5 キャンバスと乙女

いくつもの駅が通り過ぎ、ついに私たちは目的地に着いた。私は絵の構成を考え、乙女は車窓からの景色を楽しんでいた。隣にいると妙に安らぎがあるなと、私は道中思っていた。

はなまる公園までは徒歩十分といささか遠かった。人気のない静かな公園で、セミの鳴き声がやけに大きく聞こえた。サッカーはできても野球はできないであろうやや狭い広場を抜けると、公園と呼ぶのに必要最低限の遊具のみを設置している場所がある。私はよくここで遊んでいた懐かしい記憶を思い出しながら、その相手が誰か思い出せず、もどかしい思いをした。

彼女はにこにこと笑いながら、私の隣をついて歩いていた。まるで小さな子供のように、ただにこにこと笑っていた。不意に走り出すと、ブランコの上に乗った。彼女はのそのそと動く私をブランコに誘った。しばらくこいでいると、彼女は「ここにししましょう。」と言った。私は彼女の屈託のない笑顔につられて笑うと、ブランコから飛び降りて、隣に寝かせていたキャンバスを、彼女の目の前に置いた。そして、スマホで写真をとり画角はこれでよいかと尋ねると、彼女はうなずいた。私は深呼吸をすると、絵を描き始めた。思えばなぜこんなに乗り気になっているのか、私にはわからなかった。乙女の魅力も大いにあるだろうが、それだけでは言い表せない得体のしれない何かが、私を突き動かしてるみたいだった。私は薄く下書き用の線を描いた、描けば描くほど、私の中で何かが揺れていた。飲み込んでしまったスーパーボールが胃の中で跳ねてるみたいだった。

彼女はブランコの鎖をつかみ真っ直ぐに前を見つめていた。その決心にも似た瞳を描くと、一気に絵に命が吹き込まれたようだった。しかし、彼女は人形のようにぴったりと静止していた、汗一つかかずに涼しい顔で、彼女は自然に溶け込んでいた。以前も描いたことがあるような気さえした。

下書きは一時間ほどで完成した、我ながら力作だ。彼女にそれを見せると、恍惚と笑った。私はそのままの勢いで着色にとりかかった。彼女好みの、淡くて力強い着色。

人のために絵を描いたのはいつぶりだろうか。私はふと、そんなことを考えた。しかし、思い出せなかった。私は微かに震えていた。肉眼では確認できないほど、わずかに震えていた、理由はわからなかった。頭よりも先に、体が察知したようなそんな感じがした。私は、誰かのために絵を描くなんて、未だに信じられないでいた。


日が傾き、夕方になった。私は、いったん切り上げることにした。景色が変わってしまったのと、体力的にきつかったので、残りは家で描き上げることにした。手直しをすれば完成だ。我ながらここまでの完成度をこの短時間で八割描き上げてしまったのには、悪魔の力を借りたのかと思うほどに驚いた。

私たちは、公園を出て歩き始めた。

「たのしかったです。」

彼女は絵のモデルとなり、人形のように座っていただけなのに、それでも笑ってそういった。夕日に照らされたその笑顔は、泣きたくなるくらい切なかった。

「そうか…、よかった。」

相変わらず、芸術家に似合わない返答だ。

「次は明日、私の家でですか?」

「そうだな、次に会うのはそうなるかな。13時くらいでいい?」

「はい、大丈夫です。」

そんな会話をしていると、いつの間にか駅に着いた。辺りはもう暗くなっていた。駅にも人はいなかった。電車に乗ると疲れたからか、寝入ってしまった。


次に目を覚ましたのは、家の最寄り駅に着いた時だ。私は彼女の小さな手にひかれて電車を降りた。

「よく寝たー。」

「もう、寝すぎですよ、揺すっても全然起きないんですから。」

彼女はリスのように頬を膨らませた。

それから駅を出て、それとなく会話をしながら、分かれ道にさしかかった。

「じゃ、俺こっちだから、また明日。」

「はい、また。」

彼女は少し残念そうににこりと笑った。

少し歩いたところで、後ろからなにか小さいものに包まれた。ふ

と、目線を落とすと腕があり、私は振り返ろうとしたが、そのままでという激しく優しい声に静止させられた。私はその通りにした。

「すいません。なんだか、会うのは今日で最後な気がしたから。」

弱弱しく細く震えた声は、棒菓子のように、すぐにでも折れそうだった。

「大丈夫だよ。僕たちはいつでも会えるさ。少なくともこの絵を渡すまでは君に会わなけねばならない理由があるしね。」

私は、彼女の手をゆっくりと剥がし、不器用ながらも、なるべく芯のある声で彼女を諭すようにいった。彼女は、暗くてよくわからなかったが微かに泣いていた。僕はハンカチでその雫をぬぐうと、彼女を抱きしめた。心臓の音がやかましかったが、そんなことには構わないことにした。目の前で乙女が泣いているのだから。紳士らしく涙を止めなければならないのだ。

柔らかな時間が私たちを包み込んで、いつまでも離さなかった。

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