第9話 依頼

 ゲイランの売春宿を出た浩二は、寒々とした気分に襲われていた。初めて見たアイリーンの顔に、はっきりとサラの面影が読み取れたからだ。その顔はチャイニーズ系フィリピーナのようでもあった。それは日本人の血が混ざっている証であり、浩二はアイリーンが、自分の娘だという確信を深めた。

 その娘が、シンガポールの裏世界でさらし者になっている。自由を奪われ薄暗い一室で日々を送っているアイリーンの様子を、浩二は自分自身の目で確かめてきたのだ。

 大通りに出てもタクシーはつかまらず、浩二は宿泊ホテルのオーチャード方面に向かって歩いた。沿道の喫茶店やレストランはどこも、丁度開催されているワールドカップのサッカー観戦で、大型TVの前に人だかりができていた。サッカーに熱狂する人々の姿を見て、浩二は自分とアイリーンが、虐げられた別の世界にいるような気がした。気の滅入る浩二と盛り上がる人々の間に、見えないガラスの壁が存在している。

 道行くタクシーを見逃すまいと時折見掛けるタクシーに手を上げるけれど、どれも停まってくれない。シンガポールではどこでも、タクシーをつかまえるのが一苦労だ。デパートの前も、タクシー乗り場にはいつでも長蛇の列ができている。道端に立ち止まりタクシーを待つ方が楽でも、浩二は歩く足を止めることができなかった。何かをしていないと、気持ちが崩れてしまいそうなのだ。

 ホテルに戻っても同じだった。浩二は部屋でじっとする気になれずに、目的もなく表に出てふらついた。適当なバーに入り、遅くまで酒を飲んだ。それでも塞いだ気分は解消されなかった。

 寝たのが三時過ぎだったにも関わらず、浩二は翌朝六時に目覚めた。その日は、弁護士のサイモンを十時に訪ねる約束をしている。時間はたっぷりあっても、浩二は落ち着かなかった。

 朝食を適当に済ませ、八時過ぎにはホテルを出た。彼はシェントンウェイのサイモン弁護士事務所に、少しでも早く近付きたかったのだ。

 オーチャードのホテルからシェントンウェイまで、タクシーを使えば十分程度で到着する。距離にして約二キロだ。浩二は、その道を歩いてサイモンのオフィスへと向かった。

 道は分かり易い。事務所の周囲には、独特なデザインの高層ビルディングが乱立し目印となっている。彼の事務所はそんなシェントンウェイエリアの一角にある、古くて小さなビルディングの一室だった。

 浩二はサイモンに、その日の用件を伝えていなかった。おそらく彼は、自分の来訪をビジネス上の相談だと思っているだろう。まさか一人の少女を売春宿から救い出す依頼だなどとは、夢にも思っていないはずだ。

 サイモンは、浩二が初めてシンガポールでビジネスを展開した五年前からの付き合いとなる弁護士だった。歳は三十歳半ばと若く、しかも小柄で頼りなく見える人物でも、依頼したことはビジネスパートナーの人物調査や財務調査、契約関係、行政機関への届出など、全てにおいて的確なアドバイスと事務処理をこなしてくれる。眼鏡を掛けたサイモンは、中国系シンガポーリアンに多い神経質な印象を漂わせているけれど、本音を話せる仲になれば、気さくで付き合いやすい相手だった。そして実直な仕事振りが、信頼に値する人物だと浩二は評価している。

 サイモンが普段取り組む案件は、欧米や日本企業のビジネスに関連したものが多く、彼は行政関係に太いパイプを持っている。その点でも、彼が相談相手として適任だった。浩二はサイモンの事務所が入るビルディングに、九時前に到着した。約束の時間まで一時間、彼は近くのコーヒーショップで時間をつぶすことにした。

 浩二が久しぶりにサイモンの事務所を訪れると、室内はひんやりと冷房が利いていた。浩二の背中に汗で濡れたシャツが張り付き、冷たさを際立たせる。

 事務職員三人が、黙々とパソコンを相手に仕事をしていた。窓にカーテンはなく、明るい部屋には大きな観葉植物が一つ置かれている。古風で静かな部屋に、空調の風音とパソコンのキーを打つ音が事務的に響いていた。浩二を見た古参の女性事務員が、仕事の手を止め立ち上がった。

「久しぶりね、ミスター沢木。ボスがあなたを待っているわ。彼の部屋へどうぞ」

 彼女に案内され、浩二は丁度一年ぶりにサイモンの部屋へ通された。大部屋から一つドアを隔てた奥の部屋が、サイモンの専用部屋になっている。久しぶりの浩二に、サイモンは椅子から立ち上がり彼に歩み寄った。

「久しぶりです、沢木さん。ビジネスは順調ですか?」サイモンが握手の手を差し出す。

「久しぶり、元気そうだね。仕事はおかげでまあまあだ」

 浩二は挨拶を返し、サイモンと力強く握手を交わした。

 二人が小さなテーブルを挟み、向き合ってソファに腰を下ろすと、すぐに先ほど案内をしてくれた女性が冷たい飲み物を持ってきた。彼女が部屋から出るのを見計らい、浩二はいきなり本題を切り出す。

「サイモン、今回はビジネスの用件ではないんだ。実はプライベートな相談でここに来た」

 サイモンの顔に一瞬怪訝な表情が浮かんだ。浩二は構わず続ける。

「これから話をすることで、もしあなたが私を助けることができないなら、他の適任者を紹介して欲しい」

 静まり返る部屋の中で、浩二はこれまでの経緯をサイモンに説明した。相談内容が進むにつれ、サイモンの顔から笑みが消え、彼は時折冷たいお茶を口に運んでは相槌を打った。サイモンは口を挟むことなく、浩二の話を聞いた。いや、彼は途中で、余計な口を挟めなくなったのだ。

「とても深刻な話ですね。アイリーンを売り飛ばした組織が問題だ。おそらくそれは、アジアにまたがるマフィア組織の一つではないかと思います。それらの組織は、これまで何度も噂を聞いています。そこが絡むようだと少し厄介ですね。売春宿だけなら、おそらくお金で決着できるのですが」

 サイモンは眉間に皺を寄せてそう言った。難しい案件だと判断しているようだ。

「お金についてはできるだけ用意する。この問題に決着を付けてもらえるなら、自分のできることは何でもする。どうだろう、力になってもらえないだろうか」

「分かりました、沢木さん。あなたのお願いです。できるだけのことをしましょう。まずは事実関係を調査してみます。この手の話は表からのアプローチでは本当のことが見えないことがあります。まずは裏事情に詳しい連中から情報を拾って、詳細が見えてから作戦を考えます。ゲイランの売春宿は行政の管理下です。だから彼らは役人に弱い。そこは役人を絡めて話を持っていった方がいいかもしれません。あなたの娘さんのケースは明らかに違法な人身売買です。正攻法でいっても良いのですが、時間がかかる。マフィアの面子の問題も考慮しなければなりません。そうでなければ、彼らは必ず落とし前をつけようとします。シンガポールの役人は一般的に袖の下を受け取らないが、場合によってはそれも必要かもしれません。進め方は逐次相談をしながら決めて行きましょう」

「是非お願いする。とにかく娘をできるだけ早く安全にあそこから救い出してやりたい。方法は任せる」

「分かりました。この件は引き受けます。あなたの娘さんはこうして助けてくれる人がいて幸運だ。あそこでは他にも同じような境遇の子がたくさん働いているはずです。しかしほとんどが泣き寝入りです。彼女たち自身の力では、どうにもならない」

 サイモンは口を固く結び頭を左右に振った。

 浩二はサイモンの前に、着手金の入った封筒を差し出した。これまで独身を通した浩二にとって、実の娘を救い出すためなら多少の出費も痛くない。

「私はしばらくマンダリンホテルに滞在しています。できれば一週間で目処をつけて欲しい。急がせて悪いが、できるだけ早く解決したいんだ」

「分かりました。お気持ちはよく分かりますよ。今日の午後にでも早速動き出します。実費はこれがまるまる必要になるかもしれませんが」

 サイモンが、浩二の差し出した封筒を持ち上げる。

「構わない。不足なら追加を用意する。くれぐれもアイリーンの身の上に危険が及ばないよう、それだけは気を付けて欲しい。事前に売春宿の店主に話が漏れると、例の組織が動き出す可能性がある。もう一点、私がアイリーンの父親であることは、折を見て私自身から彼女に話をするつもりだ。そのことも彼女に伏せてくれ」

「十分気を付けます」

 別れ際、サイモンと握手を交わす浩二の手に力が入る。それはサイモンに希望を託す、浩二の深く切ない思いの表れであった。

 サイモンのオフィスを出た浩二は、まだ落ち着かなかった。娘のアイリーンに会ってしまったことが、彼の心から平常心を奪ってしまったようだ。娘の存在、彼女の置かれる状況、それらを自分の目で確かめたことが、彼を大きく揺さぶっている。

 浩二は前日会ったばかりのアイリーンに、再び会いたくなった。昨日はあまりにいたたまれなくなり、彼女の部屋を早々に切り上げてしまった。しかしサイモンへの依頼が一段落すると、もう一度彼女と、じっくり話をしたくなったのだ。アイリーンが平穏な時間を過ごしている事実だけが、今の浩二を落ち着かせる。その時間を与えられるのは、自分だけだと確信していた。金さえ払えばそれができる。しかし彼女の前で、自分が平静を装うことができるだろうか。彼はその自信を持てず、やりどころのない気持ちを持て余した。

 他にもすべきことがあった。シンガポールに来ることをフィリピンにいるサラにも話していたから、彼女に経過を報告しなければならない。アイリーンを助け出した後、どうするかについて考える必要もある。しかし今の浩二は、普段の社長業をしている彼とは別人のように、どれをどの順番で片付けていいのか分からなくなくなるほど混迷していた。今回の件は、それほど浩二を動揺させている。

 サラと別れた後の二十年、浩二は彼女と別の世界で懸命に生きてきた。サラのことを忘れたわけではなくても、浩二の中で彼女はとうに別の世界を持つはずの人だった。それは彼女も、きっと幸せに暮らしているだろう、いや、是非そうであって欲しいと願っていたということだ。

 しかし彼女は、浩二の分身と信じた娘を必死に育て、浩二の影を常に身近に感じながら二十年を過ごしてきたのだ。自分の二十年の軌跡とサラの気持ちの大きなギャップに思い当たった時、浩二の中には罪悪感と自責の念が絡み合ってとぐろを巻いた。

 浩二はサラにどこから償い、どのように二人の関係を修復すべきか見当がつかなかった。いや、そもそも修復できるかどうか、それも分からないのだ。よく考えると、修復すべき何かがあるのか、それすら分からなくなってくる。サラが抱き続けた感情は、自分の想像とはまるで違うものかもしれないのだ。

 そして血を分けた娘が、車で三十分足らずのいかがわしい場所で働かされている。この複雑な事実と状況が、ビジネスの世界に二十年も埋没していた浩二を揺さぶっている。混乱するなという方が無理だった。今の気持ちに正直に応えるなら、浩二はすぐにでもアイリーンに会いたい。そう思うと彼は、目の前を走るタクシーに衝動的に手を上げていた。

 通常であれば止まらないタクシーが、その時は停車した。彼はタクシーに乗り込み、ドライバーにゲイラン十八ストリートと告げた。

 売春宿に入ると、前日受付けに立っていたヤンが仲間とカードをやりながら、浩二を見てニヤリと笑った。ヤンは浩二を覚えているようだ。

 金魚鉢には、女の子が一人もいなかった。昼と夜が逆転する世界だ。早い時間に開店しているわけがない。浩二はそれに考えが及ばなかったことを、その場で気付いた。おそらくアイリーンも寝ているだろうと思った時に、ヤンがカードを続けながら言った。

「ウライかい? 彼女だったらもう起きているよ。営業時間外だけれど、遊んでいく?」

「もし彼女が起きているなら、少し会いたいな」

「手数料が必要だけど」

 ヤンが卑しい目つきになる。浩二は財布から札を一枚抜いて、彼に渡した。

「ちょっと待ってな」

 金を受け取り満足するヤンが、店の奥に消えた。そして一分足らずで戻るなり、愛想笑いを浮かべ「何分?」と言った。浩二がそれに答えず財布からもう一枚の札を抜いた時、Tシャツにジャージ姿のアイリーンが現れた。

 浩二はヤンに訊いた。

「もし彼女が良ければ、一緒にランチをしたいんだが、それを許してもらえないだろうか?」

「本当は外で会うのは禁止だけど、特別にお願いするんだったら見なかったことにするよ」

 そう言ってヤンは、浩二が手に持つ百シンガポール札をつまみ上げ、ヘラヘラと笑う。

 浩二はアイリーンに訊いた。

「君はそれでもいいかな?」

「たまには外に出るのもいいわね。ちょっと待って、着替えてくるから」

 アイリーンはジャージをジーンズにはき替え、すぐに戻った。

 Tシャツにジーンズ姿で化粧のない彼女は、普通のどこにでもいるあどけない女の子だった。その姿は、いかがわしい世界で仕事をしているようには決して見えない。

 外に出る際、ヤンはアイリーンに携帯を渡し、一時間毎に電話をするように言った。

 通りに出ると、彼女は強い日差しに怯んで顔をしかめ、目の上に手をかざしながら歩き出す。

「少しの外出でも厳しいね。携帯電話はいつものことなの?」

「お客と外に出るのは初めてよ。外へ誘うお客もいないし、もし誘われても断るわ。でも外出するときはいつも携帯を持たされる。逃げられたら大変だから。私が電話しなくても、きっと彼から電話がかかってくるわよ」

 彼女は電話連絡の事など鼻にもかけない。

「客との外出はお断りなのに、なぜ僕の誘いを了承したの?」

「さあ、たまたま外に出てみたくなっただけよ」

「ところで、どこで食べたらいいのか知らずに誘ってしまったんだ。ホテルのレストランでいいかな?」

「この辺りに気の利いたホテルはないわよ。それより小さなレストランならゲイランロード沿いにいくつかあるわ。少し歩くと大きな公園もあるわよ」

 二人は車が行き交うゲイランロードを、肩を並べて歩いた。街路樹が植えられた広い歩道は、車が多いにも関わらず、散歩道としての体裁を整えている。浩二は周囲の景色を眺める振りをして、時折アイリーンの横顔を盗み見た。彼女が自分の娘という事実は、彼の胸中に不思議な感覚を生み出している。そして何よりも、彼女が自分の手の内にあることに、浩二は安心していた。浩二はいっそこのまま彼女を連れて、シンガポールの外へ逃がしてやりたい衝動に駆られる。

 浩二は道から少し奥まったところに、小さな喫茶店を見つけた。店の前にテーブルが並び、その上を覆う木々の葉が強い日差しを遮っている。

「ここはどうかな? 簡単な食事くらいはできそうじゃない? 木陰で外の空気を吸いながら、ゆっくり食事をしたい」

 二人がテーブルにつくと、すぐに店員が水の入ったボトルとグラスを持ってきた。アイリーンはコーラとハンバーガー、浩二はコーヒーとサンドイッチを注文する。外のテーブルにつく客は、浩二とアイリーンの二人だけだった。店の中には数組のカップルらしい客がいる。

 屋外テーブル席は騒がしい音楽もなく落ち着いて、浩二の気持ちを楽にした。

「日本にはこんなふうにリラックスできる店は少ないんだ。この国やヨーロッパには、自然の中に溶け込んだ、ゆったりと過ごせる店がたくさんあるけれどね」

 アイリーンはそんな浩二の言葉を無視して、「本当にまた来たのね」と静かに言った。そう言われて浩二は、「そうだね」と返す。

 アイリーンはいつでも淡々としている。感情というものを、どこかに置き忘れてきたような話し方や態度だ。しかし浩二はこれまで、普段は愛想が良く、いざとなれば途端に手の平を返す人間を散々見てきた。逆に歯に衣着せぬ物言いで愛想のかけらもない人間が、実は信じるべき人間だったという経験も数多くしている。相手を観察しその本質を見抜く力を備えた浩二のアンテナには、アイリーンが後者に映っていた。それが親子の絆が成す技なのか浩二には分からないけれど、少なくとも彼女と一緒にいると、浩二の心は安らぐ。

 それはアイリーンも同じだった。一度しか会ったことのない客に自分のプライベートな時間を割くことは、今までの自分では考えられない。それほど浩二の態度や言葉は、アイリーンの心に何かを残した。なぜ彼が自分をそんな気持ちにさせるのか、アイリーンは不思議でならなかった。彼女は無意識に、その理由を知りたくなっていた。

「今日は来るつもりがなかったけれど、突然君に会いたくなった」

 浩二は照れ隠しで頭をかきながら、正直な気持ちをそのまま言葉にした。

「なぜ?」

「なぜ? うーん、それは僕にも分からない。ただ……」一呼吸おいて、浩二は「君と一緒にいると気持ちが安らぐ」と素直に言った。

「自分で理由が分からないの?」

「分からないな。人は意外と、自分のことが分からないものなんだよ」

「あなたは私を好きになったんじゃないの?」アイリーンは、彼女には珍しく愛嬌のある笑顔を浩二に向けた。「人は誰かを心から好きになると、その理由が分からないらしいの。可愛いとか優しいとか頭がいいとか、指折り好きな理由を並べているうちは本物じゃないんだって」

 いたずらっぽい言い方が、サラに似ていると浩二は思った。そこに頼んでいたドリンクが運ばれる。

「その話しは興味深いけれど、僕のそれは少し違う」

「嘘でもそうだと言えばいいじゃない。あなた、女性にもてないでしょう」

「そうだね。だから今でも独身なんだな」

「あなたは独身なの? 今まで一度も結婚したことないの?」

「そうだよ。残念なことに、今まで女性に縁がなくてね」

「恋人もいないの?」

「いないよ。若い頃にフィリピン人の恋人ができて、そこで運を使い果たしたみたいだ」

「おかしいな、あなたは優しい人だと思うけど。なぜ恋人ができないの?」

「ずっと仕事だけを考えて生きてきたから。僕は会社の責任者として必死だったんだ」

「それって幸せな人生と言えるのかなあ。家族がいなくて寂しくないの?」

 そう言ってからアイリーンは、「ごめんなさい。余計なことでした」と肩をすくめて舌を出す。

 ウエイトレスが、オーダーしたハンバーガーとサンドイッチをテーブルに運んできた。ハンバーガーは、大皿に丁度収まるくらいの大判サイズだった。浩二はアイリーンに食事を促し、言葉を続けた。

「確かに君の言う通りかもしれない。一生懸命働いているうちは余計なことを考えないけれど、一息ついてみると、自分が何のために働いて何のために生きているのか分からなくなる。実際に、今の自分がそうなんだ」

「歳をとらなくても、それを考えることはあるわよ。私もそうだから」

 アイリーンは背筋をぴんと伸ばして、まっすぐ浩二を見ながら言った。

「君の言いたいことは分かる。でも君はまだ若い。これからいくらでも人生を変えることはできる」

 その言葉に、アイリーンは表情を硬くした。

「人にはどうしようもないこともあるの。今の私がそう。あなたにはそれが分かっているはずよ」

 浩二はどう言えばよいか分からなかった。もうすぐ君をあの暗い世界から救い出してやると言って、アイリーンを勇気付けたい。しかし、まだ彼女にそれを告げるわけにはいかないのだ。余計な希望を持たせ、もしそれが失敗に終われば、その失望は彼女を奈落の底へ突き落とすことになる。そのことは、もっと確信を持ってから彼女に伝えたかった。

 浩二はアイリーンの目を見据え、息を整えて話しを始めた。

「君は分からないかもしれないが、どんなにお金や地位のある人でも若さだけは手に入れることができない。みんな若さということに羨望の念を抱いている。若いことはそれだけ大きな可能性を持っているからだ。出会いや恋愛や仕事において、これから生きる長さの分だけ可能性を秘めている。本当に色々なことが君を待っているんだよ。でも、楽しいことばかりではない。失敗や挫折を繰り返し、苦しいこともたくさんある。それは今の君のようにだ。しかしそれを乗り越えたときに、一皮向けた自分を見つけることができる。少し頭が良くなり心が強くなる。そして次のステップを踏み出せる。それがうまく繋がり出せば、人生が充実するんだ。最良の結果が出なくても、一生懸命がんばれば何かが自然と積み上がる。しかし心が折れてしまったら、そこで歩みは止まる。みすみす将来手に入るかもしれない幸せを、そこで取り逃がすことになる。人生とはそんなものだと思う。しかし僕もそうだったけれど、若い時にはそれが中々分からないんだ」

 浩二は我が子に語りかけていた。

「でも今の私はどうすればいいのか分からない。頼れる人はいないし、誰にも相談できないの」

 アイリーンは少しむきになっていた。彼女の口調に初めて感情がこもったことを、浩二は少し嬉しく思った。

「そうだね。君には少しハンディがあるようだ。普通は親が子供を導く過程で助け舟を出すことがある。支えてくれる友だちもいる。しかし今の君にはそれがない。そして今の君は、身動きできない状況にある。それは理解できるよ。でも相談する人なら、目の前にいると思うけど」

 アイリーンは、目を見開いた。

「あなたのこと?」

「そう、現実に今僕は、こうして君の人生に関わる話をしている。僕が冗談で適当な話をしているように聞こえるかい? これは興味本位でもなければ何かを企てているわけでもない。それを信じるかどうかは君次第だ。しかし僕は、至って真面目に話している。君のためになればと思って。君は、少しは僕のそんな気持ちを理解してくれているんじゃないかと信じているんだけど。だから君は今、ここにいるんじゃないのかな?」

「それは……」

 アイリーンは言葉に詰まった。彼女は浩二に対して、ずっと不思議な印象を抱いている。昨日初めて話をした時に、彼女は彼の暖かさを感じたのだ。それに加えて、彼は明確なメッセージを投げてきた。浩二自身が言うように、それが冗談や興味本位には聞こえない。彼には不思議な親近感を感じてしまう。

 アイリーンを惑わしているものは、その親近感が、男と女の恋愛感情とは別のところから発せられていることだった。もしお互いにそんな気持ちが見え隠れすれば、それはアイリーンにも分かり易い。しかし浩二とのやり取りは、もっと大人の、真剣で落ち着いたものだ。そのような他人とのコミュニケーションは、アイリーンにとって初めての体験だった。

 アイリーンは自分の気持ちに、再び戸惑いを感じ始めた。

「あなたはどうして私に親切にするの?」

 アイリーンは、彼に心を開きたいと思っている。彼のことを信じたいのだ。

「僕はただ、あなたと話をしているだけだ。それくらいは簡単なことだよ。大したことはない。もし君がそれを親切だと感じてくれるなら、それは有り難いことだけれどね。いいかい、僕が君を元気付けたいと思っているのは確かだけれど、一番大変なのは君自身だ。もしこれから立ち直るとしても、過去を振り切って一歩ずつ前に進むのは君だ。それを励ますくらい、君の大変さに比べたら小さなことだ」

 浩二は自分の言葉に歯切れの悪さを感じる。しかし今はまだ、本当のことを言えない。

「あなたの態度は親切よ。私はこれまで、あなたのような人に会ったことはないの。だから正直に言うと、私は今戸惑っている。私は自分を殺すことで今の生活に耐えているの。夢や希望を持ったら、とてもあの生活に耐えられない。全てを捨てたからあそこで生きていける。でもあなたは、私が閉じ込めた自分の希望や夢を取り戻せと言っている。それは私にとって、とても勇気がいることよ。それでもあなたは、私にもう一度夢を見ろと言うの? 私の夢は小さいのよ。フィリピンに帰って家族と一緒に普通の暮らしをすること。ここに比べたら、バーで働くことだって普通の生活よ。私の願いはそれだけなの。でもそれすらかなわない今の状況で、希望を持つということは本当に勇気がいるのよ。夢を持った途端にさよならされたら、私はどうしたらいいか分からなくなる。それでどうやって、私はあなたの言葉を信じればいいの?」

 アイリーンは浩二に、自分を支えて欲しいと言いたかった。彼女に必要なものは、支えなのだ。

 浩二も、アイリーンの言いたいことを手に取るように理解していた。そして彼女が自分を信じて頼ることこそ、浩二の望むことだった。

「信じていい。僕が君に何をしてあげられるかは分からないけれど、少なくとも君の望みが叶うまで、僕は君のそばにいる」

 その言葉がアイリーンの心に沁み通る。

「ありがとう。特にあなたにして欲しいことはないの。ただ、時々こうして励ましてくれるだけでいい。お願いしたいのはそれだけ。私分かったわ。苦しいことを話せる人がいるだけで、気持ちが救われる。少し心が軽くなる」

 自然な笑みが浮かんだアイリーンの顔に、優しさが蘇った。

「そう言ってもらえると、僕は君と話をした甲斐があるよ」

 浩二の顔も自然と和らぎ、目じりに小じわが寄った。

 アイリーンはその時、浩二の目に、優しさが宿っていることに再び気付いた。

 彼女はその目に、彼を信じる気になったのだ。

「前にママが教えてくれたの。人の目を見ると相手のことが分かるって。私はあなたを信じられる気がする」

「僕は君に自分を信じて欲しいと思っている。しかしね、自分を信じろと言っておいて何だが、あまり簡単に人を信じない方がいい。特に店の客なんかは」

「分かってる。彼らの目的は明らかだもの。今までだって彼らはただのお客。ただの一度も心を許したことがないの」

 浩二はその話を聞いて、満足げに頷いた。

 アイリーンは、日本で見掛ける同年代の女の子よりずっとしっかりしている。おそらくそれは、これまで苦労を重ねたせいであり、今も悲惨な目に遭っているからだろう。それを思うと浩二は、アイリーンが痛ましくてならなかった。

 浩二は、自分が父親だと名乗るわけにはいかないけれど、自分の素性の一部を彼女に話すべきだろうと思った。

「ところで君は、池上さんを覚えているかい?」

 浩二の口から意外な名前が飛び出し、アイリーンは夢から覚めたような表情をした。

「どうして? どうしてあなたが池上さんを知っているの?」

「正直に言うと、君のことを僕に教えてくれたのは彼なんだ。君のことを彼から聞いて、できれば力になりたいと思った」

 アイリーンはその言葉にハッとした。

「どういうことなの? 一体どんな繋がりがあるの?」

「少し複雑だけれど、リンさんと僕の昔の恋人は知り合いなんだ。それで僕と池上さんが繋がっている」

 アイリーンは衝撃を受けた。ようやくアイリーンの中で事情が繋がった。彼女の中に、懐かしさと感激の混ざった熱い物がこみ上げる。頭の中にリンや和也の顔が浮かぶと、彼女の瞳が自然と潤んだ。

 自分は男に騙され、家族や知人から遠ざけられた。自分はこの世の中で孤立無援だと思っていた。仮に父親や兄弟が自分の状況を知ったところで、助ける術がないことも知っている。自分は家族に相談もせず、独断でシンガポールに渡ろうと考えたから天罰が下ったと諦めていた。しかしそうではなかった。故郷の家族や知人は、自分のことを気にかけてくれていたのだ。

「もう少し早く、君のことが分かっていれば良かったのだけれど」

「いいの、私嬉しい。ここでは誰にも頼れず一人だと思っていたから」

 アイリーンは声を詰まらせながら、懸命に話しを続けた。

「私ね、家族に自分がシンガポールにいることを伝えたかったの。でもどうしてもできなかった。携帯も取り上げられてみんなの電話番号が分からなくなった。そんな時に池上さんが私を探し出してくれた。それで私は少し救われた気持ちになった。少なくとも私がシンガポールで生きていることが、リンさんや私の家族に伝わるから」

「そう、色々な人が君のことを気にかけて僕に話しが伝わった。君は決して一人ではないということだ」

「そうね、ほんとうにそうね。私みんなに感謝しなくちゃ」

 頬を伝う涙を手の甲で拭い、彼女は泣きながら笑った。それは感情を失った昨日までの彼女とは別人だった。それを見た浩二も、目頭が熱くなるのを感じる。

 アイリーンは涙で濡れた顔をあげ、浩二に尋ねた。

「なぜ昨日、そのことを言ってくれなかったの?」

「君を混乱させたくなかったからだ。それに僕は、単に池上さんの知り合いではなく、その前に一人の人間として、君との間に信頼関係を築きたかったんだ」

 それは浩二の本心だった。本当は人としてというより、実の親として、と浩二は言いたかった。彼女と親子の絆を築きたかったのだ。

「それはよく分かる。だって私は、あなたが池上さんの知り合いではなくても、ちゃんとあなたのことを信用できたもの」

「そんなふうに言ってくれると、僕も嬉しいよ」

 話が一区切り着きそうになったところで、アイリーンの携帯が唐突に鳴った。ヤンからのコールだ。アイリーンは電話に出た。

「ええ、ごめんなさい。まだ食事をしているの。あと一時間お願い。……だって彼はあなたにお金を渡しているでしょう。問題ないはずよ。大丈夫、今お店の近くにいるから……分かった」

 浩二が心配そうに、彼女の顔を覗いた。

「もう時間なの?」

「まだ大丈夫。ボスはいつも四時頃店にやってくるの。だからそれまで問題ない。あと一時間くらいは平気よ」

「それは良かった。もう少し話ができるね」

「ええ、良かったらあなたの昔の恋人の話を聞かせてくれる?」

 アイリーンの唐突なお願いに、浩二は戸惑った。しかしいずれは彼女に、全ての事実を打ち明ける時がくる。自分とサラの話は、彼女にとって重要な意味を持つことだ。浩二はアイリーンに、二人の話を聞かせることにした。

 そう、浩二の昔の恋人、そしてアイリーンの実の母親サラとは、当時浩二が入社したマルビシ電機の協力会社、ハタ電機のフィリピン工場で出会ったのだ。

 浩二は初めてフィリピンを見た時に受けた衝撃の正体を、もっと良く知りたいと思っていた。それは、空港から街に移動する際に見た賑わいと、雑草のような力強さを感じさせる人間の活力のようなものの正体だ。貧困に喘いでいるはずのフィリピン人の目が、誰一人死んでいないことの理由を知りたくなったのだ。

 研修が始まってから、約二週間が経過した頃だった。フィリピンの生活にも慣れた浩二は、休日に一人でセブのダウンタウンへ出掛けた。ダウンタウンは一人で行ってはいけないと言われていたエリアでも、浩二は行くなと言われてますます行きたくなった。

 そこにはタクシーで難なくたどり着いた。運転手にどこで下ろすかと聞かれ、浩二は街の真ん中で下ろしてくれとお願いした。するとタクシーは、ガイサノモールの前に停車した。そこはダウンタウンで一番人の混み合う場所のようだった。

 道端で多くの露天商が、カッティングフルーツや雑誌、タバコ、ピーナツ、たまご、小物などを売っていた。露天商と言ってもダンボール箱の上にベニヤ板を乗せ、その上に各自の商品を並べている小さな行商だ。売り手は老人から子供まで様々だった。もともと狭い歩道は露天商のせいでより狭くなり、ところどころで大人一人がようやく通れるスペースしかない。

 その歩道に沿って、商店も軒を連ねている。食堂や時計、シューズ、ジュエリーなど、なんでも揃っていた。時計屋にはセイコーがずらりと並んでいたけれど、不思議なくらい価格が安かった。おそらく偽者だろうが、浩二はそれを手に取りまじまじと見ても、どこが偽者か分からなかった。

 食堂はどこも人でいっぱいだった。店の幅が三メートルたらずで、奥に細長い作りになっている。どの店も同じような作りで、いずれも入り口に壁やドアがない。おかげでプラスティック製の白い椅子やテーブルが並らぶ店内の様子が、歩道から丸見えだ。食堂で食事をする人は、みんな料理を手で食べていた。料理の見栄えは良くないけれど、みんながそれを普通に食べている。

 道の所々には、溜まった汚水が異臭を放っていた。歩道は傾いているところもあれば、窪みがあったりする。その窪みにどこからともなく流れる水が溜まっているのだ。

 ガイサノモールに入ると、それこそ身動きできないほどの人がいた。まるで日本での初売りセールイベントのようだ。一通り店内を巡り、人に酔って外に出た。

 再び周囲の建物を見ると、灰色の外壁にひびが走り、何もかもが古ぼけていた。しかしどこもかしこも活気があり、そんな様子に浩二は圧倒されるばかりだった。

 無計画に手当り次第うろつき回った浩二は、ドリンク&ライトミールの手書き案内が貼られた古い食堂で、喉の渇きを癒そうと思った。

 一番奥のカウンターでビールを注文し、いざお金を払おうとしたその時だった。浩二は、後ろポケットに入れた財布がなくなっていることに気付いた。店員は既にビールの栓を開け、薄汚れたグラスと一緒にそれらを浩二の前に差し出している。

「ソーリー、ノーマネー イッツアクシデント アイ ロスト ウォレット」

 片言の英語しか話せない浩二の身体に、怒涛の汗が噴き出した。財布を失くし、お金が無いのにビールを頼んでしまい、言葉が通じない。最悪の条件が重なった。

 様子のおかしい客に、女性店員は栓を空けたビールを持ったまま奥へ引っ込んだ。代わりに四十前後の男性が、そのビールとグラスを引き継いで浩二の前に現れた。浅黒い肌を持つ、背の低い痩身の男性だった。彼は浩二をテーブルに座るように手招きし、彼の前にビールを置いた。浩二は手を左右に振り「ノーノー、ミー、ノーマネー」と言ったが、その男は顔に笑みを浮かべながら「イッツオーケー、プリーズ」と言い、両手を浩二の方に差し出しどうぞと言った。

 浩二は一抹の不安を抱えながら、乾ききった喉にビールを流し込んだ。よく冷えたビールで、内臓に滲み渡る格別の美味さだった。

 一息ついた浩二は、突然思い出した。サラが困ったことがあれば電話をしてくれと、研修生に渡してくれたメモがあったのだ。しかもご丁寧に、公衆電話を使えるよう、メモでコイン数枚がくるまれている。浩二は電話を掛ける必要があること、そして公衆電話の場所はどこかを、メモやジェスチャーを使い店の男性に尋ねた。すると彼は、店の電話を使えと浩二をカウンターの奥に案内してくれた。

 電話にはサラ自身が出た。浩二は彼女に財布を失くしたことを告げ、今いる食堂の場所を店の男性に説明してもらった。浩二が財布を失くしたことも、サラを通して店側に明確に伝わった。

 彼女を待つ間、男性は浩二の向かいに座り、ずっと話し相手になってくれた。浩二は慣れない英語で、自分が研修で日本から来た人間であること、フィリピンのビールがうまいこと、フィリピン人は優しいこと、バーベキューがうまいことなど、フィリピンの感想を断片的に伝えた。男は終始笑みをたやさず、浩二の話しに耳を傾け喜んでくれた。そして彼もまた、日本に対する質問を投げ、セブの観光名所、ダウンタウンの見所などを教えてくれた。

 浩二はその会話を、心から楽しんだ。英語が上手にできなくても、こうして楽しくコミュニケーションを取れることが、浩二を嬉しくさせた。大切なことは英語の上手い下手ではなく、伝えたいことが伝わることだということを、浩二はそこで学んだ。

 サラがその店に来たのは、三十分ほど経ってからだった。彼女はタンクトップ姿で現れた。見慣れない彼女の姿は肌の露出が多く、浩二にとって刺激的だった。

 浩二がビールをご馳走になったことをサラに言うと、彼女は自分の財布からビール代を払い、浩二が世話になったお礼を言った。

 男性は店の主人であることが分かった。彼は浩二が財布を失くし困っていたことに、すぐ気付いたそうだ。しかし浩二があまりに汗だくになっていたので、気の毒になりビールを勧めたらしい。

 浩二は店主に丁寧にお礼を言い、二人は揃ってその店を後にした。

 二人が店を出る時に、その主人は浩二に親指を立て、「グッドガールフレンド」と言った。

 道を歩きながら、浩二はサラに謝った。

「せっかくの休みのところを、こんなことで迷惑をかけてごめん」

「だいじょうぶよ。どうせ家に居ても、何もすることがないんだから」

 サラは簡単な英語と日本語を上手に織り交ぜて、浩二に言った。

 浩二たちがフィリピンに到着してからの二週間、サラの日本語は目を見張るほど上達した。彼女は会社を終えてから、毎日自宅で日本語テキストを読み、翌日昼休みに覚えたての言葉の使い方や発音を浩二に確認しにきた。その相手をしながら浩二は、彼女が日本語をマスターするスピードに舌を巻いた。

「あなたの財布は、きっとスリに取られたのよ」

「スリ? 難しい言葉を知っているね」

「言葉は家を出る前に調べてきたの」彼女は舌を出して肩をすくめた。「ダウンタウンはスリが多いのよ。あなたはきっと、財布を後ろのポケットに入れていたでしょう。それは危ないわ。だからフィリピン人はそれをしないの」

「だったらパンツの中に入れておけばいいの?」

 サラは楽しそうに笑った。

「何を言っているの? 前ポケットに入れたらいいのよ。それより財布に大切なものは入っていなかったの? カードやライセンスは?」

「大丈夫。それは別の財布に入れて全部ホテルに置いてきた。失くした財布には必要なお金だけを入れて持ってきた」

「一人でここへ来たことは褒められないけど、財布を分けて持ってきたのは賢かったわね。今度出歩く時には、ちゃんと私を誘いなさい。食事をご馳走してくれたらガイド料は要らないから」

 そう言われてサラを見ると、彼女は口角を上げ眉毛を上下させた。そう言う仕草を自然にできるところが、フィリピン人の魅力の一つだった。

「休日に付き合せたら悪いと思っていたんだけど、ほんとにいいの? それに日曜日は、あなたのデートがあるでしょう?」

「残念ながら私にデートをする相手はいないの。だから一人歩きはしないで下さい。あなたはフィリピンで子供のようなものだから、そのうちもっと危ない目に遭うわよ」

 デートをする相手がいない。サラから期待していた答えが返った。浩二はそれが聞きたかったのだ。

「分かった。だったら早速、これからもう少し付き合ってくれる?」

「そのつもりで来たのよ。ここまで来てもう大丈夫だから帰れと言われたら、私どうしようかと思ってた」

 自分の腕を掴んで素直に喜ぶサラが、浩二にはまぶしかった。思えば浩二の彼女に対する恋愛感情は、その時決定的になったのだ。

 会社では普通に接しているのに、その日の浩二は彼女の一挙手一投足を意識した。もともと明るく優しい子だったけれど、プライベートで自由な会話を交わしていると、彼女の良さの一つ一つが浩二の中へ浸透していく。

 ダウンタウンの外れにあるセントニーニョ教会とその周辺を散歩した二人は、お金を取りに浩二のホテルへ戻った後、夕食を一緒することにした。

 彼女のリクエストは和食だった。和食は高級だから、普段は入ることができないのよと彼女が言った。行ったことのある人はとても美味しいと必ず自慢するから、一度行ってみたいというのが理由だった。

 浩二は普段よく利用するレストランを、敢えて避けることにした。それは同僚との鉢合わせを避けるためで、浩二は二人の食事を、誰にも邪魔されたくなかったのだ。

 浩二は、ホテルの近所を避けセブシティの中心から少し離れた、大きなホテルに入るレストランを選んだ。値段は少し高めでも、料理や店の雰囲気は一流のレストランだ。

 サラにとって和食は、寿司もわさびも味噌汁も、全てが初めての体験だった。箸の使い方から食べ方まで、一つ一つの料理で会話が盛り上がる。常に笑みを絶やさないサラは、わさびを一口味見して驚いた。そのあと顔をしかめて、目に涙を浮かべながら一気に水を飲み干した。

 味噌汁や刺身は好評だった。彼女は和食の美味しさが噂通りだったと感激し、見ていて気持ちの良いくらい食べた。よく食べよく話しをした二時間の食事は、あっという間に終了した。浩二は食後に、改めてサラに礼を言った。

「今日はありがとう。本当に助かった。その後のデートもとても楽しかった」

「私も楽しかったわよ。素敵なデートだった。こんなデートは初めてよ」

 浩二はその言葉に気をよくし、またデートに誘っていいかと思い切って訊いてみた。

「ええ、もちろん。絶対にまた誘って。それとも今すぐ次のデートを決めちゃう?」

 サラは嬉しいという感情を、まったく隠さずストレートに伝える。日本人とはまるで違う反応に、浩二は少し戸惑った。

 彼女の態度は、自分を異性として意識してのことなのか、それとも誰が相手でも同じなのか、浩二はさっぱり分からなかったのだ。そのような文化なのかもしれず、彼女の反応をどう捉えるべきかが悩ましい。

 そう考え出すと、その日半日デートに付き合ってくれたことも怪しくなってくる。浩二は彼女のオープンな態度が何を意味するのか気になった。

 そうなると浩二は、自分が彼女をますます好きになっていることに気付く。

 こうして浩二の中で、サラを想う気持ちが膨らんでいった。


「だからね、フィリピーナは人の心に入り込むのが上手だと思うんだ」

 顔に笑みを浮かべて聞いているアイリーンに、浩二が言った。

 彼女は「そうね」と言い、「とても素敵な話ね、あなたが先にフォールインラブだったのね」と浩二を冷やかした。

 浩二はいやいやと頭を左右に振り、その先の話を続けた。

 その後二人は、休日のデートを重ねるようになった。平日、会社が終わってから夕食を共にすることもあったけれど、二人のプライベートな関係は、会社に知られないように気を付けた。もしそれが発覚した場合、浩二よりもサラに何らかの影響が及ぶことを恐れたからだ。

 会社的には、日本人研修生と現地フィリピーナの恋愛は禁止だ。それが疑われると、彼女は首を免れたとしても、研修生の生活担当から外される。そうであっても二人の関係には影響はないけれど、懸命に日本語を勉強し仕事に打ち込んでいるサラにとって、その役を外されるということは心の痛い事件となるのだ。

 同僚には隠し通せなかった。彼らは羨ましいと冷やかしながら、結局は遊びだろうと思っていたようだ。

 しかし浩二は、サラに本気で恋をしていた。自分がフィリピンにいられる期間は、残り一か月だった。のんびりしていたらすぐに帰国日を迎えてしまうことに、浩二は少し焦っていた。浩二は自分の気持ちを彼女に伝え、彼女の気持ちを確かめたいと思っていたのだ。

 サラは素直で、いつも自分の感情をストレートに表現する子だった。頭が良く努力家でもあった。いつも笑顔を絶やさず、一緒にいるだけで、浩二の心を明るく元気にしてくれた。

 浩二は彼女と会う度に、二人の距離が近付いていることを実感していた。しかし言葉で確かめないと分からないこともある。サラが明るくストレートである程、浩二には彼女の気持ちが今一つ推し量れない。感触はよくても、独りよがりに陥っている可能性が十分あった。そこをはっきりさせなければ、浩二はどうにもすっきりしない。残りの滞在期間が少なくなり、彼はいずれ、彼女の気持ちを言葉で確認したいと悩んでいた。

 日本への帰国が二週間後に迫った日、浩二はサラに自分の気持ちを伝える決心をした。

 二人でライトハウスというレストランで食事をした後、浩二は彼女をオスメニアサークルに誘った。そこは円形の大きな交差点で、真ん中が広い芝生敷きの空き地になっている。周囲をたくさんの車が走っているけれど、サークルの中心を訪れる人はいない。

 二人はサークルの中に入るため、道路を渡らなければならなかった。浩二はサラの手を取って、車の合間を縫いながらサークルの中心に向かって走った。

「私、ずっとセブに住んでいるけど、ここに入るのは初めてよ」

 物珍しい眼差しをその場所に向けながら、サラが言った。

「僕も初めてだよ。よく見ていなかったけど芝生があるんだね。人があまり入らないから、ごみがなくて綺麗だ」

「そうね。まるで公園みたい」

 二人は道路を渡った時に繋いだ手を離さず、そのまま芝生に腰を下ろした。

 浩二とサラは、サークルを走る車を眺めた。車のエンジンやクラクションの音が響き渡っているのに、そこは二人だけの世界のように思えた。

「ここはうるさいはずなのに、静かだね」

「分かるわ。私も同じ感覚」

 何かいいねと浩二が言い、サラもいいねと答える。手を繋ぎ、車の往来を眺めているだけで落ち着いた。会話がなくても充実する。浩二は無言で、告白の引き金になるものを探していた。

 ふと車が途絶えた時に、浩二が言った。

「あと二週間しかないね」

「あなたが日本に帰ったら寂しいな。私はいつもそれを考えている。それ考えると心が苦しくなる」

 二人の視線はサークルの外に向いていた。車の騒音が会話の邪魔になることはなかった。サラの言葉を聞いて、彼女の手を握る浩二の手に自然と力が入る。彼はサラの方を向く勇気を持てず、視線を前方に彷徨わせていた。

「僕も同じだ。君と離れることを考えると苦しい。サラ、初めてデートした日のことを覚えている?」

「もちろん覚えているわよ」

「僕はあの日から、君のことがいつも気になっていた。今ははっきりと分かる。僕は君を愛している」

 浩二が視線をサラに移すと同時に、彼女も浩二の方を向いた。彼女は表情を変えずに、ポツリと言った。

「私もあなたを愛している。もうずっと前からよ。気付かなかったの?」

 二人は顔を近付け合い、初めてのキスを交わした。芝生に座った姿勢と繋いだ手はそのままで、三分なのか五分なのか、それとも十分か、お互いの唇を重ねた。

 浩二はサラの肩を抱き寄せ、しばらく二人は互いの胸の内を披露し合いながら、サークルの外を走る車を眺めた。


「すごく素敵な話。なんてロマンティックなの」

 浩二はそれを語りながら、いつの間にか気持ちが二十年前にタイムスリップしていた。

「実は僕が先にフォールインラブではなくて、彼女はその前から僕を好きだったんだ」

「それ、自慢なの?」

 アイリーンが見せるいたずらっぽい表情は、サラそのものだった。浩二はその大切な思い出を、サラにそっくりなアイリーンに語る運命に、不思議さを感じた。時間が交錯し、サラと離れていた二十年の隙間が一気に埋まるような錯覚を覚えた。

「私もそんな素敵な恋がしたいな」

「君は若くて素敵な女性だ。君はサラにそっくりなんだ。だから大丈夫。これからいくらでも素敵な恋ができる」

「そうだったらいいけど」

 一瞬曇ったアイリーンの顔はすぐに明るさを取り戻し、彼女が続けた。

「私、そのサラさんに会ってみたいな。今彼女はどうしているの?」

「セブで娘と一緒に、元気に暮らしているよ」

「彼女は結婚したの? あなたと結婚すればよかったのに」

「彼女は結婚していない。娘は僕の子供だ」

 その言葉で、アイリーンの顔から冷やかしの笑みが消えた。

「何か難しい事情があるの?」

「彼女が自分の子供を産んで育ててきた事実を、僕は最近知ったばかりなんだ」

「そうなの?」アイリーンは意外に思った。

 浩二は彼女に、最後までこの話を聞かせたかった。

「もう少し話したいけれど、時間はまだ大丈夫かな?」

 アイリーンは無言で頷いた。

 二人はお互いの愛を確認し合い、三年ほど遠距離恋愛で付き合ったこと、そして彼女の縁談話しを契機に別れたこと、その後サラは自分の妊娠に気付き、結婚せずに浩二の子供を産んで育てたことを、アイリーンに聞かせた。

「あなたはどうしてサラさんと別れたの? 彼女はあなたを愛していたんでしょう?」

「そうだね、僕も彼女のことを愛していた。ただあの頃は、結婚となると話が別だった。昔の日本では国際結婚というだけで、好奇の目で見られることもあったんだ。フィリピン人との結婚となると尚更だった。僕はサラと付き合いながら、そのことに悩んでいた。でも若かった僕は世間体や両親のことを気にして、彼女との結婚に踏み切る勇気を持てなかったんだ。そんな時に彼女の縁談話が持ち上がった。それはとても良い話しだった。相手はフィリピンで大きなビジネスを展開している実業家の息子で、その話がまとまれば彼女は経済的に安泰だ。自分が彼女と結婚できないなら、僕は彼女がその話に乗るべきだと考えた」

「それは少しおかしい。愛し合っている二人が別れて、幸せになれるわけないでしょう」

「君の言う通りだ。僕は彼女の幸せを考える振りをして、結局彼女から逃げたんだ。だから何年も後悔した。僕はサラがとっくに結婚をして幸せに暮らしているとばかり思っていた。時間が経つにつれて、僕の中に彼女を手放した後悔の気持ちが膨らんでいった。だから仕事に没頭したんだ。それでサラのことを忘れようとしていたのかもしれない。その間、まさか彼女が僕の子供を産んで一人で育てていたなんて、夢にも思わなかった。なぜ知らせてくれなかったのかと思うけれど、よく考えるとサラはそんな女性だった。彼女は僕のくだらない悩みを見抜いていたんだ。妊娠を知らせたら、彼女は僕が困ることを知っていたんだと思う。僕は彼女のそんな賢さも良く分かって愛したはずだったのに」

「あなたはまだ、彼女と別れたことを後悔しているんでしょう」

 浩二の沈んだ表情をみて、アイリーンは言った。

「そうだね。特に僕の子供を産んでいたことを知った今は、あの時なぜそんな結論に至ってしまったのか、自分の弱さを呪っている」

「彼女は強い人ね。あなたに迷惑をかけないよう、妊娠を知らせず一人で子供を産んで育てたんでしょう? フィリピンでそれをするのは大変よ」

「分かっている。だからもし彼女が僕を許してくれるなら、僕は自分の残りの人生を、彼女とその子に捧げたいと思っているんだ」

「やっぱりね。あなたはそういう人だわ。私には分かる」

「僕は失った二十年を、取り戻すことができるだろうか?」

「だいじょうぶ、あなたならできるわ」

 アイリーンのその言葉に、浩二の心は救われた。浩二はその問いかけを、アイリーン自身にも投げ掛けたつもりでいたのだ。勿論彼女が、そのことに気付いているはずもない。彼女はあくまで、第三者の立場で答えている。しかし第三者としての言葉であっても、それはアイリーンの根底にある考えに根差したものであるはずだ。ならばその言葉に、浩二が希望の光を見出したとしても間違いではない。

 浩二は「だいじょうぶ、あなたならできるわ」というアイリーンの言葉を、嬉しく噛み締めた。

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