第2話【道雪】武田信玄より書状 P29

「嘘じゃないもん!本当にワシ聞いたもん!トトロ本当にいたもん!宣教師のフロイスも中公文庫版フロイス日本史8巻P68に書いてあるもん!」


 そう憤る浅川伝右衛門。そのとき『バサリ』と足もとに一冊の大福帳の様なものがこぼれおちた。

「浅川殿。先ほどから何度も見ておりましたその本は何なのですか?」

 浅黄色の表紙に年季が入った猪子の紙が綴じられた本を見て3人は問うた。

「聞書(ききがき)じゃ」

「ききがき?」

 小首を傾げる太郎と次郎に、浅川は こほん と咳払いすると言った。

「聞書とは呼んで字のごとく『聞いた事を書き記したもの』じゃ。実はなワシは殿に仕えて以来、家中であった事を色々とメモって忘れない様に記録しておるんじゃ」

「へー。筆まめだね」

 太郎は感心したように言う。

「ああ、立花の宗茂様は豊臣秀吉から「鎮西第一(九州で一番強い男)」と称されたが、関ヶ原では西軍に味方して一度幕府から改易された。ところが、信じられない事に元の領地に復帰できたお方じゃ。これは余程の仁徳のなせる業じゃろう」

「西軍で領地を没収されたのに大名に戻れたのは、立花様だけなのじゃよ」

「へー」

「すごーい」

 浅川は感心する太郎と次郎を見て満足そうにうなずく。

「こうした素晴らしい働きや出来事も当事者が死んでしまえば曲解や嘘で間違って伝わるかもしれん。そこで家中の者が生きているうちに見聞きしたことを纏めておこうと思うのじゃ」

「だから、さっきの矢の話にも怒っていたんだねー」

「他にはどんなお話が書いてるのー?」

「そうじゃなぁ…」

 浅川は記録していた往時を懐かしむようにページをめくると「お。」と手を止めた。

「これなんか、面白そうじゃな」

「なになにー」

「みんな大好き、武田信玄公のお話じゃ」


 ・・・第2話【道雪】武田信玄より書状 P29・・・


「以前【道雪様へ武田信玄より「九州で名誉のお働きを聞き、(信玄公が道雪様と)御対面したい」との書状が来た事がある】」


 武田信玄。甲斐の虎と呼ばれた名将である。

 食料生産が弱く混乱の続く甲斐(山梨県)をまとめ上げ、自国の二倍はある信濃(長野県)を手に入れた男。

 信長も正面衝突を避けるためにへりくだった書状を送ったり自分の長男と武田の娘を結婚させようとしていた。

「まあ、そんなすごい方からも道雪様は認められるほど凄い方だったんじゃ」

「へー、すっごーい!」

「話半分にきいた方が良いよ。山梨あそこから手紙が来るなんて聞いたことないから。」

 無邪気に喜ぶ太郎と次郎に男は言う。

「なんだとぉ…」

 伝右衛門は自分の話にケチをつけられてムッとしながら言う。

「【この書状は山僧がわざわざ持参したものなんだぞ!道雪様が亡くなられた後で、今もここにあるんだぞ!】」(本編ここまで)

 と浅川は自分の聞書をつきつけて言った。

 その内容を見て男は首を傾げた。


「その僧ってどこの誰ですか?」


 その言葉に伝右衛門は、はたと言葉につまる。

 太郎は思い出したように言った。

「あれ?そういえばさ、豊臣秀吉が九州征伐に行ってて大阪を留守にしてたときに『戦場で路銀が尽きて困っている。この山伏に金を預けよ』という

「や…山伏と山僧は違うんじゃないかのぉ…」

 冷や汗をたらっと流しながら伝右衛門がいう。

 その様子を見ると、次郎がさらに言う。

「それにさー、道雪様が亡くなられたのは。武田信玄さんが亡くなったのは5月13日。じゃなかったっけ?」

 天正13年と天正1年(元亀4年)と考えても元号を書き間違えたとは思えない。

「信玄さんは3年間は死を隠せとか、花押だけ書いた紙を大量に用意していたって話は聞いたことがあるけど、それでも時間が経ちすぎじゃない?それに武田って1582年に勝頼が死んで滅亡してるから。手間賃目当ての売僧が適当に書いたもんじゃないのか?』

「嘘じゃないもん!書状は今もあるもん!」

「だったら、花押の確認してみようか?天正少年遣欧使節って団体がローマに持っていった宗麟さんのサインも、実際の者と比べたら明らかに偽物だったし、なんだったら紙質でも本物か確認できるしね」

 その言葉に浅川は「ええと、大事な書状じゃし一般人には公開されておらんのじゃないかのう」

「出たよ、一般の人には見せられない」

「写真やネットの発達してない時代なら証拠の確認も難しいから『証拠はここにある』って書いとけば大抵の人はごまかせるけど、これがもし450年後だったら炎上してるよ」

 ちなみに佐賀の成松氏は『大友宗麟の身内を討ち取った時の書状と鎧がある』と江戸時代に記録され、今も現存するのだが大友家側の記録では成松氏の主張するような人間がいたという証拠が見つからなかった。また学者の先生が書状を見たら『筆跡は本物だけど書かれた紙が立派過ぎる。これは数年後に書かれたものだろう』とこっちが引くぐらい細かい部分から鑑定をしてくれている。(歴史研究598号 著;堀本一繁氏『龍造寺氏の戦国大名化と大友氏肥前支配の消長』より)


「まあ聞書ってのは聞いた人間も証拠を見る事が出来た訳ではないし、偉い人が『証拠はワシが持っている。でもお前には見せん。でも証拠はある』と言われたら反論せずに信じるしかないからなぁ」

「あー、いくらガチ勢の人が最新研究を教えても『地元の偉い歴史好き』の人が昔の説が正しいと言えば、そっちの方が正しい事になっちゃうもんねー」

「地域によっては地動説より天動説が正しいって言うような話は悲しいからそこまでにしておけ」

 場合によっては出入り禁止を食らう場合もあるので、いくら正しかろうと空気を読む事は大事である。


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 今回は道雪伝説にちょっとケチをつけるような話ですが、こうした検証作業を怠ると明治の陸軍参謀本部みたいに架空の戦記である信長記という本の桶狭間の戦いをまじめに研究して『信長は少数の兵でも油断している相手に勝てた。日本も国は小さいが油断している相手に決死の覚悟で戦えば勝てる』などという誤った結論をはじいてしまう可能性もあります。

 ただ、今回の話ネット検索では原書がみつからないので、信じるも信じないも個人の判断に任せます。

 私は書状を見てみたい派です。

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 余談;


「しっかし、信玄公が道雪さんに手紙を出したってのは2つのパターンが考えられるねー」

 1つは本当に手紙はあって、武田滅亡後に流浪してきた人間が届けに来たパターン。

 もう一つは小遣い稼ぎに偽の書状をねつ造して持ってきたパターンだ。

「大友家は織田信長とは手紙のやりとりはあったけど武田信玄とはしてたか分からないし、持ってこられても本物か分かる人はいなかったんじゃないかな?」

「普通に考えたら偽物な気がするけどなぁ」

「でもねうぃきぺでぃあという記録書には『信玄の枕屏風に道雪と家臣の由布惟信らと共に諸国勇士の名が記されてあった。』という話も書かれているから、本当だったのかもしれないよー?」

「ちょっとまて、そのあやしげな本はどこから出してきた?」

「そのお話、引用先はどこになってるの?」

「引用は特に書いてないね」

「じゃあ、妄想の可能性もあるなぁ…」

 このように出典のはっきりしない話は『嘘だ!』と切り捨てるわけにもいかず、かといって信じるわけにもいかない魚の小骨の様な存在である。

 仮に地元大名の本をだすなら引用先はしっかりと明記していただけるとガチの郷土史家は大変助かります。

 なおWIKIには「鎮西に戸次道雪という者がいて、戦に秀れているということを噂に聞くが、一度戦ってみたいが互いに遠く相離れているため、残念ながらその戦技を競うことができない」(旧柳川藩儒者・笠間益三)という話も掲載されているのですが、これもどの本に書いてあるのかわからないので検証のしようがないです。

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