には私とサモちゃん、それからストーブの前からサモちゃんの膝の上にどしどしと移動してきたチャコちゃんだけが取り残された。

 「ちょっとサモちゃん、結婚ってどういう状況のウソついたか分かってる?」

 私が小声で問いただすと

 「本当の事を言って変に詮索されるよりも、それっぽいことを言っておいた方が良いと思ったんだ。それと、結婚を前提にって言う方が、付き合い始めたばっかりです。って言うよりも良い家を見せてもらえそうな気がしたんだよね。あと、お試しで一緒に暮らすってこと自体は本当のことだし」

 と、サモちゃんの膝の上でゴロゴロと喉を鳴らすチャコちゃんの柔らかそうな背中を撫でながらサモちゃんはまるで「月曜日の次は火曜日だよ」と、当たり前の事を言うようにそう言った。

 サモちゃんは穏やかそうな外見からは分かりにくいが、結構したたかな一面があるのかもしれない。

 さすがに「結婚を前提に」という嘘はどうかと思ったが堂々としていれば案外バレないようだ。

 私達が上手くいかなくて退去する際に気まずい思いをするようで若干不安でもあるが。

 私が心の中で一年後退去する時の言い訳をずっと考えているのも知らずに、サモちゃんはラグビーボールみたいな大きさのチャコちゃんを抱き上げながら

 「おねーさん! ネコってこんなに伸びるんだね。お雑煮の中のお餅みたいに伸びてる!」なんてのほほんと笑っていた。

 店長は、一駅隣の物件でおすすめしたい所があると言って自家用車に私とサモちゃんを乗せてくれた。チャコちゃんは店長が用意した電気毛布の上で丸くなって留守番している。

 「駅から徒歩十五分くらいの家です。築年数は少し古いですが

 日当たりも良くて住みやすいと思いますよ。それに駅から歩く途中で商店街もあるので買い物なんかもしやすいかと」と信号待ちをしている際に教えてくれた。

 車に乗りながら気付いたが、紹介してもらう物件の最寄り駅はエマノンの最寄り駅でもあった。もしこれから行く家に決めたら、ますます彩ちゃんの店にはお世話になるかもしれない。なんてことを思いながら店長が追い抜く車を窓から眺めていた。



 見せてもらうのは2LDKくらいのアパートかな? と内心思っていた私とサモちゃんは連れてきてもらった庭付きの二階建て一軒家を前にして面食らった。

 これはさすがに……。と私達が動揺しているなんて知らない店長は玄関ドアの鍵を開けたあと

 「二階に部屋が三室あるので、このままお二人が結婚して暮らすとしても快適に過ごせると思いますよ」と人の良さそうな笑顔を見せた。

 家の中は、店長がわざわざ店の奥まで行って探してくれだけあって住み心地は良さそうだった。

 築年数は古いと言っていたが、家の中は水まわりも含め綺麗にリフォームされているので、古さはそこまで気にならないと思う。

 一階は玄関を開けるとリビングとダイニング、その奥にキッチンと和室がある。和室には縁側があってリビングと和室の窓からは庭がよく見えた。

 庭に何か花の鉢植えを置くのも可愛いと思うし、和室には冬はこたつを置いたらずっとそこに居られそうな気がする。

 玄関のそばにあったゆるやかな階段を上り二階に上がる。

 広々とした部屋の窓を開け、少し外を見ていると電車が音を立てて走り去るのが見えた。

 電車が通る音は窓を閉めてみるともあまり聞こえなかったから暮らしていてもあまり気にならないと感じた。ざっくり見てみた感じ、悪くない。

 室内の雰囲気以外にも良いなと思ったのは浴槽が広い事だった。

 今住んでいるアパートは風呂場まできちんと確認せず契約をしてしまったので、引っ越しが終わっていざ住んでみると、毎日のお風呂で足を伸ばして入浴できなかった事にショックを受けた。

 膝を抱えて丸くなることでやっと肩まで浸かる事の出来る狭い浴槽に慣れたとはいえ、次に選ぶ家ではお風呂くらいはのびのび入りたいと思っていた私にとって広い湯 船でゆっくりする事が出来るのはありがたい。

 試しに入ってみたが、私が両足を伸ばしても余るくらい充分広いので、多分背の高いサモちゃんもゆったり入ることが出来そうだ。

 お湯を張るのも自動でしてくれるし追い焚き機能もついているのはありがたいな。とぼんやりとしていたその時、他の場所を見に行っていたサモちゃんがドタドタと足音を隠さずに私を呼びに来た。

 「おねーさん、凄いよこの家! キッチンが三口コンロだ!」 魚焼きグリルもあるし、おまけにガスオーブンまでついてるよ!」

 サモちゃんはまるで地図を頼りに宝箱を見付けた海賊みたいに目を輝かせて興奮していた。

 ……ちょっと子供っぽくて可愛いと思ってしまった。

 私はサモちゃんの言う事がどれくらい凄いことなのかピンと来なかったので、つい

 「走って知らせに来るくらい凄いことなの?」と聞いてしまった。

 「凄いよ。だって朝やかんでお湯を沸かしながら目玉焼きと味噌汁と焼き鮭を一気に作れるんだよ。しかもガスオーブンもあるからパンも焼けるしローストビーフも出来ちゃうよ! ……もしかして、この凄さが分かんないって事はおねーさんあんまり自炊しないんでしょ?」

 最後の方は半ば呆れ気味にサモちゃんが言うので私はどきりとした。

 朝はシリアル、昼はコンビニ弁当やパン、夜は彩ちゃんの店を含めた飲食店での外食か、カップ麺かレトルト食品で済ませてしまっている。

 私が何も言えずに浴槽の中からサモちゃんを見上げていると、サモちゃんはうんうんと頷いて言った。

 「じゃあおねーさんの分もご飯は僕が作ろうかな」

 「なんだか申し訳ない」

 年上のくせにサモちゃんに甘えてしまう情けなさから私がうつむきがちに言うと

 「ううん、僕も一人暮らしの時はあんまり作れなかったカレーとか鍋とか作るの楽しみだし。一緒に食べようよ」と、サモちゃんは屈託のない笑顔を見せた。

 きっと自炊をしない私とするサモちゃんでは価値観も好みも全く違うんだろう。

 だけど、一年間一緒に暮らしても違和感なく過ごせるに違いない。

 一瞬だったけど、そんな予感がした。

 「サモちゃんはどう思う? 私はこの家良いと思うんだよね。お風呂は自動でお湯張りしてくれるやつだし」

 浴槽からやっと出た私はサモちゃんに質問した。

 「僕もここ好きだな。二階も見てみたけど部屋も広かったし。それに、やっぱりキッチンが魅力的だよ」とサモちゃんは頷いた。


 決まる時は本当に一瞬だった。

 こんなにあっさりと決まってしまうと思ってなかったので拍子抜けしてしてしまうくらいだ。そう思っていたのはサモちゃんも同じだったようで、私達は顔を見合わせて笑った。

 「あっ、ここにいたんですね。どうですか? この家は」

 店長が脱衣所の入り口からひょっこり顔を出した。どうやら呼んでもなかなか見当たらなかったので私達を探していたらしい。

 私が店長にこの家を借りたいと言うと

 「ありがとうございます。では、なるべく早く引っ越しが出来るように準備をしておきますね」と笑っていた。

 店長の言葉通り色々と手を回してくれたおかげで三月の引っ越しシーズンだったというのに、諸々の手続きはあっという間に終わった。

 荷造りを始める前に物を沢山捨てた。

 風呂場が狭いこと以外は条件が良かったので、この家にはだいたい四年間住んでいたが私の思っていた以上に物をため込んでいたことに気付いて驚いた。

 なんとなく家に置いたら家の中が一気に素敵になるんじゃないかと思って買ったものの、部屋自体の雰囲気に合わなくて部屋の隅で埃をかぶっていた置物。水をやらなくて良いから楽だと思って買った割に、人工的な作りが気に食わなくなってベランダに放り出していた偽物の植物の鉢植え。そういうあってもなくても良いものばっかり買っていたようだ。夜になる頃にはそういうものだけでゴミ袋五袋分がいっぱいになっていて、さすがに笑ってしまった。

 新居では本当に必要だと思うもの、欲しいと思うものだけを買うようにしたい。

 ただ、学生の頃彩ちゃんが泊まりに来た時に使っていた布団一式は思い入れがあるしまだ綺麗だったから捨てずに改めて日干しをして新居に持っていく事にした。

 サモちゃんの住んでいた学生アパートの家電は全部備え付けのものだと聞いていたから、私の家の冷蔵庫や洗濯機をそのまま新居に持って行って使う事になった。

 洗濯機はそこそこ使い込んでいたのに対して、冷蔵庫の中を整理した時にはアルコール類やヨーグルト、それからどろどろになって原型を留めていない袋入りの野菜くらいしか入ってなかった。かわいそうな野菜のなれの果てを捨てる時にはあまりにも自炊をしていなかった今までの自分に呆れてしまった。

 サモちゃんに基本的に料理は任せるとはいえ、多少自分でも何か作れるようになった方が負担は減るだろう。新生活が落ち着いたら改めて料理の本でも買ってみるべきかもしれない。そう思いながら夕飯としてヨーグルトを食べたあと、空っぽになった冷蔵庫を布巾で綺麗に磨いた。





 引っ越し業者も店長が懇意にしている業者に頼んでくれたから、引っ越し作業自体も予想していた以上にスムーズだった。

 私が引き払うアパートの掃除をしている横で、私の物を梱包に来てくれた引っ越し業者のスタッフさんたちが、服や小物類をてきぱきと詰めていった。

 山盛りの段ボールの壁を作ってはトラックに詰めていく光景を見ていると、一分の隙もないスピーディーさに私の目が回るようだった。

 最近はテレビで何かを見るよりもノートパソコンで見ていることが多かったので、テレビとテレビ台は思い切って一階のリビングに置くことに決めた。テレビを見ながらサモちゃんとコミュニケーションを取る機会も取れるだろうし私の部屋も広く使えそうだから悪い案ではないと思う。

 二階は三部屋あったので私は一番手前の部屋、サモちゃんは一番奥の部屋を自分たちの部屋にした。余った部屋は共用の物置にすることにした。

 引っ越しの日、サモちゃんは私が持ってきた半分くらいの荷物を引き連れて新居にやってきた。サモちゃんの部屋は唯一大きな家具としてパソコンデスクと椅子が目立っていた。

 「これ結構良いやつなんじゃないの?」

 量の少ないサモちゃんの荷ほどきを手伝いにきた私はパソコンデスクを撫でた。すべすべとした手触りは私が通販で適当に買ったローテーブルとは違い、質の良さそうなものだった。

 「せっかく勉強するんだし良いものを使ってやりたいって思って。大学が始まる前にアルバイトを頑張って、お金を貯めてあちこち見て回って選んだんだ。この机を使って勉強するんだし頑張らないとって思ったら成績も割と良かったんだよ」

 そう言ったサモちゃんは誇らしげだった。

 「サモちゃんは形から入るタイプ?」

 「たぶん? その道具を使うのにふさわしい自分でいたいな。って思ったらやる気が出てきたしそうかも。これもウォールナットで出来てる机だし」と照れくさそうに笑った。その答えには嫌味な部分はなく、良い考え方だと思った。

 サモちゃんが形から入るタイプというのは正解のようだった。彼の家から運ばれてきた段ボールのいくつかはキッチンに運ばれていた。

 キッチンに運ばれた箱の中からは大小さまざまなフライパンや鍋が出てきた。聞いてみると料理ごとに分けて使っているらしい。他にも揚げ物専門の鍋や玉子焼き機も出てきたので、本を買って料理の勉強をするよりもサモちゃんに料理を教えてもらった方が早いと思ってしまった。

 「サモちゃん、この部屋ベッドがないけど寝る時どうするの?」

 「あー……。アパートに備え付けのベッドも僕が四年間使ってたし持って行っても良いかな。って思って確認してみたら駄目って言われたから持っていけなかったんだ。しばらくの間は友達とキャンプしに行った時に買った寝袋と毛布があるから当分はこれで凌ごうかなって。あれ? この辺の箱に入れたと思ってたんだけど見付からないな……」

 まだ片付けきってない部屋の中の段ボールを片っ端から開けて寝袋を探そうとするサモちゃんを止めて

 「彩ちゃんが昔泊まるときに使ってた布団一式があるからそれ使って! お古だけどあんまり使ってないし引っ越し前に虫干しもしてるから!」

 と言って私の部屋でソファー代わりにしようと思っていた布団を持ってきた。

 サモちゃんは驚きながらも

 「ありがとうおねーさん。大切に使います」

 とつむじを見せて深々とお辞儀をした。

 「どういたしまして。ベッドも全部買うと結構高いし、サモちゃんが嫌じゃなければそのまま使ってくれても良いよ」

 「じゃあお言葉に甘えます」

 とサモちゃんは笑ったので、お節介ではなかったようで私はほっとした。

 まさか一緒に連れてきた布団がこんな所で役に立つとは思わなかった。捨てなくて良かった。

 私が今まで住んでいたのはワンルームだったので家具を無理矢理詰め込んで窮屈ではあった。まあ、ワンルームのくせに無理してソファーを買って置いていたのもあるが。

 ソファーは今リビングに置いたので今度は広々と自分の部屋を使うことが出来るようになった。

 風呂から上がり、まだ段ボールがいくつか残っている部屋に戻り、ベッドにもぐりこんだ。

 窓の外から、かすかにに電車の走る音が聞こえてきて、今まで住んでいた場所ではない所で暮らし始める事をはっきりと理解させられた。

 電車の音が耳に残っていて中々寝付けなかったが、部屋に戻るサモちゃんの足音が聞こえてきた。

 それを聞いているうちに実家にいた頃、ドアの向こうから聞こえる話し声や、足音を聞いているうちに眠ってしまったことを思い出していた。


 一人じゃないのも案外悪くないのかもしれない。


 私以外にも一緒に住む人がいることに思いを馳せているうちに、いつの間にか眠りについていた。

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