あなたが振り向くまで。

このはりと

あなたを初めて見て




 **




 あたしの声が大きいのは、誰かに見つけてもらいたかったから、なのかもしれません。それがあなただったのは、たまたまでした。だって、あのときのあたしは、先輩のことなんてこれっぽっちも──いえ、嘘です。見ていました、あなたを。だって、しかたないじゃないですか。あたしの視界に入ったのがいけないんですよ。




 **




 あと一週間もすれば、高校生になって初めての夏休みに入ろうかというある日。あたしは、窓際の席に座り、さんさんと照る太陽の光を浴びながら、ぼんやりと中庭の様子を見ていた。


(はぁ、いい気持ち)


 第一学年の教室は校舎の一階にあるので、その気になれば、ひょいと外へ出られなくはない。けれど、この気持ちよさだ。一歩も動きたくなかった。雲ひとつない快晴。陽だまりがあれば、昼寝をするなというほうが難しい話である。あくせく勉学、もしくは色恋に勤しむなど、そこらの猫に対して失礼千万。彼ら彼女らのように、四肢を大地に投げ出し、ごろんと寝転んでみてはどうなのだ。


(学校ではできないけれど、そうしたい気分)


 これで、視界に何も入らなければ、最高である。まったく、人間社会は、どこを見ても人、人、人。「あぁ、イヤになるぅ」と語尾がおかしなのは、たまたま視界に入った、お嬢様然とした女子生徒に見惚れたのをごまかしたいからではなかった。背の中ほどまである、毛先まで一切の乱れのない黒髪の美しさだとか、黒によく映える純白のリボンだとか、ベンチに座るさまが絵になるだとか、断じて目を奪われてなどいないと言っておこう。今のあたしは猫だ。大好きな昼寝の邪魔をされなければ、よそで何が起ころうと、知ったこっちゃない。ましてや、彼女が、それなりに格好のよい男子生徒に言い寄られている様子など、どうだってよかった。


(もうすぐ、夏休みだからねぇ)


 青春真っ只中の高校男子が、早熟の、可憐な花のごとき女子とお付き合いをして、夏休みを満喫する。それはそれは、毎日がきらきらと輝くだろう。日記をつづるのだって、苦になるはずもないほどに。しかし、だ。


(まぁ、両想いなら、ねぇ)


 どうやら、男子生徒の旗色は思わしくないようだった。女生徒は、手も首も、そのどちらも横に振っている。つまるところ、返事はノーである。


(それも、いい経験でしょう。次の出会いに期待するのね)


 恋の幕引きを見届けたあたしは、ふわぁと大きくあくびをして、視線を適当に泳がせた。すると、その端に、またもや青春劇場の幕があがっているのがうつる。看板役者のなんと多いことか。「ん?」とよくよく見ると、今度の主演はあたしの友人だった。


(まぁまぁ。こちらもハッピーエンドとは、いきませんか)


 友人には意中の人がいる。しかも大学生の。高校生では太刀打ちできない大人の包容力と、経済力もともなう、文句なしのお相手である。忘れないように付け足しておくと、あたしの友人は面食いだ。イケてない男子になど、見向きもしない。唇の動きこそ見えないが、「ごめんなさい」とお断りのセリフが聞こえてきそうな、そんな仕草をしていた。


(いい経験、いい経験。次の出会いに、ね)


 ふたつのアンハッピーなエンディングののち、観客たるあたしは舞台への興味をなくした。そろそろ眠気に身を委ねてしまおう、と視線を戻すと、先ほどのお嬢様役が、男子生徒に手首を掴まれているのが飛び込んでくる。「そういう脚本?」と思わないでもないが、望ましい状態でないのは明らかだ。


(ふるほうも、難儀なものね)


 うまく切り抜けられるよう祈りながら、少し心配になって友人のほうを見やる。その先で繰り広げられる光景を目にし、「えぇ」とわかりやすく落胆の声をもらしてしまった。で演技が続いているとは、いくらなんでもありえない。昨今の男子は、どうやら諦めがよろしくないようである。さすがに、こちらの劇場は放ってはおけない。なにせ女優は友人なのだから。あたしは、すぅっと大きく息を吸い込んで、ヤジを飛ばした。


「あのー、脈ありませんよ、あなた」


 声が反響した。自覚はないのだが、友人に言わせると、あたしの声はかなり大きく、よくとおるらしい。そういえば、小学校でも中学校でも、合唱部に誘われたような記憶がある。あたしは体を動かすのが好きで、もちろん歌い手さんからのラブコールは、すべてノーで返した。誰かを応援するために声を出すのはよしとして、感情を歌にのせて表現するのは、どうにも苦手なのだ。

 ともあれ、あたしの“声援”は、友人を窮地から救ったようだった。いたたまれなくなった男子生徒は、逃げるように校舎へ走り去り、姿が見えなくなる。


「おーい、キューゾー! ありがとー!」


 友人が大きく手を振り、それに負けないくらいに張り上げた声で、あたしに礼を返す。「キューゾー」というのは、もちろんあだなである。

 あたしの名前は久美くみという。猫と昼寝と、陸上競技──ときどき助っ人に駆り出されるくらいの──をこよなく愛する十六歳。名づけた親を恨んだ覚えなど一度もないが、美しさには縁もゆかりもない。念のため言っておくが、不細工でもない、とは思う。「美」とはお近づきになれないあたしに、親しい友人はおんの「み」を「さん」に置き換え、そこからさらに「さん」を「三」に変換。「久」のキュウと「三」のゾウで「キューゾー」のできあがりである。あだなとは、案外、手間ひまかけて生み出されるのだ。当の本人、つまりあたしは、キューゾーの名を結構気に入っている。

 ひらひらと友人に手を振り、今度こそ眠ろうと視線を戻すと、もうひとつの恋愛劇にも幕が下りたようだった。言い寄っていた男子生徒はいつの間にか退散し、女子生徒だけがひとり残っている。


(あら、お邪魔しちゃったかしらね)


 まぁ、いいか、と目を閉じてゆく途中で、女生徒がこちらへ振り向いたのに気がついた。


(後ろ姿から予想はしていたけれど、これは──)


 瞬間、そのあまりの美貌に、目と思考のすべてが惹きつけられた。漫画のひとコマであれば、彼女の背後に大輪の花が咲いただろう。

 顔の輪郭はきれいな卵型で、面部を構成するあらゆるパーツは、整然とバランスをとって配置されていた。端にゆくにつれやや垂れぎみの瞳は優しげで、控えめながら「わたしが主役です」と言わんばかりの輝きを放っている。花びらを重ねたような桜色の唇は潤いに満ち、男性でなくても自身の唇を重ねてみたくなる、そんな衝動を駆り立てた。素肌は、上質の絹素材のようなきめの細やかさ。成熟過程にある女子は、必ずしも肌がきれいになるわけではないが、彼女のそれは度を超えている。

 そして、身体のライン。制服を押しあげるふたつの膨らみは、大きいうえに形のよい丸みを帯びていて、女性としての魅力をいかんなくアピールしていた。折れそうなほどに細いウエストと、そこからなだらかに描かれる下半身の曲線は、同性だって目を奪われるほどに美しい。


(なに、この人。ちょっと怖い、かも)


 完璧という言葉は、この女生徒のために存在する。それから、失礼ながら「おいしそう」と思うのは、あたしだけではないだろう。特に、真っ白な首すじと鎖骨がまじわる部分。甘く歯を立ててみたくなり、ごくりと喉が鳴る。自分にそんな欲望あるとは、初めて知った。背徳感から身震いする。けれども、なんてひどい性癖だろうか。


(このまま見ていたら、目を取られそうだわ)


 見目にとどまらず、こちらに向けて深々と腰を折る所作まで麗しい。あたしは自らの視線を無理やり引き剥がし、ついさっきまであった眠気を強引にたぐり寄せると、目を閉じて意識をてばなす。夢に出てきそう、と、そんなふうに思ったが、あたしの世界に彼女は現れなかった。かわりに、真っ白な、毛並みのきれいな猫がやってきた。あたしとの間に少しだけ距離があったけれど、逃げる様子もない。その距離は、明日にでも詰められそうな、そんな気がした。



 つづく

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