分からない事 第四


 港町は人が多いから違うだろうと光草屋の爺さんが言った。海に沈む夕日が美しく見える岸壁があるのだと、漬物屋の主人が言った。


 ヒイロの霊体は、走り出した馬借の旦那にピタリと付いている。

「霊体は、自殺をする前に旦那に会いに来てたのか」

 ケロウジがこっそりとササに言う。

「そうらしいな。ちょっとカラカサが妖しい奴すぎて気付かなかったな。間に合うか?」

「ササが間に合わせるんだよ」

「ちぇ、山の主たる魔獣をこき使いやがって。人間は知らねぇだろうが、これ疲れるんだからな。お前の座布団で三日は寝てやる」

「好きにすればいいよ」

「飯付きだぞ」

「分かったから頼むよ」


 ケロウジがそう言うと、ササはほんのりと青い霧で全員を包む。ケロウジは、足もとが不安定になったのを感じたが、次の瞬間には目眩に襲われる。

 しかし実際にはそれは目眩ではなく、景色が歪んでいるのだ。

 木々がグニャリと歪曲し、道が揺れる。辺りの景色が少しずつ変化しているというのに、誰も声を上げない。

 ケロウジが気になって斜め前を走っている馬借の旦那を見ると、その目は酷く虚ろだ。


「ササ。僕にはアレやらないの?」

「お前には俺が魔獣だってバレてるからな。意識を止める必要ねぇだろう?」

 怖いのかよ、と悪戯っぽく笑うササが気を許しているようで、ケロウジは嬉しく思った。


 魔術の青い霧が晴れると、ケロウジたちは海の見える崖の上を走っていた。

「ヒイロ! ヒイロ!」

 馬借の旦那が叫ぶが、返事は無い。

 ケロウジはこっそりとヒイロの霊体を見た。霊体は涙を一粒こぼし、崖の先に祀られている大岩の方を見ている。

「あそこに行ってみましょう!」

 ケロウジは皆を先導して大岩に近づく。そして呼んだ。

「奥さん! そこに居ますか?」

「ヒイロ! もう大丈夫だから待ってくれ!」


 すると、旦那の声に気付いたヒイロが岩の向こうから顔を出す。その顔は沈み切っており、涙でぐしゃぐしゃだ。


「なんで来たの……」

「お前が家にいないって聞いたから! もう大丈夫なんだよ! 馬は帰ってくるし、カラカサは捕まる。お前が死ぬ事ないんだよ!」

 旦那が必死に訴えるも、ヒイロは首を横に振った。

「私がカラカサを馬小屋に通したのがいけないの! 私のせいで……だから私……私の命で事足りるなら、カラカサを殺して私も死んでやろうと、思ったのに……殺せなくて」

「バカだなぁ……もし馬が戻って来なくたって、二人でやり直せばいいじゃないか」


 陽は水面に揺れ、空も海も真っ赤に染め上げる。それを背景に、ヒイロの霊体はサラサラと砂のように潮風に流され消えていく。

 消えるその時、霊体はケロウジとササに頭を下げると、跡形もなくなった。



 それから三日後、ササは宣言通りケロウジの家で寝続けた。時折り寝ぼけながら近くに置かれた水を飲み、また寝る事を続けている。


「魔術って本当に疲れるんだなぁ。なんか悪い事したな」

 ケロウジが呟きながらササの背を撫でると、鬱陶しそうに身じろぎをする。そしてモソモソと頭をもたげ、ササは猫のように伸びをした。


「おはよう、ササ」

「おぅ! よく寝たから腹減ったな。山菜鍋が食いたいぞ!」

「山菜はないから今日はキノコ雑炊だ。それにしてもぴったり三日寝たな」

「計算通りだ! 移動の魔術は疲れるからな。そんで? あの後どうなった?」

 ササはキノコを切るケロウジの手元を食い入るように見ながら聞いた。


「カラカサは魔獣師の元に預けられて、しばらくただ働きさせられるらしい。店は取り上げられたし、獣たちは元の持ち主の所へ返される事が決まったよ」

「へぇ、人間はやっぱ甘いんだな。で? あの夫婦は?」

 ササは口の端をニッと上げて舌なめずりをする。


「前よりもっと仲良くやってるよ。困り事といえば、ヒイロさんを心配した隣町の人たちが代わるがわる訪ねて来て、いちゃつく暇もないって笑ってた事くらいか」

 それにしても、とケロウジは続ける。

「ヒイロさん、話した時は元気そうに見えたんだけどなぁ。あの時に気付いてたらなぁ」

「まぁ、本当に思い詰められた奴ってのは、そうなんだろうな」

「困ったもんだなぁ」


 今回はササがいたから何とかなったけど、とケロウジは言った。

 けれど、これからも一緒にいてくれとは言えないでいる。それはケロウジが、人との暮らしは魔獣には窮屈だろうと分かるからだ。

 ケロウジが悩んでいる間にもその鍋ではキノコ雑炊がいい香りでグツグツし始める。


「美味そうじゃねぇか! やっぱ人の食い物はいいよなぁ」

「そうか? だったらまた食いに来るか?」

 ケロウジは何でもない顔をしてそう言ってみた。ケロウジにとってだいたいの感情は表に出てきてくれない厄介なものなので、顔に出さない事は得意だ。

 ケロウジの言葉に、ササはピクッと耳を動かした。


「それって、朝飯と晩飯を毎日もらえるって事か?」

「それはもう住む気なんだな? お前がいいなら好きにしたらいいよ」

「本当か? この座布団とか、もう返さねぇぞ?」

「あげるよ」

 ケロウジが笑い声をあげた。それはとても珍しい事で、たぶん、ササの他には聞いた人なんて一人くらいだろうなと、ケロウジは自分でも驚く。


「これからよろしくな、ササ」

「おぅ! 俺が助けてやるよ」

 こんな風にして、美味しそうな匂いの中で奇妙な同居生活が始まった。



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