冴えないサラリーマンですが、黒髪の女子高生と同棲して救われてもいいですか?

金田々々

第一部

プロローグ


 ──俺にとってこの世界は地獄だ。


 朝起きて満員電車に揺られながら会社にたどり着き、必死になりながら働き、ため息をつきながら帰宅し、泥のように眠る。


 そんな日々を、何年も繰り返している。


 変り映えのない毎日。まるでゲームのNPCのように同じ時間に同じ行動を繰り返すだけ。変わることといえば季節感と、老いていく肉体と、人間味を失っていく感情だけ。


 若い頃にあった情熱は既に無く─────。


 年々重くなる仕事の責任と内容の重圧と不相応な期待に、心は擦り切れ────。


 喜ぶことも、怒ることも、哀しむことも、楽しむこともなくなった抜け殻のような人の形を模したモノだけが、ここに居る。


 それだというのに僅かに残った人としての感情が今日も悲鳴を上げる。


 苦しい、と。


 助けてほしい、と────。


 だが いい歳をしたおっさんが そんな事を口にしてもどうにかなるはずもない。


 誰も助けてなんてくれやしない。そんな事今まで生きてきて嫌というほど実感している。もし助かりたいのならば今の状況を打破する行動を起こすべきであるし、嘆いていても始まらないことも知っている。


 しかしそれを行う気力はもう俺には残されていなかった。


 ただただ、仕事をこなすのが精一杯で、毎日を生きるのに必死だった。


 何か行動を起こすには、あまりにも俺は疲れ果てていた。 



◆  ◆  ◆



 電車の吊り輪にもたれかかるようにして体重を預けながら、夜闇に染まった車窓に目を向ける。闇色に染まった車窓には虚ろな目をした自分が写っている。少しこけた頬。半端に伸びた不揃いな無精髭。電車の窓からではわかりづらいが、白髪だって目立ってきた。


 一言で言ってしまえば、人生に疲れたサラリーマンがそこには居た。


 周りを見渡せば似たような人がちらほらと見える。口を開けて眠る俺より年上であろうスーツ姿のおっさん。俺と似たような虚ろな目でゲームをしている同年代の作業着を着たままの男。電車のドアにもたれかかっている、アラサーと思わしきの女性。いずれも身にまとう雰囲気は似たようなもので、疲労の濃さがうかがい知れた。そしてその疲労は決して仕事の疲れから来るものだけではないだろう。


 車窓に顔を戻しながら俺は深く息を吐く。同時に車内アナウンスが到着駅に着いたことを告げた。


 人の流れに乗りながら電車を降り、改札を抜け、ホームを出る。夜もそれなりに遅い時間だというのに、東京からのベッドタウンであるここはそれなりに行き交う人が多い。


 ふと、駅のベンチで眠るホームレスの姿が視界に入った。ボロボロのジャンバーに伸び放題の髭のその姿はおそらく都市部なら大して珍しくもない姿だ。


 しかめっ面で眠る姿を横目に、俺はその横を通り過ぎる。


 駅前のコンビニで晩飯を買って帰路につく。


 快速が通るせいかやたら勢いよく電車が通り過ぎる踏切を超え、車が通るには幾分狭い住宅街に入って、いくつかの曲がり角を曲がる。


 そうして見えてきたのは二階建てのアパートだ。


 階段を上って二階に上がり、一番奥の部屋にようやくたどり着く。


 今日もなんだか長い一日だったとため息をつきながら、鍵を開け玄関のドアを開ける。


 薄暗い闇が俺を出迎えてくれた。


 靴を脱ぎ、キッチンを通り抜け、部屋に入りながら、すっかり場所を覚えてしまった室内灯のスイッチを入れる。


 そうしてシーリングライトの灯に浮かび上がるのは八畳の広くもない空間だ。くしゃくしゃの布団とシーツのベッドに、空き缶やペットボトルが占拠したこたつテーブル、もう何年も着るものが変わっていないハンガーラック、土日ぐらいしか付けることのない利用度の低いくせに少し大型なテレビ、積みあがった読むこともなくなった本、通販の段ボール……。いつかちゃんと掃除をしようと思ったまま、少なくとも半年は手が付いていない散らかった部屋が俺の家だ。


 ハンガーラックに脱いだスーツをひっかけ、部屋着に着替える。


 ベッドを背もたれにしてyou〇ubeで動画を流しながらコンビニから買ってきたおにぎりをエナジードリンクで胃袋に流し込む。


 動画が終わった頃合いでピンチハンガーに干したままのパンツとタオルを取って浴室に向かう。シャワーを出しながら服を脱ぎ、下着だけを洗濯機の中に放り込む。そうして浴室に入れば丁度シャワーは冷水からお湯に切り替わった所だった。


 少し熱めのお湯を頭から浴び、凝り固まった肩をほぐす。気休めぐらいの効果しかないがやらないよりはマシだ。


 さっと頭をと体を洗い、浴室から出る。ざっくばらんに頭をタオルで拭いて、同じように体の水滴を取る。 部屋着に袖を通して、一つ息をつきながら部屋に戻る。


 俺は倒れこむようにベッドに身を投げ出した。


 枕に顔をうずめながら深く、深く息を吐きだす。体に蓄積した疲労感を抜き出すように息を漏らすが、そんなことでは消えやしない。


 朝起きて、仕事に行き、気力を削がれて帰宅し、眠る。


 それだけの毎日。


 それしかない日々。


 体が睡魔を覚え俺はそれに身をゆだねる。


 電気を消していないが、まあいいかと思う。


 ふと、眠りに落ちる思考の中で先ほど見たホームレスの姿を思い出した。どうしてもその姿を気にしてしまう自分がいる。


 あれは、未来の自分の姿だろう──。


 遠い未来なのか、はたまた間近に迫っているのか……今の俺にはわからないが、このままではいずれ辿る未来だと半ば確信にも似た思いがある。


 何時からだろうか……先が見えたと思うようになったのは。


 親が当たり前のように行ってきた、妻子を持ちのごく普通な家庭がどれだけ幸せなものであったのか。


 恐らく俺はそんな幸せを手にすることは無いだろう。


 この先に待つのは独りで誰の記憶にも残らず惨めに死んでいく未来だけだ。


 どうにかしなければならないという僅かな焦りは、体に溜まった疲労感と、最早どうしようもないと言う淡い絶望と、睡魔に塗りつぶされ消えていく。


 ただ、ただ疲れた。


 もう眠い。


 何の答えも見出せぬまま、俺の意識は闇に落ちていった。





 次の日も、いつもと変わらぬ朝を迎え、いつもと同じように会社に向かい、己の無能さに打ちひしがれながらもなんとか業務をこなし、昨日と同じような時間に電車に乗って帰路についた。

 

 踏切の警告音が耳を通り過ぎる。街頭に照らされる夜闇の中、赤い光が視界の端で一定のリズムで点滅し、自己主張している。


 俺は遮断桿の前で電車が通り過ぎるのを待っていた。周りには会社帰りのサラリーマンに、紺色のブレザー姿の女子高生、自転車に子供を乗せた買い物帰りのおばちゃんが俺と同じように踏切が開くのを待っている。


 そんな中、俺は何度目かのため息をつく。


 時計を見れば夜の九時を過ぎていた。大して遅くもなければ早くもない、ブラック企業に比べれば全然マシな帰社時間。それでも俺は徒労感に満ちた息をつく。そうしながら思うのは仕事の事だ。今日も単純なミスで人に迷惑をかけてしまった。上司のどこか諦めるような顔を思い出し、それを振り払うように頭を振る。明日の仕事は自分のミスのリカバリからだ。


 明日。明日も仕事。


 また何かミスをするんじゃないか。うまくやれるだろうか。人に迷惑をかけないだろうかと不安になる。


 入社して十年以上たってもこの体たらくか。


 自分の無能さに俺は幾度目かのため息をつく。


「おい、君! 危ないじゃないか!」


 突然の声に俺はのろりとその方向を見る。電車のライトが俺の視界に写り、ようやく電車が訪れたことに気づく。


 視線の先にはサラリーマンと思わしきスーツ姿の初老の男性が女子高生の肩を掴んでいた。女子高生は遮断桿の間近まで迫っており、さらにその先に踏み込もうと一歩足が前に出ていた。


「す、すみません……」


 少女はか細い声で男性に謝り、踏み出した足を戻す。自殺でも狙ったのだろうか。


 勘弁してほしい。こちらは明日の仕事の事で一杯一杯だというのに、死体なんて拝みたくない。死ぬのであれば俺の居ないところで死んでほしい。


 少女の行動とは裏腹に、電車が轟音を立てて通っていく。それを追うように、顔を向けた少女の視線が俺とかち合う。少女のセミロングの黒髪が、電車の風圧に押されてさらりと流れた。


 街灯に照らされたその顔は青ざめていて、そして俺を見て驚いたような顔をしていた。


 気まずくなって視線を逸らす。


 いずれにせよ俺には関係のないことだ。


 踏み切りが開き、逃げるように俺はその場を後にする。


 家に帰れば昨日と全く同じ行動を繰り返してベッドに倒れこむ。


 睡魔に包まれる中、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。脳裏に先ほどの女子高生の姿が浮かび俺は顔をしかめる。


 気分よく眠れそうにはなかった。



◆  ◆  ◆



「申し訳ありません」


 力のない声だというのに静まり返った職場には嫌に響いて聞こえた。


「やっと終わった?」


 わざとらしいため息とともに彼の、上司の睨むような視線が突き刺さる。


「はい……今データ送りましたので見ていただければ……」


 上司が俺が送った資料のファイルを開きながら棘を持った言葉で独り言のように言う。


「時間かけすぎなんだよこれぐらいの資料で……」


 定時なぞとうに過ぎ、広い職場は俺と上司の一角しか明かりがない。整然と並べられたデスクには既に人の姿はない──みんな既に帰宅してしまった。


 無理もない。今日は定時日で余程のことがなければ定時で帰宅するよう会社の命令として定められている。そんな日だ。


「……──おい、ここ間違えてるんだけど!?」


「────え?」


 びくりと俺の肩が跳ねる。心臓が跳ね、嫌な汗が流れる。


「え? じゃねーよ! なんでこんなトコ間違えるわけ?」


 上司が画面上の資料を指さしながら俺を睨みつける。


「す、すみません! 今すぐ直します!」


「ああ? もういいよ」


「は……?」


 諦めに満ちた声に俺は茫然とした声しか出せない。


「後は俺が直しとくから、もう帰れ」


 資料に手を付け始めながら、上司は俺を見もせずに言う。


「で、ですけど、その資料今日中にお客様に提出する資料で──」


「だから!」


 視線なぞくれず、しかし怒りに満ちた声が俺に刺さる。


「お前に任せてるといつまで経っても終わらないんだよ! それに定時日に残業させすぎると俺が上に怒られるの。わかる?」


 お前のせいで迷惑を被るんだからな? と暗に言われている気がして、俺の心臓はまたも竦みを上げる。


「……わかりました。申し訳ございません」


 頭を下げ、俺は引き下がる。この上司との付き合い上、こうなってしまっては最早取り付く島もない。


「早く上がれよ」


「はい……」


 力のない返事をしながらパソコンの電源を落とし、大した荷物も入っていない鞄を持つ。


「すいません。お先に失礼します……」


「…………」


 頭を下げる俺に一瞥もくれず、上司はパソコンの資料との戦いを進めている。


 俺はその姿から視線を逸らし、俯きながら職場を後にした。





 ジャケットに袖を通しながら会社を出る。守衛の人の「お疲れ様でした」という声を背に夜道に足を踏み出す。


 ──ふと、空を見上げた。夜でも街の光で明るい東京の夜空に星は見えない。ぼんやりとした光を浴びた空は、やはりぼんやりとした闇が広がっていた。その闇はどこか自分に似ている気がした。


 視線を道に戻し、俺は歩き出す。


 駅までの道をとぼとぼと歩き、電車に乗る。吊り輪に体重を預けながら、電車の窓に映る自分の顔を見る。


 酷い面だと思った。


 昨日も一昨日も同じ面を見た。その前も、きっとそのずっと前から俺はこんな面をしていた。


 俺はいつから〈こう〉だったのだろう。


 昨日と同じように到着駅に着いたことを車内アナウンスが告げる。


 俺は暗い表情のまま電車を降り、人に溶け込むようにしてホームを出る。


 コンビニに目を向けるが、今日は食欲が湧かない。


 踏切まで進めば、警告音を立てて 遮断桿 が下りてくるところだった。視界の端に花束がいくつか添えられているのを、俺は無感情に見つめる。


 警告灯の点滅を顔に浴びながら昨日の女子高生を思い出す。ここに花があるということはとどのつまりそういうことなのだろう。昨日聞いた救急車の音は幻聴ではなく誰かがこの世とあの世の境目を飛び越えてしまったのだ。


 黄色と黒の遮断桿を見る。


 ここを越えたらどうなるのだろう。異世界にでも転生するのだろうか。それは嫌だなと思う。


 これ以上、生きながらえるのは──苦しむのは嫌だ。


 ────楽になりたい。


 思考が真っ白になる。視界がぼんやりとしていく。夢に落ちる一瞬、どっちが夢でどっちが現かわからないそんな状態に似ている。


「────ん……!」


 誰かの声が聞こえる。


 電車の光が視界の端に写った。


 もう───十分だろう。もう十分苦しんだ。


 あの光は俺を終わらせてくれる光だ。


 あの光に飛び込めば俺は───────。




「ね! おじさんっ!」


「!!?」




 ──誰かに腕を掴まれた。


 踏み出そうとした足は誰かの腕に阻まれ前に進むことは無かった。


 目を丸くして傍らを見れば、見慣れぬブレザー姿の黒髪の少女が俺の腕を掴んでいる。


 この娘は……昨日ここで自殺しようとしてた少女だ。


「死んだんじゃなかったのか……?」


 つい思ったことがポツリと口に出る。


 少女はきょとんとして俺を見ると、次の瞬間には噴出した。


「何それウケる! じゃ、今ここに居るあたしは幽霊だ」


 にこやかな笑顔を少女が向けるとともに、電車が通り過ぎる。昨日と同じように風圧で少女の少し長い髪が揺れた。違うのはその表情だ。死にそうに蒼白になっていた少女の姿はなく、年相応の笑顔がそこにはある。


「そんな幽霊さんからのお願いでっす!」


  警告灯が消え、遮断桿が上がる。


 少女は俺の顔を覗き込むように見上げ、


「暫くおじさんの所に泊めてくれない? お願い! 何でもするからっ!」




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<あとがき>

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