宮本武蔵の新訳五輪の書!

鎌岡 巽

第零章 ~二天一流~

其之零

 ――正保しょうほう二年五月十九日

             日本某所――


 落陽らくようの差し込む岩窟内に一人、掠れた呼吸音と荒いしわぶきを響かせながら横たわる初老の男性。


「ごほっがほっ……っあ~、まいった」

 

 宮本武蔵。

 肺炎に侵された体で五輪の書を綴り終えた剣豪は、今まさに死に絶えようとしていた。


「……死にたくねぇなぁ」


 ぼそりと漏れ出た言葉に、ハッとし苦笑する。

 よわい六十と余年、数々の死合しあいや戦で命のやり取りを行ってきた剣豪オレが、死の間際に『死にたくねぇ』ときたもんだ。

「くっくっく……っ、ごはっ!」

 一際大きく咳き込んだ拍子に、喀血かっけつが眼前の岩肌を赤黒く染めた。


 ……ここまでか。


 同時に意識が遠のき、ふわりと天へ昇っていくような感覚に包まれる。


 あと少しで、あの高みに届いたんだがなぁ……。


――享年六十四歳

    宮本武蔵、ここに眠る――


     *  *  *


『……? ここはどこだ?』


 気付けば辺りは明りに照らされた荘厳な佇まいの室内で、先程までの息苦しさも無くなっていた。


「あ、主様ぬしさま主様! 気が付いたみたいですよ!」

 

 声が聞こえてきた方へ視線を向けると、羽が生えた小さい人型の何か・・と、その何かに声を掛けられ、椅子に腰かけたままこちらへ振り返る長髪の優男が居た。


「お目覚めみたいですね、宮本武蔵殿」

『なんで俺の名前を知って……ってか声が出ねぇ、どうなってやがる?』

「落ち着いてください、ちゃんと聞こえていますから」

『……は? 聞こえてる?』

「第一、貴方にはもう肉体はありませんので、出そうにも声は出ないんですけどね」


 数瞬、思考が止まる。

 ――肉体が無い?

 その言葉を何度も何度も咀嚼そしゃくし……呑み込むころには現状を正しく把握できていた。


『そうか、やっぱり俺は死んだのか』

「はい、あなたは肺炎にさいなまれて六十四歳で現世を去りました」

『んで、あんたがの世の案内人ってことかい?』

「正確には違いますが、まぁそんなところです。私がこれから貴方の行き先を決める閻王えんおうのヤチ。こちらの小さいのが私の使いで、貴方を案内するシュトリです」

「シュ、シュトリと申します、これからよろしくお願いしますね!」

『はぁ、よろしく頼んます』


 緊張感のない返事を返されたからか、将又はたまた状況を理解し呑み込む速度に驚いたからか、シュトリの額に汗が滲み出るのが見えた。

それとは対照的にヤチは顔色一つ変えず胡散臭い笑みを浮かべたまま、一呼吸の後に切り出した。


「それでは本題に入ります。今後の貴方の行き先ですが、候補は二ヶ所ありますが……」

『二ヶ所って天国か地獄の二択じゃないのか?』

「はい、天国に行く場合は十八の階級に、地獄へと堕ちる場合は六つの行場がありますので」

『なるほど……。ま、天国に行けるなんざ期待はしてないさ』


 あっけらかんとした態度にまたしてもシュトリの顔から血の気が引いていく。

 しきりにヤチの顔色を窺うところを見るに、怒ると相当恐いのだろうか。


「いえ、それがそうとも限らないのです」

『……と、言うと?』

 

 ヤチからの目配せを受け取ったシュトリが、二つの賽と壺笊つぼざるをどこからか取り出す。


「武蔵殿には一度丁半博打をして頂き、負ければ地獄へ、勝てば天国へ行く機会を与えましょう」

『おい、ちょっと待――』

「行きますよ~!」


 疑問を挟む余地なく、シュトリは賽を投げ込み、壺笊を床へ伏せ置く。

「さぁ、丁か半か!」


『……は、半で』

 勢いに圧され、なかばヤケクソ気味に賭けてしまう。


「ようござんすね! では!」

 ゆっくりと壺笊が開けられ、見えた賽の目は――


「おめでとうございまーす!」


 奇数。つまり半だった。

 賭けの結果が判るや否や、足元からの強烈な光に包まれる。


「賽は投げられました。これから貴方には新たな生を歩んで頂きます。詳細については後程、シュトリからお聞きください」

『ま、待てよ! まだ話は終わって無――』

「ごきげんよう――」

 

 ヤチのその言葉を最後に視界は塗りつぶされ――


 ――意識は途絶えた。

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