第7話 企み

 小雨の道を、ゆっくりと走る車を先頭に、五十人ほどの人たちが列を成して歩いていた。色とりどりの傘が、歩く人々の頭上で不規則に揺れている。

 何かのパレードに見える行列は、死者を弔うセレモニーだった。小雨が、その一行のしめやかさを強調しているのかのようだった。

 車に乗せられた棺の中で、エレンが花に囲まれ眠っていた。長い列の先頭に、鎮痛な表情を浮かべるレイや子供たちの姿がある。そのすぐ傍らに、リンやメリアンの姿もあった。

 エレンは急性肺炎で生死の境をさ迷ったのち退院し、その半年後に、心筋梗塞で倒れ帰らぬ人になったのだ。

 急性肺炎で緊急入院をした際、ドクターに心筋症を指摘されていた。

「心臓が少し弱っているようです。心音に雑音が聞こえています。心電図にも明確な兆候が出ています」

 医師は淡々と説明しながら、心電図を指してエレンに言った。

「この部分の波形が少し延びているのが分かりますか? これはP波と呼ばれる心筋症の症状です。心臓を収縮させる筋肉が弱っているために起こりますが、原因は冠動脈の狭窄です。要は心臓への血流が十分ではなく、心臓の筋肉が弱ってしまうのです。冠動脈は三本ありますが、一本でも血流が止まれば心筋が直ぐに壊死を始めるので、そうなれば非常に危険です。血液状態を改善させる薬を出して経過観察としますが、無理をしたら本当に危険です。十分気を付けて下さい」

 その話を一緒に聞いたリンやアイリーンは、とにかくエレンを休ませようとした。しかしエレンが、聴く耳を持たなかった。

「時間がかかりますけど、少しずつ返していきますから」

 エレンはリンが支払った入院代を、メイドの月々のサラリーから千ペソを抜いて返した。リンはその受け取りを固辞したけれど、エレンは聞き入れなかった。

 仕方なく、周囲の人間ができるだけエレンの負担を減らそうと注意しながら、様子を見ていた。

 エレンの病気を知ったレイは、家の補修や家具を作ることで、少ないお金を稼ぐようになっていた。アイリーンは、エレンの魚の買い付けを手伝った。兄妹たちは家事を分担し、エレンの身体の負荷を減らすよう努めた。

 エレンが亡くなったのは、レイや子供たちががんばりを見せ、ようやく家族が一体で助走し始めた矢先だった。夕食を作っていたエレンが、突然胸を押さえて傷みを訴えた。

 エレンの顔が、みるみる青ざめた。直ぐにベッドへ寝かされたエレンは、眉間に皺を寄せ、話すこともままならなかった。子供たちが、倒れたエレンを囲み、「ママ、ママ」と叫ぶ。

 我に返ったアイリーンは、家を飛び出した。薄暗い未舗装の道を、医者のもとへ走る。その途中彼女の脳裏に、何度もエレンの苦しむ顔が浮かんだ。エレンの心臓に問題があることを知っているアイリーンは、嫌な予感を抱えながら必死に走った。途中石につまずいて転んだ。地面についた手と膝が擦りむけて血が滲み出ても、構わず走り続けた。

 アイリーンは、既に診療を終え自宅でくつろいでいたドクターに事情を説明し、無理やり連れ出した。戻りはドクターの車を使った。しかし家に到着したアイリーンを待っていたのは、既に冷たくなり掛けたエレンだった。

 呆然と立ち尽くすアイリーンの横をすり抜け、ドクターがエレンの様子をみる。彼は脈と瞳孔を確認し、「お気の毒です」と言う言葉と一緒に胸の前で十字を切った。

 その瞬間、アイリーンの胸のざわめきはピークを迎えた。不思議と涙は出てこない。あまりに唐突で、彼女はその死を受け入れることができなかったのだ。誰もが立ち尽くし、今にも目をあけそうなエレンの顔を、呆然と見つめることしかできなかった。

 アイリーンは、人がどうしようもない悲しみに出くわした時、涙は出ないものだと初めて知った。

 駆けつけたリンの顔を見て、アイリーンの中で踏ん張っていたつっかえが外れる。そこでようやく、彼女は泣くことができた。

「リンさん……、ママが死んじゃった」

 アイリーンは、そう叫んでリンにしがみついた。リンは自分の腕の中で肩を震わせる彼女に、掛ける言葉を見つけることができなかった。無言で、アイリーンの背中をさするしかないのだ。

 その夜、心の支えを失った子供たちは、静かに眠るエレンの傍を離れようとしなかった。サリーとカミルはアイリーンにしがみつき、泣き疲れて眠ってしまった。床で膝を抱えて黙り込むマックとジミーの目は、真っ赤に腫れあがっていた。涙の涸れたアニーは、目を閉じてエレンの手をずっと握っていた。

 アイリーンは努めて取り乱さないようにしていたけれど、妹や弟の打ちひしがれた様子につられ、時々涙を抑えることができなくなった。

 レイは椅子に座わり、ずっと首を垂れている。大切なものとは、時には失って初めて、それがかけがえのないものだと気付くのだ。彼はそのことに、打ちのめされていた。エレンに苦労をかけ続けてきたことが、悔やまれてならない。この先の漠然とした不安もあるけれど、過去への後悔が先の不安を飲み込んだ。

 そんな父親を持つ子供たちを直撃するのは、心の痛手だけで済まなかった。今後の生計における現実的問題が、彼らの背後にひっそり忍び寄っていたのだ。

 翌日レイの家に、エレンの叔父や叔母が集まった。エレンの両親は、既に他界している。母親は、エレンと同じ心臓疾患で亡くなっていた。エレンには弟が二人いたけれど、全く当てにならないと判断され、その席に呼ばれなかった。

 親族会議の中で、子供たちをどうするかが問題となった。レイには子供たちを扶養する能力がないことを、みんな知っていたからだ。

「長い間、お金のことで苦労したから、心労がたたったのよ」

「お姉さんも心臓だったわよね。遺伝かもしれないわね」

「エレンがメイドをしていた家、お金持ちなんでしょう? 助けてくれないかしら」

「本当にロクでもない人と結婚したわね」

 それぞれが、好き勝手なことを言い合った。

「子供たちをどうする?」

 叔母のダイアンが、口火を切る。

「うちは子供を引き取る余裕はないわ。一人ならご飯くらい食べさせてあげられるけど」と、別の叔母が言った。その一言で、それぞれが我が家も苦しいと言い出した。

 叔母たちは可愛そうにと言いながら、子供たちを見るその目には、厄介なことになったという困惑の色が浮かんでいた。井戸端会議さながらの親族会議は結論が出ないまま、ひとまずレイにがんばってもらうということで、問題先送りの結果に終わった。

 しかし、会議の中では明言しなくても、女の子だけは引き取ってもよいと考える叔母がいた。

 アイリーンは数年もしたらよい稼ぎ頭になる。小さなサリーはしばらくただ飯食らいだから、元が取れるかどうか。

 ダイアンはそんなことを計算し、品定めでもするように、子供たちの容姿を密かに確認した。親族が集まる中で、彼女はそんな企みを見透かされないよう、周りに同調する振りをしていたのだ。

 フィリピンはファミリーの絆が強いと言うけれど、家を飛び出すように結婚したエレンは親族と疎遠になっていた。特に母親の兄弟はいつもゴシップを好み、昔から自分とレイのことに興味本位で関与しようとした。加えてお金に汚い言動が見え隠れするため、エレンはできるだけ関わらないようにした。彼女がそれまで頼りにしてきたのは、父親の兄弟たちである。

 そんな母方の叔母の一人が、死んだ妹の娘をターゲットにしている。血のつながりがあるとは言え、全ての親族が結束し助け合っているわけではない。中には計算高く、人の気持ちを平気で踏みにじることのできる親族も、少なからず混ざっている場合がある。

 リンも子供たちの今後は気になるけれど、自分にはどうするもできず、様子を見るに留まっていた。心情的には何とかしてあげたくても、現実的にはできることが限られる。

 エレンの葬儀が済んで一週間後、行動を起こしたのが叔母のダイアンだった。ダイアンが突然、レイに話があると言ってやってきたのだ。

「あなた、この先どうするの? 仕事は見つかりそうなの? あなたは大丈夫でも、子供たちは毎日ご飯を食べなきゃいけないのよ」

 それまでレイの家族を気にもかけなかったダイアンが、いかにも子供たちを心配する神妙な顔付きを作った。ダイアンは無言のレイに、「うちも余裕はないけれど、子供の一人や二人は面倒見ることができるわよ。どうせここにいたんじゃ、ご飯だって食べさせられないでしょう?」と、たたみ掛けた。

「子供を引き取る?」

 叔母が説教をしにきたと思ったレイは、彼女が意外なことを言い出すと思った。

「そうよ。育ち盛の子供がいつもお腹を空かせていたんじゃかわいそうよ。今すぐ決めろとは言わないわ。でも、私にそんな考えがあることは覚えておいて」

 フィリピンで、養子縁組は珍しいことでない。お金に余裕があり子供に恵まれない人が、経済的に余裕のない家庭から子供を譲り受けるケースや、経済的余裕がなくてさえ、明らかに破綻している親族の子供を見るに見かねて引き取ることはよくある話だ。また、形式的に養子にし、主に学費の援助をするケースもある。裕福な人が恵まれない子供の支援を目的に、積極的に養子を迎えるのは、稀なことではなかった。宗教的な背景に起因するのか、フィリピンには相互扶助の精神が根付いている。国全体に、子供を愛しむ考えや空気があることは確かだ。

 このときレイは、ダイアンに企みがあることを見抜けなかった。なぜ彼女が、突然自分たちのことを心配し出すのか、彼は単純に不思議に思うのだった。

「叔母さん、今は子供たちをどうするかなんて考えられない。エレンがいなくなって子供たちまでここを去ったら、僕はどうしていいか分からない」

 ダイアンは如何にも物分りの良さげな口調で言った。

「そうね。すぐじゃなくてもいいわ。考えておいて」

 ダイアンは、レイが遅かれ早かれ音を上げるだろうと踏んでいた。そうであれば、今布石を打つことで、間違いなくアイリーンを手中に収めることができる。

 ダイアンはアイリーンを二年ほどメイド代わりで使い、いずれは娘のシェラをマネージャーとして、彼女を夜の世界へ売り込もうと企てていた。そして誰かと愛人契約を結ばせれば、そこでもお金をふんだくれると算段している。その前に、日本で働かせても良い。アイリーンはダイアンにとって、金の卵なのだ。しかし本人が了承しなければ、どうにもならない。そこで彼女は、アイリーンの妹をもう一人引き取り、その子をだしにしようと目論んでいた。

 ダイアンに入れ知恵をしたのは、娘のシェラだった。かつて彼女は、タレントとして日本に行ったことがある。その後セブの日本人向けバーでも働いた。だからシェラは、その世界にコネを持っている。

 現地のバーで働く女性には、マネージャーが付いている場合が多い。夜の世界で安全に働きたい女性は、働き口、労働形態、賃金交渉などを、手引きしてくれる人に全て任せる。働きながらも、休み、客の対応、仕事の仕方で分からないことがあれば、マネージャーに細かく相談する。

 マネージャーは手数料として、女性の月々のサラリーから、十%~二十%の上前を撥ねる。それだけならまだしも、金のある知人に配下の女性を紹介し、店で遊んだ客が女性を気に入れば、本人の知らないところで愛人契約を結ぶよう画策することもある。上手く事が運べば、予め決めた成功報酬を客から受け取る。

 マネージャー業を営んでいる女性は、かつて水商売で働いていた女性が多い。彼女たちは親切な振りをし、かつて自分のマネージャーやプロモーターにピン撥ねされた分を取り返そうとする。

 これは言わば、負の連鎖だ。シェラは他にも数人の女性を抱えていたけれど、まだ若くて美しいアイリーンが、夜の世界で高値がつく可能性に目を付けていた。華やかな夜の世界の裏側には、様々な人間の思惑が絡み合う嫌らしさが蔓延している。かつてのシェラも、そんな思惑の渦に巻き込まれ、さんざん煮え湯を飲まされた。

 彼女は店で知り合ったアメリカ人と結婚をしたけれど、自分の幸せを託した相手は結婚後、彼女に金ばかりをせびるごくつぶしに成り下がった。シェラはそのことに耐えかねて、五年の結婚生活にピリオドを打ち実家に戻った経験を持つ。

 根が悪い人間でなくとも、そのような世界に浸った人間の精神構造には歪みが生じる。その歪が騙し騙される負の連鎖を、じわじわと蜘蛛の巣のように広げていく。

 フィリピンでは、普通に暮らす人々の身近に、そのような蜘蛛の巣が張り巡らされているのだ。好まずとも、夜の世界に身を委ねる女性は多い。そこで搾取されながら、次は自分が搾取する立場へ立とうとする。生活苦にあえぐフィリピンの、暗い影の部分だ。

 アイリーンは家計のことを考え、食事を工夫した。米を節約するために、できるだけ粥にして食べるようにした。その米が底を付き始めると、自分たちの菜園で取れる野菜と芋を交換し、米の代わりに芋を食べた。その芋がないときには、小麦粉を水で溶いて揚げて食べた。そしてレイがお金を少し稼ぐと、それでまた米を買った。そんなことを繰り返し一家は頑張ったけれど、それも三ヶ月が限界だった。

「パパ、もう食べるものがなくなる。畑の野菜も取りつくした。もう一週間ももたない」

 フィリピンには貧しい人が多いけれど、それでも餓死するという話はほとんど聞かない。その気になれば山や海や川に、自然の恵みがたくさんある。お願いすれば、親戚や近所の恵みも受けられる。レイは、贅沢を言わなければ食べ物はなんとかなると思っていた。しかしそれが行き詰まりを見せていた。しかも、子供たちの学校で必要となるお金や光熱費など、どうしても現金が必要となる。このままではそれすら払えない。

 彼は限界を感じていた。彼は食べ物がないというアイリーンの訴えに「そうか」と言ったきり、彼女から目を逸らし口を閉ざした。アイリーンは食い下がるように、座り込んだレイを見下ろした。薄暗い部屋の中で、二人の間に重苦しい空気が漂う。心配そうに様子を見に来ていたダイアンも、しばらく顔を出さない。他に様子を見に来る親族はいなかった。

「実はな」レイがうつむいたままで口を開いた。「ダイアンが、子供を引き取ってもいいと言っている。お前はどう思う?」

 レイは弱気になっていた。うつむいた顔を上げようともしない。自然とアイリーンの語気が強まる。

「子供って誰? みんな?」

「そうじゃない。一人か二人だと言っていた。全員の面倒を見てくれる人なんていないよ。もしお願いしたら、みんなバラバラだ」

 蚊の泣くような小さな声で、言い方は投げやりだった。

「それはいやよ、絶対にいや。だったら私が働くわ」

「それはだめだ。お前には学校がある」

 アイリーンが学校をやめることは、エレンの意思に背くことだった。

 しかしアイリーンは食い下がった。

「それでもみんながバラバラになるのはだめ。それだけはやめて」

 レイは、情けない自分を恥じるように頭を抱えた。レイの脳裏に、エレンの笑顔が浮かぶ。彼女の怒った顔や泣いた顔を思い浮かべようとしても、レイの中のエレンはどうしても笑顔だった。

 お前は本当にがんばっていたんだな。レイは心の中で、そう呟くしかなかった。

 アイリーンにも、八方塞がりということは分かっていた。彼女は、自分がまだ子供だということが悔しくてならなかった。

「明日ダイアンに、連絡を取ってみる」

 レイがポツリと言った。それを最後に、二人の会話が途切れる。

 事態は、ダイアンが目論んだ通りに転がり出そうとしていた。アイリーンは、家族の歯車が狂い始めたことを強く感じた。

 しかし歯車は、思った以上に大きく狂うことになる。事態はダイアンの目論みからも逸れてしまうのだ。誰もが予想できなかった方向に。

 アイリーンはダイアンに踊らされていた方が、よほど幸せだったのかもしれない。

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