第19話 守りたい
「あ――――ぅあ――――」
自分の呻き声で、アルは目を覚ました。遅れて、痛みが全身を走り抜ける。視界はうっすらとぼやけていた。全ての感覚が鈍い。
「こ、こ……は……」
意識を繋ぎ止めるように、声を出す。それは一定の効果があった。浮いていたような感覚が、重力を思い出したかのように地に足をつける。地面の冷たさを感じながら、アルはようやく、周囲の状況を確認できた。
見覚えのある場所だった。
先ほどまで、夢に見ていた場所だった。違うのは、雨が降っていないこと。そして、自分があのころに比べて、成長していること。そしてシィがいないことだった。
少しずつ頭が回転していく。アルは、地理を頭の中で思い浮かべる。自分に何が起こったのか、どうしてここにいるのかを整理する。
注意を引こうとした魔獣は、アルやミュセルの予想を超えて成長していた。そのせいで、不意を衝くはずが、その逆をやられてしまった。そして、魔獣の咆哮でミュセルは消され、アルは魔獣に襲われた。腕を噛まれ、振り回され、飛ばされた。
最後のほうはもうほとんど曖昧で、覚えていない。ただ、地理から把握するに、投げ飛ばされた自分が山の斜面を転がり落ちてきたのだと理解した。
「う……っぐぁ――ああぁ……」
動こうとすると、それを阻止するかのように激しい痛みが走った。それを堪え切れず、アルは河原の上に伏せたまま、身をよじった。
痛みは人体の危険信号だと、以前に聞いたことがあった。ならば、これほどの痛みを全身が訴えるのであれば、自分の体はそれほどにボロボロなのだろうと、他人事のように考えてしまう。それほどに、全身の痛みは尋常ではなかった。
それでも、とアルは体を動かしていた。動かすほどに痛みによって体力が削られていくのは分かっていたが、それを押してでもアルは立ち上がることを選択する。もう、状況は把握できている。そうしなければ、あの魔獣が今にも追いかけてくると、理解していたからだ。
アルは右腕で剣を取り、それを杖代わりにして、ふらつく体を支えた。
感覚はちぐはぐだった。視界が揺れる。時には上下逆さまになった。自分が立っているのか、それすらも曖昧だった。体のバランスもどこかおかしい気がしていた。
「……やっぱり、来る、よな」
アルは支えに使っていた剣を持ち上げ、そのまま正面へと突き付けた。
感じ取っていたわけではない。単純に、あの巨体が向かってくるのが、目に付いただけだった。発せられる瘴気の黒さに、木々が染められているのが見えたのだ。森が脅威に毛を逆立てるかのように揺れていた。
アルが剣を向ける先、森の端から巨大な黒い四足獣が姿を現した。それだけで、その体から発する瘴気が周囲へ溢れ、沢の穏やかの空気を黒く澱んだものへと一変させる。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!」
それは、獲物を見つけたことを喜ぶかのように吠えると、アルの正面へと一瞬で距離を詰めてくる。改めて対峙するその魔獣は、記憶と変わっていてくれず巨大で、そして禍々しかった。
アルは剣を向けたまま、動かなかった。決して、恐怖に縛られて動けなくなっていたわけではない。
胸の中には、激しい恐怖が今もなお溢れ出ようとしている。
自分自身も、この巨大な魔獣と戦えるだなんて思ってはいない。万全の状態であっても、どうにかできるなんて思えはしない。
ただ、黙っていても食われてしまうだけだと、それだけは、理解できていた。
「そう、だ。俺は……何もしないことを、選びたくなんか、ない」
あの日、この場所で学んだことを、言い聞かせるように呟く。
勝てるとは思わない。戦えるとさえ思えない。逃げることさえ難しい。だから、自分が取り得る最大のことをする。ささやかでも、敵意を示す。
あの魔獣はずっと、攻撃を仕掛けてきたアルを敵視すると同時に、追い詰めたアルへすぐ襲い掛かって来なかった。今この時だってそうだ。それは、少なからずアルを警戒もしていることの現れであり、あの魔獣が知性を持っていることの現れだ。
ならば、アルがこうして敵意を向けることは、短い時間であっても、足止め程度にはなるかもしれない。アルはそう考えていた。そうすれば、何かができるかもしれない。突破口が見つかるかもしれない、とほとんど藁にも縋るほどの必死さで。
実際、魔獣は剣を向けてくるアルを警戒しているようだった。狩るタイミングを計っているだけかもしれなかったが、アルの狙い通り僅かな時間でも足止めできたのは事実だった。
そして、その足止めは、最大の結果を生んだ。
アルと魔獣が対峙し合う、その瞬間。
空から一筋の線が魔獣に向かって描かれた。
集中力を高めていたアルは、それに気が付いた。だが、何なのかまでは想像が及ばない。ただ、それが魔獣によるものではないと、それだけは瞬間的に理解した。
それを示すように、中空から魔獣に向かって伸びた線を中心として、瞬時に複数の魔法陣が生まれた。等間隔に並び浮かぶそれらは、魔獣に向かっていることを――狙っていることを示すかのように、次第に直径を小さくしていた。無色だった魔法陣は、すぐさまマナが満ちていくことを示すように、その文様と文字を白く輝かせた。
大気が震えていた。肌で何かが起こる、と本当的にアルは感じ取る。魔獣もそれは同じだった。だが、あまりにもそれは早かった。全てが一瞬の出来事であった。
そして――
「――――ッ!」
それらをガイドとして、空から飛来した白い星が、魔法陣と魔獣を撃ち抜いた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛――――!!」
光が満ちる。
轟音が響く。
それに重なるのは、魔獣の断末魔の如き叫び声。
星が穿った場所を中心として伝播する衝撃は、まさしく星が落ちたかの如き凄まじさであった。周囲のあらゆるものが巻き上げられた。溢れる光と合わさり、その激しさにアルは目を開けていられなかった。持っていた剣を突き立て、それを支えに踏ん張ろうとするのが精いっぱいだった。
魔獣の叫び声は長く続いていた。あの星が、魔獣を穿ち、そして焼き続けているのだろうと、アルは想像した。
「――――う、ぅ」
光と衝撃が収まった気配を感じ、アルは体を起こそうとする。魔獣を除けば着弾地点に最も近い場所にいたのだ。いくら剣を突き立てて踏ん張ろうと、耐えられるものではなかった。アルは河原の上に転がっていた。剣を手探りで探し、それを杖代わりに立ち上がる。そして、ようやく周囲を見ることができた。
そこに広がっていたのは、変わり果てた光景だった。
魔獣を中心として、地面は大きく抉れ、河原の石は尽く吹き飛ばされていた。見えているのは、茶色をした山肌そのものだった。そこから離れた、沢の周囲に自生していた木々は放射状に倒れていた。今もなお衝撃が伝わり、森が波打っているのだろう。巻き起こされた風と共に、葉の擦れる激しい音が響き渡っていた。
しかし、それほどに荒れ果ててしまった景色ではあったが、その空気だけは、本来のそれを取り戻しているようでもあった。アルが目視で確かめられる限り、魔獣が放った瘴気が消えているのが理由なのだろうか。疲れや傷の痛みこそそのままだったが、どこか体が楽になっているような感覚もあった。
そうして、ようやくアルは魔獣を見た。
「ア゛――――ア゛ア゛ァア――――」
魔獣はまさしく、穿たれていた。
巨体には頭部から胴体にかけて大きな穴が開き、その体の半分近くを消し去っていた。焼かれたことを示すように、断面からは煙が立ち上っている。焼けて高質化した泥の肌の隙間からは、血を流すように泥が垂れていた。それらは落ちると、高熱を発しているのか、地面を焼いた。
姿として異質であったのは、それでもなお、魔獣が立っていることだった。あの星の直撃を受けるという威力は、アルにも容易に想像がつく。魔獣と周囲の地形の変化こそが、何よりの証拠だ。それでも、前足の片方が失われた魔獣は最早四足獣という形すら保てていない状態であるのに、まだ立っていた。
「何なんだよ……こいつは……」
「ア゛ア゛――オ゛ァ――オ゛オ゛ォァアァ――」
そして、その異質さの中にあって取り分けて不思議――いや不気味なのは、頭部がほぼ残されていないはずなのに、魔獣が呻き声を上げていることだった。泥から作られし魔物。動物とはまるで異なる身体構造。改めて、魔物という存在の途轍もない異質さに恐怖を覚える。
『――アル! アル! 聞こえる!?』
その時、脳裏に聞き覚えのある声が響いた。幼さを残す少女の声。ミュセルだ。
『ねえ、アル! 聞こえてたら返事して!』
「あぁ……うん。聞こえては、いるよ。ミュセルも無事、だったか。良かった」
アルはどうにか応え、目だけを動かしてミュセルの姿を探した。だが、あの白い少女の姿は見当たらない。
『うん! ぼくはどうにか無事だよ! マナが安定していないから、体はまだ構築できていない! でもアルのことは感じ取れてる! だからこうやって、声を届けれてるんだ! それより、早く逃げて! 魔法は当てたけど、そいつはまだ生きてる! 急所は貫けなかったんだ!』
「そう、か。あれは、やっぱり、ミュセルのやったことだったか。また、助けてもらった、な」
得心が行く。あの白い光は、まさしくミュセルのようだった。
『のんびり話してる場合じゃないよ! 今、ぼくは感じることしかできないけど、アルのマナはぼろぼろじゃない! そんな状態でどうするの!? 時間稼ぎが目的だったんでしょ!? もう十分だよ! 早く逃げて! あいつも再生しようとしてる! このままじゃ、また襲ってくるよ! やだ! いやだ、よぉ。やっと、やっとできた友達なんだ……なくしたくないよぉ……』
頭に響くミュセルの声から、アルは彼女の感情を感じ取っていた。
ミュセルは純粋に、自分を心配してくれている。失うことを恐れてくれている。その気持ちが、嬉しい。だけど、同時に、悲しくもなる。
「……悪い、ミュセル。逃げたいよ。俺も、ずっと怖くて仕方ないんだ」
『だったら!』
アルの手は震えていた。
「でも、分かるんだ。ミュセルも言った、よな。あいつはまだ、生きてる、って」
『うん! だから!』
足には力が入っているのかも、わからない。
「だから……だよ。感じるんだ」
言いながら、アルは剣を片手で構えた。そうしておく必要がある、と感じたのだ。
「対峙してるから、なのかな。あんな呻き声をずっと聞いてるから、なのかな。あいつは、さ。あんな状態でも、まだ俺を狙ってるって、分かるんだ。きっと、ここで背中を見せでもしたら、そこで襲いかかってくる。そんな気が、するんだ」
『それ、は……』
手負いの動物は危険だ。
それはアルが父から教わったことの一つだった。弱肉強食の世界で生きる彼らにとって、傷を負うことは、自分が狩られる側に回るということである。だからこそ、手負いの動物は、普段以上に自らの強さを誇示しようとするのだ。自らが生き残る側に残るために。
「あいつは、成長してる、だろ? そのくらいは、やってくるよ」
それでなくとも、あの魔獣は十分な知性を身につけつつある。あの強大な魔法を受け、大きなダメージを負い、それに対する苦悶の呻き声を上げる。それ自体は本物であっても、そうして隙を見せることで、相手の隙を誘おうとする狡猾さがないとも言えない。
少なくとも、この状態であっても、隙を見せていい状況ではない。アルは、冷静にそう判断していた。
『だ、だからって! 無茶だよ! アルが……そんな状態のアルが、戦おうだなんて! ねえ、約束したよね! ぼくに、会いに来てくれるって……。ぼくは、アルに会いたいよ……』
ミュセルは泣いているようだった。近くにいれば、その頭を撫でてやることぐらいできただろうか、などとアルは思った。
「ありがとう……ミュセル。大丈夫だよ。約束は、破るつもりはないよ。ミュセルは、しっかり俺を助けてくれたんだから、さ。でも、やれるだけ、やるよ」
長剣を向ける。幼い頃から長く使ってきた、愛用とも言える武器だ。使いたいと思ったことは、一度もない。
シィとの訓練で、アルは言った。もしもの時のために鍛えておきたい、と。だが、その一方で、そんな時は来ないほうがいいと、アル自身も分かっていた。あの冷たい雨が降る日、三体の魔物を相手に命を奪う暴力を振るったのを、最後にできればいいと思っていた。
でも、今はそうも言っていられない。
ここで引くことはできない。 ――怖い
ここで死ぬわけにはいかない。 ――死にたくない
生き残らないといけない。 ――みんなに会いたい
大切な人を、守るために。 ――だから
かつて、自分がそうしたように。 ――もう一度
アルは、立ち向かうことを、決意した。
今こそが、自分の戦う時だ。
『アル――――っ!』
それからは、迷いはなかった。
力の籠もらない体へ、鞭を入れるように唇を噛んで、アルは駆け出した。
魔獣は溶け出た泥を再び体へ集めて、失った部分を修復しようとしていた。大部分が失われたせいだろう、その大きさ自体は、初めて見た時より一回りは小さくなっているようだった。そしてまだ、その体は完成されていない。
アルとて、決して勝ち目がない戦いを行おうとはしない。アルは決して死にたがりではない。死ぬことで、何かを成そうとも思っていない。今この、魔獣が自分の体の再生に行動の大部分をつぎ込み、残りを使ってアルを警戒しているこの時であれば、ただ逃げるよりは勝率が高いと踏んだ。
アルは駆けると、勢いをつけるようにして、地面にできたクレーターの端から跳んだ。そして、まだ動かない魔獣へと、そのままの勢いで剣を振り下ろした。
剣は魔獣の残された片方の前足に命中した。剣を伝って、手応えがやってくる。それは、まさしくあの日を思い出すものであった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
だから、アルは着地をすると同時に、喉を潰さんばかりの勢いで叫んだ。記憶が記憶を呼び、そしてまた体に染みついた記憶を呼び起こしていく。アルは剣をがむしゃらに、それでいて、これまでに培った技術を以て、魔獣へと叩き込む。
少なからず、それは結果を出していた。
再生を行おうとする魔獣の腕を、それ以上の勢いでアルの剣は切り裂き、その泥を吹き飛ばしていた。その確かな手応えにアルは、呼吸することすら厭うほど激しく、剣を叩き付ける。このまま行けば、魔獣の前足を奪うことができる。そうすれば、完全に再生しない限りは、魔獣の行動は制限されるはずだ。
だが、それをただ許す魔獣ではなかった。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」
心臓に直接響くような声が響いた。どこから声がしているのか、アルはそれで察した。魔獣にそもそも口はないのだ。口であるように思えていた、顔の一部ですら、それは生物を模倣していただけに過ぎなかったのだ。それはつまり、逆にいうなれば、魔獣のどこであっても、口に成り得るということであった。
「なっ――――!」
それを示すように、アルが叩き付けた剣を、甲高い音を立てて、前足の泥肌が受け止めた。新たな口が生まれ、アルの剣へと噛み付いたのだ。それを引き金とするように、魔獣の体のあちこちに同じような口が生まれる。そしてそれらは、怒りを表すような、威嚇の声を上げた。
「ヴオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!」
そして同時に、そこから瘴気の黒い霧が吐き出された。剣に噛み付かれたままのアルは、それを避けることはできなかった。正面、そして上下左右から噴出されたそれをまともに受けた。
「あっがあぁっ――うげぇっ」
嫌悪感と嘔吐感。そして直接肌を焼く強い刺激。それらにアルは悶絶しかける。だが、それでも、剣からは手を離さなかった。
(これを、手放せば、全部終わる――――)
ここは戦場だ。戦場である以上、それを示し続けないといけない。それこそが、この剣だ。
アルは瘴気を受けながらも、剣を握る右手へさらに力を入れた。瘴気によってその手が焼かれていくのを感じながら、それでも離すまいと痛みを力へと変える。
「こ、の――!」
そして、刃を噛み付く口を、思いっきり蹴りつけた。まるで、引っかかったものを引き抜くような態勢だった。僅かでもダメージが入ったのか、魔獣の口は万力の如き力を緩めた。その一瞬で、アルは剣を引き抜く。そのまま、反動を利用するようにアルは体を回すと、その勢いを以て、剣を振るう。狙うのは、口が作られていない、魔獣の腹。
だが、魔獣も防御は硬い。それを予期したのか、再びアルが剣を叩きつけようとした場所へ、無数の口が生まれ、瘴気を吐き出した。
(――こっちも、それは予想済みだ!)
随分と前のように感じる、今日の朝のこと。
アルは同じ手を使って、シィに敗れたばかりだ。フェイントに引っかかりやすいと、隙が大きいと、指摘されたばかりだ。
だから、アルもまた、その隙を利用する。
無理やりに足を外へ踏み出し、アルは瘴気を躱しつつ、その軌道を修正する。その副産物として、回転が小回りになる。つまり、剣速が上がったのだ。アルのフェイント、そして速さを増した剣撃に魔獣は反応が追い付かない。そして、アルの剣が前足の内側を切り裂いた。
魔獣の体が大きく揺れた。体の大部分を失いつつも、三本足で立ち続けたさすがの魔獣であったが、その一本が更なるダメージを受けたとなれば、立っていられるはずもなかった。前に体を押し出すように、崩れる。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!」
怒りと怨嗟の声が上がる。それに伴うかのように、魔獣の体の再生速度が増した。
地面に体がついたことで、泥を直接吸い上げることができるようになったことも大きかったのだろう。魔獣は泥を取り込むようにして、体の再構築を急いでいた。
それは同時に、半端な防御はアルに対して効果がないと察したのと同じだった。泥肌の至る所にできていた口は内側に溶け込むように姿を消した。
それをアルは好機と、剣を続けざまに叩き込もう――として、止まった。
(違う。同じことだ。隙を突こうとするときが一番、隙が大きくなる)
直感、というよりは記憶の反復。
常日頃から鍛錬を続け、学び続けようとしていたアルだからこそ、気づけたことであった。
振り下ろそうとした剣を、アルは途中で止めた。その瞬間、剣が大きな音を立てた。手に伝わってくる、強い衝撃。アルは反射的に飛び退いた。そして、遅れて魔獣が隙を狙い、反撃を仕掛けてきたのだと理解した。
「そんなの、ありかよ……」
再生を急ごうとする魔獣をアルは見やり、愚痴めいた言葉をこぼした。
泥を吸い上げ自らの新しい体としつつある魔獣に、もう獣然とした姿はなかった。もはや生物的な見た目ですらなかった。失われた前足の代わりに、泥を吸い上げるその胴体から直接、新たな腕が生えていたのだ。その腕は飛びすさったアルへ向いていた。近づくようなら、容赦なくその腕を以てして排除せん、とばかりに。
「でも――――!」
だが、アルは退かない。
もしかするなら、迎撃――つまり、待ちの態勢に入った魔獣からは、今が最も逃げる好機だったのかもしれない。だが、アルは敢えて攻めることを選択する。
手応えは十分にある。
過大評価はない。慢心もない。何より、振り返ればアル自身が驚くほどに、体が動き、頭も冴えている。学んだこと。培ってきたこと。それを発揮できている。
あれほどに恐れていて、今もなお決して抜けることない恐怖を抱いていても、戦うことができている。なら、このまま退く理由はない。
「うおおおおおおおおおおぉぉッ!」
アルは躊躇なく、魔獣の間合いへと踏み込む。そこへ、当然のように新たな腕によって迎撃の攻撃が放たれる。
最初はひとつ。
次に、同時に二つ。
連続して、魔獣の醜い腕が襲い来る。
「こ、の――――!」
だが、アルはそれを躱していた。
そして、潜り抜けると、アルは剣を同じように打ち込んだ。そして、再び魔獣の攻撃を何度か躱しては、剣を叩き込む。それを、アルは繰り返していく。
「分かりやすい、んだよ!」
アルは叫んだ。シィの言葉を借りれば、まさしく魔獣の攻撃はそれだった。
あくまでも魔獣は迎撃に注力している。それ故に、アルの行動に対して、受動的に動くのだ。ならば、先ほどまでと動きは変わらない。敢えて隙を見せるように動き、そこを敢えて攻撃させる。そうすれば、避けるのも不可能ではない。
ただ、あくまでも不可能ではない、という話に過ぎない。魔獣の攻撃は単純に早い。それでいて、間合いの内側に入ってしまってからは、死角から飛んでくることすらある。それを躱そうと思うのであれば、ほとんど勘で避けるしかない。成功したのはほとんど偶然でしかなく、足を踏み外せば死という地獄へと真っ逆さまの綱渡り状態であるのは、間違いなかった。
「は、あ――――! この、お――――!」
それでも。
アルがその綱渡りを継続できていたのは、決して全てが偶然によるものではなかった。
アルは元来臆病だ。それは、死の匂いに敏感であったからだ。死を深く感じ取ることができたからだ。
この刹那の攻防においても、同じだった。アルは、自らに漂う死の気配を、敏感に感じ取っていた。強く感じ取ったそれを避けるよう、アルは行動していたのだ。
それは決して概念的なものや、超感覚的なものではない。
簡単に言うなれば、アルは限りなく慎重に防御し、それでいて可能な限り攻撃を行っていた。無茶をしない。自分に可能な範囲を愚直なまでに守り続ける。教わったこと、学んだことの全てを発揮する。現在進行形で考え、学び続ける。たったそれだけのことなのだ。
もちろん、”
――ただ。
少年の愚直なまでの反復行為は、実を結びつつあった。
「たったそれだけのこと」が、アルを戦わせていた。
まさしく、英雄的なほどに。
◇
「アル……」
その少年の在り方に、ミュセルは言葉をこぼした。
魔獣の放っている瘴気や、周囲に残された瘴気のせいなのか、ミュセルはまだ体を構築することはできていなかった。それ故に、視覚情報としてアルを見ることはできていなかった。
それでも、今どうしているのか。“マナ・ボーテックス”を通じて繋がるアルのことは、感じ取れていた。話をすることができたのも、同じ理由だった。
彼がどのような状態なのか。
彼がどのように戦っているのか。
彼がどれほど戦えているのか。
それを、実際に見ることは能わずとも、ミュセルは余すところなく、知覚できていた。
「すごい……」
ミュセルがつぶやく。
予想もしていなかったことだった。
彼が、これほどに戦えるなんて、思ってもいなかった。
自分に頼るほどに、彼は戦うことが苦手なのだと、恐ろしいのだと思っていた。
でも、違った。
彼は、勇気をもって、戦っている。
もう、自分の言葉など届いていない。
「アル――きみは……」
ミュセルはつぶやき、意識を集中させる。
このままでは、いられない。一刻も早く、アルのもとへ行かなければ。
彼を見届けなければいけない。
あの、初めての友人のもとへ。
◇
「おおおおおおおぉ――――ォ!」
剣を振りぬきながら、アルは叫んでいた。
かつてない集中力を発揮するの中、アルの脳裏を過ぎるのは、守るべき人達のことだった。
シィ。シェンナ。母さん。町の人達。クロードさん。レインさん。グレアーさん。セレナさん。ミュセル。思いつく限り、誰でも。
今でも魔獣は恐ろしい。死は怖い。一つ間違えただけで、それは容赦なく襲いくる。
だけど、そうした守るべき人のために――守りたいと願う人のためにと思えば、アルは前に進めた。剣を振るえた。
この魔獣をそのままにしておけば、きっと少なくない被害が出る。それを今防げるのは、自分しかいない。今みんなを守れるのは、自分だけなのだ。
その気持ちが、責任感が、アルの背中を押していた。
「うあああああああッ!」
大きく振りぬいた剣が、魔獣の体を抉った。手応えはあった。
「ヴオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――――ッ!!!!」
怒りに魔獣が咆哮を上げた。併せて、体から瘴気を吹き出す。
しかし、退かない。
それも、学んだことだ。長時間の瘴気吸引や、肌への直接接触は大きな怪我となる。だが、瞬間的であれば耐えられないものではない。そして、ミュセルを打ち払ったマナを乱すほどの威力を持たない咆哮程度であれば、最早気にもならなかった。
アルは踏み込み、再び剣でその体を斬り裂いた。固い甲殻めいた肌が割れ、そこから泥があふれ出す。
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」
魔獣が声を上げた。それは、ほとんど悲鳴だった。
魔獣の体に作られた無数の傷。永久機関かとすら思われた、溢れる泥による修復も効いていない。魔獣の体は、崩壊の兆しを見せていた。
「おおおおおおおおおおおおおおおお!!」
それに対しても、アルの行動は変わらない。愚直に、必死に、魔獣が止まるまで、攻撃を仕掛けようとする。そこには、激しい気迫があった。
だから、魔獣は退いた。激しくも的確な攻撃と、気迫に押され、退くことを選択しようとした。未熟な体を動かし、距離を取ろうとした。
同じだった。
かつて、幼いアルがそうしたように、止まれないアルは、それに対しても容赦なく――本人にそのつもりはなくとも、追撃を行った。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
魔獣が啼く。
これまでと変わらない、ただの一撃でしかなかった。しかし、その一撃は魔獣に怯えを与えるのには、十分だった。
アルは、再度剣を掲げ、そこへと踏み込んだ。
――しかし。
まさにその時、であった。
「――――――え」
アルの視界に、一人の人物が映った。
ミュセル――ではなかった。それよりも、もっと見慣れた、ずっと隣にいた人物だった。
シィが、沢の横に広がる森から、姿を現していた。
「――――あ」
瞬間的に、集中力が乱れる。
シィがこの場に現れたから――だけではなかった。
何よりもそのシィの表情が、今までにない驚きと、悲哀に満ちたものであったからだった。
それは一瞬の隙であった。
この戦いにおいて、決して見せてはいけないものだった。
アルは――死を覚悟した。
「――――」
だが、それは訪れなかった。そして、すぐにアルは察した。
魔獣はシィに狙いを定めた。
非情にも、正しくそれは妙手だった。アルに焦りが生まれる。シィが現れたのは、ほとんど真横だった。いくら手負いの魔獣だとは言え、飛びかかられれば、アルはそれを防ぎようがない。シィもまた、変わらない表情で、こちらを呆然と見ているだけ。魔獣の攻撃を防げるとは、到底思えなかった。
だから――
「あ――――がああああああああっ!」
瞬間的な判断だった。正しいか正しくないか、それを考える余裕はなかった。防ぐには、こうする以外に方法はなかった。
アルは飛び掛かろうとした魔獣の進路を防ぐよう、前に体を投げ出すようにして、それを防いだのだ。それは、身代わりになることと同じだった。激しい体当たりを受け、アルは河原へと勢いよく転がった。
忘れていた痛みが一気に襲い掛かってくる。血が流れているのだろうか、幕がかかったように視界も急に狭くなっていた。
「あ――――が、ぁあ……――――」
息を絶え絶えに吐き出す。血も交じっているようだった。内臓か、骨がやられているようだった。
「アルっ! アル!」
狭い視界の中で、素早く駆け寄ってくるシィの姿が見えた。先ほどまでの表情と違い、そこには新たな、焦りのようなものが浮かんでいた。
(ああくそ……俺は、シィにそんな表情ばかり、させてる……)
心の内で自らに悪態を吐きながら、アルは痛みでほとんど麻痺しつつある体を無理矢理起こした。そこへ、シィがやってくる。アルは、それを見ると、倒れ込むようにして一緒に河原を転がった。
その瞬間、魔獣の腕が通り抜けた。
魔獣は完全に、原形はとどめていなかった。残っているのは後ろ足だけで、潰れた上半身から醜く新しい前足が生えている。頭に当たる部分は存在していない。ただ、その代わりのように、正面に目と口が借り物のように作られていた。最も近いのはカエルにも思えたが、それにしては、あまりにも醜すぎた。
魔獣はその歪な前足を伸ばし、転がった先のアルとシィを狙う。アルはそれも、シィと一緒に転がることで回避した。一度集中力が途切れたとはいえ、決して短くない時間を戦った相手である。どう狙ってくるのかは、予測できていた。
「う――――げほぉっ」
しかし、アルは血を含んだ咳を吐いた。河原の石が赤く塗られた。
転がり逃げるのは、決して体に優しい避け方ではない。況してや満身創痍のアルにとっては、それだけで酷い苦痛が与えられるものだった。
「アル……わたし、は」
シィが何かを言いかけた。
だが、それをアルは無視した。そして、シィと魔獣の射線を遮るように、体を移動させる。こちらへ狙いを定めた、狩られる側から狩る側へと回った魔獣に対峙するように、痛みを堪え、奥歯を噛み締め、薄れる意識を保とうとしながら、体を起こす。
それは、まるであの日の様だった。あの時と同じように、アルは背中にシィを隠す。
あの日守った女の子を――
あの日手に入れた宝物を――
何に変えてでも、守りたいと。そう示すように。
彼女を守れるような――英雄になりたいのだと願いながら。
「アル! もう、いいよ!」
背中から声がする。聞きなれた声だ。だけど、そこに滲んでいるのは、今までにない感情のようだった。
「もう……いいよ……。アル、逃げよう……」
切実な声だった。今でなければ、抱き寄せてしまいたくなるような、悲しい声だった。
体中に激痛は走り、視界も明滅している。感覚はほとんどない。思考すらぼんやりとしてきている。アルの意識は、ほとんど失われつつあった。
僅かにそれを繋ぎ止めているのは、背中のシィと、正面の魔獣。対極な二つの存在が、アルにやるべきことを、示している。
「……負け、られない」
手放せなかった剣を、震えながら掲げる。
死ぬのは怖い。大切な人を守れないでいるのは、もっと怖い。何もしないでそれを受け入れるのは、それよりも怖い。
最後まで、やり遂げないといけない。
何よりも自分自身の為に。
「――――ぇ」
声が漏れた。
狭まった視界の小さな世界に、シィが飛び込んできた。正面から、抱き着いてきたのだと、遅れて理解する。瞬間的にしか確認はできなかった。だが、その顔は珍しく泣いているようだった。
(泣かないで、くれよ。俺は、きみにそんな顔を、させたくないんだ)
出せなかった言葉の代わりに、アルは無意識に、その涙を拭わないといけないと、思った。剣を持たない左の手で、それを拭った。
「アル」
胸元で、シィが囁いた。それを切っ掛けとして、音が消えていく。時間が長く感じる。
ここで、終わるのだろうか。このまま魔獣に食われてしまうのだろうか。剣を突き付けているとはいえ、あの魔獣もこれ以上は長く待ってくれないだろう。
死にたくない。
シィを守りたい。
死にたくなんかない。
シィを守りたい。
守らないといけない。
英雄のように/英雄でないとしても。
自分にできることを、何をしてでも。
それだけが、刹那のような時間の中で、ひたすらに繰り返される。
「――大丈夫だよ」
だから、アルはつぶやいた。かつて、自分がそう言って、少女を落ち着かせたように。
「もう、いい。もういいよ」
シィはそれだけを返す。そして、強く抱きしめてくる。
アルは無意識にシィを包む込むように、剣を両手で持って掲げた。振り下ろすべき先――魔獣を見据える。
音が更に消えていく。視界が薄く、白に染まっていく。
光が満ちていく。
シィが叫んでいた。
ミュセルの声が聞こえた気がした。
魔獣は目の前に対して、再び咆哮を上げていた。
守る。
大切な人を守る。
そのために、戦う。
意識にあるのは、もうそれだけだった。
剣が振り下ろされた。
――そして、世界が完全に光で満たされた。
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