19.「物語はつくりごとなのよ。何を書いてもいいの」

 慌てて梛は言葉を足す。


「い、いえ、そうではなく……」


 懐から香の文を取り出す。当人の知らないところで間違った噂を流すのもまずい、とあらかじめ用意しておいたのだ。


「ええと、当人の言葉によりますと、『あの方と違い』……『かげろう』の方ですね、『態度に出すことができないから、どんどん気持ちが奥へ奥へと入り、やがて男君の夢に出てくる生き霊となり、ついには妻のほうを取り殺してしまうのです』」


 きゃあ、と声が上がる。


「子供は?」

「そのあたりまでは、まだ……」

「子供はちゃんと生きていてほしいわね。せめて」


 そこで皆、中宮のほうを見る。


「申し訳ございません。こんな不吉な筋を。当人にも……」

「いいえ、お話ですもの。それは有りよ。ただね、少納言」

「はい」

「この時、例の姫君は何処に居るのかしら?」


 はた、と梛は目を瞬かせる。


「だって同じ男君の話なのでしょう?」


 そう言えば、と皆顔を見合わせる。


「あの話では『姫君はやがて幸せになりました』。でしょう? その姫君はその時幾つで、どうしているのかしら。書き手さんはそのことを教えてくれないの?」

「はい。まだそこまでは……」

「だったら今、私達はそれを想像することができるってことね」


 ふふ、と中宮は微笑んだ。


「どう? 皆、想像してみましょうよ。この時、例の姫君は何処にいるのか」


 わあ、と皆の表情が輝いた。それは滅多に無い試みだったのだ。

 やがて皆の口から次々に意見が上がる。


「男君が引き取られた、ということでしたら、その屋敷に居るのではないですか?」

「私も屋敷だと思います。そして男君は結構な身分のはずですから、そのお屋敷も広いはずですわね」

「けど姫君を据えたのはきっと寝殿ではないですわね。きちんとお迎えしたという訳ではないし、その姫君の身分も判りませんもの」

「そう言えば、姫君と、男君が思いを寄せる方は、縁続きだったりして!」


 誰かが言うと、そう言えば…… という空気が漂った。


「それ、いいわね」

 中宮はすかさず言葉をかける。

「縁続き…… とても高い身分で、男君に釣り合う年頃のかたと、縁続きだったら……」


 中宮さまは皆に後をうながす。即座に誰か一人が声を張り上げる。


「姉妹!」

「それは無いですわ。男君だって平気な顔して引き取ることができるのかしら」

「両親のどちらかが違う姉妹はどう? 歳の差が多少あってもいいのでは?」

「それでもその共通の親が大騒ぎしません?」

「あら、私の兄の奥方のところなど、腹違いの妹のことなどまるで耳にしないとか言っていたわ」

「従姉妹はどうかしら」


 中宮は閉じた扇でつ、とその意見を言った者を指し示す。


「そうね。案外従姉妹というのは、似ていることもあるし、それでいて顔を合わせたこともないということもあるわ」


 皆顔を見合わせる。


「そうですよ従姉妹! 遠くて近いつながり!」

「さすが中宮さま!」

「少納言」


 称賛の声の中、中宮は梛の方を見る。


「今からでもいいわ。皆の言うことを書き付けておいてね」


 中宮は梛の方に硯と筆を回す様に命ずる。


「……書き付け、ですか」

「そのあなたのお友達の作者さんに、この皆の意見を伝えてあげてほしいわ。面白いお話の足しになれば私は嬉しいわ」

「そ、それは……」


 さすがに梛は恐縮する。


「だってね、少納言」


 軽く目を伏せられる。髪がほんの少しだけ揺れる。


「物語っていうのは本当にいいものよ。どんな時、どんなところにあっても、読んでいる時だけはその全てを忘れられる」


 さらりとおっしゃる。だが、皆その言葉の中に込めた意味が判らない程鈍感ではない。


「『うつほ』だってそうだわ。私達が仲忠と涼の品定めをしていることを、この宮中の女房達は誰もが知っている。けど誰もはしたないなんて言わないでしょ。要するに私達、男君達の品定めをしているというのに」

「そう言えば、亡き奥方様も、そういうことはこっそりとするものだ、とおっしゃいました……」


 亡き中宮の母、貴子に仕えていた女房が袖で目を覆う。


「母上はそういうこと、ご自分でもお好きでしたけどね。でも人前で堂々とすることはないでしょう。ましてや主上の前でなど。でも物語に出てくる男君なら構わないのよ。そう、たとえあて宮が源氏であろうと」


 ぞく、と梛の背に冷たいものが走った。


「源氏…… でしたね」


 そう言えば。


「そう言えばそうですね。あの話の中では最後に東宮に立つのは藤壺女御の一宮ですわ。……ええ、源氏の出身です」


 気付いた者が補足していく。


「気付きませんでしたわ、そんなこと」

「藤原氏の仲忠が主人公で、いつかはいぬ宮が入内するだろうと見なされているからかもしれませんが、確かに『国譲り』の巻で勝利しているのは源氏、源正頼の側ですわ」

「そうね。現実にはあり得ないこと」


 中宮さまは真剣な顔になる。


「今の世の中、私がそうである様に、そして今の一の人がそうである様に、皆、藤氏よ」


 そう。現在力を持つのは藤氏―― 藤原氏だけだ。梛は改めて思う。

 「藤橘源平」が昔からの四大氏姓だが、他の三氏はまるで藤原氏に及ばない。そしてまた、その藤氏の中にも上下の差がくっきりと現れている。

 香の父、為時は現在越前守である。受領階級だ。そしておそらくはそれ以上の出世は望めない。最近の文に書き送ってくる宣孝も同様。

 どちらも現在の氏の長者と本は同じ北家だというのに、片や政治の中心を直に争い、片やそのおこぼれにあずかるしかない地位。

 梛の清原家は、確かに古くは親王家につながるが、現在は香の家同様の受領階級だ。

 梛の別れた夫は橘氏だ。そして帝の乳兄弟でもあった。

 だがやはりさほどではない。殿上人になったからと言って、政治の中枢にまで入り込める訳でもなかった。


「少納言はどう思って?」


 考えに耽る梛に、中宮は話を振ってきた。少し考えてから、慎重に言葉を選ぶ。


「『うつほ』は当初、あて宮を狙う男達の話でしたが、途中から政権争いの話になりましたのは確かです。そして最後の最後、『楼の上』で琴、仲忠の全てにおける勝利で締めていますが、『国譲り』が『うつほ』の社会で大きな位置を占めていることは間違いないと思います。あて宮が国母になることを予言しているだけでなく、正頼が仲忠と並ぶ人物として確かなものとなっているのですから」


 周囲の女房達が少し首を傾げた。


「でも仲忠は藤原氏だわ」

「でも母君の尚侍は清原氏だわね、少納言」


 にっこりと中宮さまは微笑まれる。梛は顔を伏せる。


「藤原氏であることは『うつほ』ではさほどに強い意味を持たないわ。あて宮は源氏。そして帝にすら屈しない琴の力は、清原氏の受け継いできたもの。それに、藤原氏の描かれ方は時々ひどく滑稽ではなくて?」

「……そちらの方はよく判りませんが、切ない描かれ方をしているのは、源氏の方に多い様な気がします」


 別の一人がそう口を挟む。他の者もそれに次々と補足していく。


「あて宮入内に失望して、三奇人はともかく、三人の男君がひどく打ちのめされました。源氏の仲頼は妻や妹を捨ててあっさりと出家しましたし、実忠も似た様なものです。『国譲り』で兄弟が奔走したからこそ、彼は妻子の元に戻りましたが、父恋しさに既に亡くなっている太郎君は戻ってはきません」

「それに何と言っても仲澄ですわ。同母妹に恋い焦がれてしまったのは確かに困ったことでしょうが、それで病に倒れ、はかなくなってしまうのはどうにもこうにも哀れなことです」

「そうでしょうね。それに比べれば、私の大好きな涼など、幸せな方だとは思うけど…… そうそう、藤氏である皇后の宮の描かれ方は、実に面白かったでしょう?」


 中宮の言葉に皆うなづいた。


「新帝の母君ともあろう方が、たとえご兄弟であっても、あの様な、露骨なものの言われ方をなさるというのは……」


 嫌でございます、と古女房の一人は眉を顰めた。


「でも確かに皇后の宮にああ言われても動かない程、あの藤氏のきょうだい達は、政治への執着は無かった様に思えました」


 梛も口を挟む。


「そうね。それだけ正頼や仲忠が優れていたということでしょうけど、それってかなり危険なことじゃない?」


 中宮は扇を開き、口元を隠す。それは、と梛は口ごもる。


「この作者が誰かは判らないけれど、ここまで藤氏のことをないがしろにしている話も凄いと思うわ」


 中宮はいつもと違う。その時皆ようやくそれに気付いた様だった。


「不敬とも言っていい程ね」

「そんな」

「でも誰も、この作者を罰しようとも、それ以前に探し出そうともしない。さあ、それはどうしてかしらね? 少納言」

「浅薄な私には判りかねますが……」

「物語だからよ」

 隠した口元から、きっぱりとした言葉が放たれた。

「私達、女子供の読む様な『たかが物語』になど、男達は気にはしないの。よほどのことが無い限り、する素振りなど見せるものですか」


 しん、と周囲は静まり返る。

 中宮がこれ程痛烈な言葉を放つのを梛は聞いたことはなかった。皆、呆然としてその美しい顔を見つめるばかりだった。


「だからね、少納言」


 再びほんのりとした笑顔が梛の方を向く。


「は、はい」

「物語はつくりごとなのよ。何を書いてもいいの」

「……はい」

「だから、そのひとにもそう言ってやって頂戴。物語は何を書いてもいいのよ、と」


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