15.「誰かの身代わりで、幸せになれるか、と思ったのです」

「為時どのにもその時、もう少し姫君のことを思いやった言葉をかけたほうがいいのでは、と言ったのです。私もその頃には父親になっていたし」


 そう、確か藤原宣孝という人には、三人の妻と五人の子が居るということを梛も聞いている。下総守の娘、讃岐守の娘、そして中納言の姫。

 公に知られているのだけでも、それだけ居る。そうでない召人や、軽い通い先だったらきっと両手では数え切れないだろう。


「で、父親の一人としては、彼女を娘のように思っていたのではないですか?」

「当初はね。裳着の頃までは都に戻る折を見ては会いに行った。そしてその都度、愚痴の相手にされた」


 はあ、と梛はため息をついた。梛が最初に出会ったのは、成人してしまって相手を無くした頃らしい。


「最近はお会いになりましたか?」

「もうさすがに直接は会えないねえ。専ら文を出すばかり」

「返事は?」

「まあつれないことつれないこと。『竹取』のかぐや姫よりはましだが、『うつほ』のあて宮くらいには」

「まあ! それはひどい」

「気位は高い。でもやっぱり中身は変わらない。そうそう、あの物語を読んで、思いましたよ」


 梛ははっとする。


「お読みになったのですか、あの『形代の姫君』の話」


 ええ、と彼はうなづいた。梛が経房に回した話は、彼の元まで行ったのか。思わず訊ねていた。


「あれをどう思いましたか?」

「どう、というと?」


 彼は首を傾げた。そして問い返す。


「あなたはどうお思いですか? 少納言の君」

「……綺麗な話では?」

「当たり障りの無い答えですね。そう綺麗な話だ。そして、悲しい話だ」


 え、と梛は顔を上げた。


「私は特に物語好きという訳ではないのですがね。あれはぜひ読むように、とおっしゃった方がありまして」


 ……まさかあの方、直接に。


「作者が彼女でなかったら、仮名物語など適当に読み流していたところですが。少納言の君は、違和感がおありだったそうで?」


 そんなことまで経房は言ったのか、と梛は内心様々に悪態をつく。


「ええ…… 何と言うか……」

「その違和感を、詳しく聞きたいものです」

「それは…… 私がただ感じただけですから」

「感じる、そこが大事なのではないですか? 歌でも文でも」


 そう言われてしまったら、何も返す言葉はない。


「誰かの身代わりで、幸せになれるか、と思ったのです」


 彼は大きくうなづいた。


「成る程」

「男君には誰だか判らないけど、何処かにとても好きな人が居る。ただその人は決して手が届かない。だからその面影に似た子を見つけだしたら、それを育てて幸せになろう…… これだと、男君は幸せになれるかもしれませんが、姫君のほうはどうでしょう」


 そう、ずっと思っていたのだ。


「もし自分が誰かの『形代』だと知ったら」

「そうですな。ですがもしも『それでもいい』と姫君が思っていたら?」


 え、と梛は問い返した。


「姫君は母を早くに亡くし、父からは見捨てられ、そして何も力も無いところに理想の男君がやってきた。男君は何故か判らないけど、ともかく自分を愛してくれる。男君は自分の秘めた恋のことは決して口にしない。少なくとも判るような行動を自分で取るまい取るまいとしている。姫君は気付かない」

「でも、もし気付いたら」

「もし気付いたとしても、それでも男君が自分を愛していることには変わりはない。形代であるにせよ何にせよ」


 理由など何でもいい。ともかく男君が側に居る。自分を愛してくれて、甘えさせてくれて、何不自由ない生活をさせてくれる。……姫君はその頃には彼無しでは生きられなくなっている……


「幸せなのですか?」


 梛は問い掛ける。


「それでも幸せだ、と思うとしたら?」

「姫君が?」

「いえ、書いた本人がです」


 香が。


「少なくともあの子は、それが幸せだと信じている。私はあの物語からはそういう気

持ちを感じ取りました」

「でもそれでは」

「だから悲しい、と言ったのですよ。形代でも彼女はいいのです。形代であろうが何であろうが、自分をただ安心できる場所に置いてくれて、ひたすら愛してくれる人があるならば、理由などどうでも―― それほど、彼女は何かに飢えていたのです。ずっとずっと」


 梛は袖の端をぐっと握った。彼はそんな彼女を見ながら扇で自分の頬をひたひたと軽く叩いている。


「……でも母君が居ない人など、この世には多いですわ。彼女はそれでも父君のことを慕っていられるだけ、ましではないのですか。女には不自然とされる漢文を教えてくれるだけ彼女は」

「いやいや」


 彼は首を横に振る。


「それはあなたの理性による判断だ。彼女の気持ちではない」


 梛は顔をしかめる。


「他人のことなど、どうでもいいということですか」

「いやいや違う。他人のことを、彼女は考えることすらできないのですよ」

「まさか」


 あれだけの話を作ることができて。

 ぽん、と彼は扇で自分の烏帽子を軽くはたく。


「頭はいいのですがね。如何せん、彼女には自分の不幸な部分しか見えていない。自分の行動が人にどう映るかを、外側から見ることができない」


 梛の袖を握る力が強くなる。思い当たる。香の文はいつも一方的だった。

 こういうことがあった・こう思った・こういう書を読んだ・梛さまどう思いますか? 

 疑問で終わる。梛がその後答えたとしても、それ以上の展開はない。

 「これは違うのではないか」と意見したこともある。だがそれが果たして通じているのかも判らない。


「……そう言えば、そうだったかもしれません」


 でしょう? と彼はうなづいた。


「早口でしたか?」

「はい。昔から」


 笑顔で彼はうなづいた。


「これでもか、とばかりに早口でしたよ。ここで話さなくては、自分の言葉は横から取られてしまうとばかりに、急いで、自分の言いたいことばかりをこれでもかと」

「嫌ではなかったですか?」

「嫌がる人が居たのですか?」


 黙って梛はうなづく。

 物語好きの娘達は彼女をいつの間にか遠ざけた。梛自身もまた、彼女と直接会うことには熱心ではなかった。会うときっと鬱陶しいだろうと、内心思っている。


「私もたぶん、その一人です」

「正直な方だ」

「正直な訳ではありません。あなたに嘘をついても仕方がないと思うだけです」


 くく、と彼は笑った。

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