45.「若菜」は皆を仰天させた。

 やがて女御として入内している明石の姫君が懐妊し、宿下がりしてくる。その折に、と紫の上は女三宮と対面して、仲良くなり、その後は文なども送り合う様になる。


「女君達を仲良くさせたい、とはあのひとも言っていたけど」

「明石の御方に関してはまあ判るんですよね。自分の分をわきまえて一歩下がっているし、実の娘を女御として相応しい女性に育ててもらったという恩もあるし。女御は実の母より紫の上の方に親しみを感じているともあるし…… 一方の紫の上は子供を奪ったという負い目もあるかもしれないでしょう」

「女御を通して負い目は五分五分、ということね」


 ふう、と梛は息をつく。


「男が間に居なくて、ただの友達として出会ったら本当にいいお友達になれたかもしれないのにね。紫の上にしたって、源氏の北の方、という立場でなければ……」

「ああでも梛さま、駄目です。その仮定は無駄ですわ。だって明石と都に居たこの二人が出会うことはまず無かったはずですから」

「それはそうだけど」


 梛は何となく口惜しい気がする。


「女同士が仲良くなるのに、男って必要かしら」

「だから仮定ですって」


 松野はそう言い切って、続きを読み出した。

 そして途中ではっと目を見開く。


「何なの松野。確かに香さん、女房達の態度について、またこれが正しい正しくないって言ってるけど」

「そ、そうじゃありません。梛さま」


 松野は慌てて次を読み出した。


「衛門督…… それまで中将とか少将とか色々言われてきた―― 昔の頭中将の長男よね」


 この時点において、衛門督は大将となっている源氏の若君の友人であり、昔の源氏と頭中将を彷彿とさせる仲である。

 その衛門督が延々女三宮のことを思っている。


「そう言えばこの巻の初めの方で書いてあったわね。婿の候補者の一人だったって」


 その彼等がとある春の日、蹴鞠に興ずる。当初それは若君の里である夏の町で行われていたのだが、噂を聞きつけた源氏が彼等を呼びつけた。

 そこで事件が起こってしまう。

 出来事としては些細なことである。当人達以外にとっては。

 しかし当人にしてみれば。


「よりによって……」


 梛は思わず口を押さえた。


「ずっと思っている人をたまたま見てしまう、というのは…… 以前源氏が兵部卿宮に玉鬘の君を螢の光で見せたのとは訳が違うわよ。その上、女三宮の側の猫まで抱き上げて匂いを嗅ぐなんて…… で、松野、続きは?」


 梛は身を乗り出して催促する。


「ええと……」


 残り少な。読み終わった松野の顔を梛は恨めしそうに見つめた。


「そんな目で見ないでくださいよ…… 上巻はここまで、なんですから」

「全くあのひとときたら!」


 衛門督は女三宮に対して―― と言うか、馴染みの女房である小侍従を介して文を送る。そして女三宮は知るのだ。自分が衛門督に見られていたことに。

 ただここで彼女が感じるのは、ただ恐怖のみ。それも「普段言われていたことが守れなかった、源氏に知られたら怒られる」その意味で。


「そもそも女三宮は源氏のことはどう思っているのかしら」


 正直、彼女に関しての香の書きぶりは辛辣である。筆跡は幼稚、歌を書く紙の選び方も源氏が目を覆いたくなる程に。紫の上の目から見ても、ただもう子供っぽく感じられるだけ、とある。

 彼女の周囲にしても、しっかりした者が少なく、若く華やかな、悪く言えば軽々しい者が多いことを源氏に指摘させている。

 では女三宮は、と言えば。

 彼女の意志は見えない。紫の上に対して好意的な雰囲気はあるが、源氏に関しては全くといい程語られていないのである。

 ちなみに女三宮がやって来たのは、紫の上が源氏の妻となったのと同じ位の歳である。


「紫の上は最初、それなりに嫌なことは嫌だと意思表示したわよね」

「ええ『何かあった』と思った翌日はずっと衾をひきかぶって寝ていたとか、寝汗でびっしょりだったとか、嫌なことがあって衝撃を受けた様子がきっちり書かれていました」


 だが女三宮にはそういうこともなく、ただただ子供っぽいだけで。そして文をもらった時も「怒られないか」という心配。


「梛さま、衛門督の恋は報われると思いますか?」


 梛は横に振った。ありえない、と彼女は思った。


「もしこの二人が何らかの関係を持ってしまったら…… 待つのは破滅だけよね」



「……あれは駄目ですね、姉上」


 相変わらず自分の草稿をまとめたり、新たに思い出したことを書いたり、また「若菜」の続きを待ちつつ日々を過ごす梛のもとに、忙しい日々を縫って藤原行成がやってきた。


「あれ、と仰いますと?」

「藤式部どのの弟のことですよ。惟規という」

「彼が何かしましたの?」

「何かした、という訳ではないのですが」


 行成は口ごもる。


「左大臣どのの口添えでここ最近何件か仕事で私と会うことがあったのですよ。先日臨時の仁王会がありまして。その時私の使いで仁王経を献上させたのです」


 それで、と梛は身を乗り出した。


「帝も出御された程のものだったのですがね…… 何と言うか」


 行成はどう言ったものか、と首を傾げる。


「その少し後、止観玄義文句三十巻の外題を書き奉るべき由、の勅を惟規は私の元に伝えに来たのですよ。何か、その時も……」


 やはり言いにくそうだった。梛は言葉を促してやる。


「妙な振る舞いがあったのですか?」 

「どうにもおどおどしておりましてね…… と思ったら、今度は私の元に来る時に景気づけのつもりでしょうか、……どうも酒の匂いがしましてね……」


 さすがにそれには梛も呆れて開いた口が塞がらなかった。


「以前の職の時にはそういうことはあったのでしょうか?」

「いや、私の方では格別には」


 そもそもさほどに気にも留めなかったのだ、と行成は言う。

 梛の記憶では、惟規は少内記であった頃には大過なく役目を果たしていたと聞く。

 確かに現在の方が地位は高い。だが内容が以前とはがらりと違う。六位蔵人にせよ、この七月から兼任している兵部丞にせよ、職場に籠もって文書作成していれば良いというものではない。

 あの香と同じ血を引く彼である。人の中に立ち交じることが不得手である可能性は大きい。

 付け加えて、現在の官位や役職が姉の七光であると周囲も見ているだろう。それを幸運と見るか屈辱と見るか。はたまたそのどちらでもなく、ただただ重圧と見るか。

 いずれにせよ、文書の作成が職務であるその役目が彼には合っていたのではなかろうか。あの気の弱そうな彼には。

 とは言え、受領階級の子弟、男であるなら、人に立ち交じっていくのが不得手とは言っていられないだろう。


「成る程、姉君としても不安はある訳ですね。左府どのも、彼は周囲より年上だから、というのみで推していましたが、なるほど。判りました。格別何かできる訳ではないですが、多少彼の行動には当初よりあきらめを持って見ていた方が良いかもしれませんね」


 使えない部下一人一人をかばっている余裕も義理も無いのだ。



 やがて冬に差し掛かった頃、待ち望んでいた「若菜」の下巻が出た。

 ちなみに上巻は想像通り、物語好きの仲間達の叫びと涙を大量生産した。


「あれでめでたしめでたしだと思っていたのに一体どういうおつもりでしょう!」

「何ですかこの女三宮は! 子供じゃないですか! 紫の上が可哀想じゃないですか!」

「いくら朱雀院に頼まれたからと言っても、「今更正妻を娶ることはないじゃないですか! 何考えてるんですか源氏は!」

「光君、も歳を取るとこうなってしまうんですね……」


 続きが始まったことに関しては皆嬉しがった。やはり源氏達の「その後」を知りたがっていた読者は多かったのだ。

 だが内容に関しては。

 「感想はもう要らない」と文に書かれていたことを梛は思い出した。どんな感想が読者から出てくるのか想像していたのだろう。確かにこれらの感想なら、見たくは無いのも当然かもしれない。

 どんな感想が来ようと、書くものは決まっている。あれこれ言われるのは嫌だ、と。

 気になる所で切られた物語の続きを読みつつ、梛達は低い声で語り合っていた。


「衛門督、思い詰め過ぎだわ……」


 女三宮が可愛がっていたから、とその猫を帝に頼んで入手しては代わりにする様ときたら、何やら一線を越えてしまっていると梛には思えた。

 物語の中ではそれなりに時間の経過がある様で、衛門督は女三宮のすぐ上の姉宮と結婚していた。しかしその妻に飽きたらず、延々女三宮に恋い焦がれている。

 そしてとうとう――


「昔の源氏を彷彿とさせますが、『輝く日の宮』より書き方が生々しいですね。それに昔は『いつの間にか』という様に結構曖昧でしたけど、今回はきちんと手順を踏んでます」


 読みながら松野は納得した様にうなづき、眉間に皺を寄せた。

 そう、衛門督が女三宮に近付く隙が出来るまでが段階を踏んで描かれているのだ。

 五十の賀が近付く朱雀院は女三宮の琴の琴がどれだけ上手くなったかと所望する。

 琴を教える関係上、源氏も昼間から通う日々が増える。

 そして女楽。その夜紫の上が発病する。

 何処がどうという訳でもないのにどんどん衰弱していく紫の上。二条院に移して療養させ、源氏もついて行く。

 六条院は主が留守の状態になってしまう。……そこに協力する女房が一人居て。

 とうとう。


「そしてやはり懐妊してしまう…… 繰り返しだわ」


 吐き捨てる様に梛は言う。


「しかも妻が誰と密通しているのか、源氏が気付いているところがたちが悪いですよね。一体この後どうするのでしょう?」


香の書く源氏はかなり底意地が悪い。かつて自分達が思い描いた「素晴らしい公達」とはずいぶんとかけ離れてしまっている。

 彼は桐壺の帝の様な曖昧なおおらかさを持たないだろう。香の性格を反映しているからには。

 この先を思うと、梛は気持ちが重くなってくる。



 そしてこの巻が出た頃、一人の親王が亡くなった。

 和泉式部の愛人である敦道親王である。

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