嚆矢たるは人の味わいを語らうこと

 春が過ぎ雨季に入る手前の曖昧で快適な時分、花布芙蓉はなぎれふようは窓から入ってくる風の心地よさに気を取られて、本を捲ることを忘れたようであった。彼女の仕事が休みの日は決まって友人や恋人など、誰かしらが訪れるのであるが、今はそのつかの間の一人自由な時間だから、のんびりと贅沢に過ごすのである。ところが飲み終わってしまったコーヒーを淹れに小ぶりでかわいらしいエスプレッソマシンに向かう途中、玄関のチャイムが鳴って彼女の快い孤独な時間は終わりを告げた。


「出張査定で近くに寄ったから来てみた」

「あ、そう。ちょうどコーヒーを淹れるところだから上がったら」


 玄関の扉を開けると現れたのは芙蓉の大学時代の一時期の元恋人で、今は古書店を営んでいる近藤佰こんどうつかさという名の男、ヒョロリとした猫背に長身、ふんわりとしたくせ毛に丸メガネを掛けて、オーバーサイズのカーディガンを羽織り、派手な色の切り替えのサルエルパンツという出で立ちで、なんだか飄々としてはいるが胡散臭い雰囲気である。学生時代に変にかぶれたせいで人文学の訳文のような妙な話し方をするのが芙蓉には苦痛だった。例えば「俺が君を抱きたいと言う場合、互いに体を擦り合わせて肉体的快楽を得たい、という意味ではない、そうではなくて異性同士の粘膜の交換という行為そのものが既にある種の諒解、或いは特殊な信頼関係を成立させているから、その為に得られるものは安心と信頼であって、求めるものは互いが許し合っているという確証なのだ」といった感じである。これには芙蓉も辟易して、他の理由も相まって分かれるに至ったという次第であった。


 他の理由というのも妙な知り合いの多い芙蓉らしいものであり、交際当時、佰は芙蓉の家に泊まる日は決まって風呂掃除をしたのだが、余りにも長い時間を掛けて掃除をするものだから、ある日一人部屋に取り残されて暇を持て余した芙蓉が風呂場を覗いてみると、佰は一心不乱に風呂釜をペロペロと舐めているという次第。芙蓉がギョッとして「何をしているのか」と詰問すると彼は少し慌てふためきながら、「これは違う、風呂釜に残った芙蓉の垢を舐めているのではなく、そうではなくて純然たる掃除であって、舐めても汚くない程にピカピカになったということを証明する行為なんだ」などとあたふたと嘯いた。


 明らかに胡散臭い物言いに芙蓉が詰め寄って聞くと、どうやら佰の家系は垢舐めの一族で、好きな人の垢となると目がなく、風呂掃除をすると言う名目で芙蓉の垢をこれでもかと堪能していたという仕儀であった。また、風呂掃除を終えた彼の口づけが妙に甘くとろけるような味わいだったのは、垢舐めの特性で、舌の上で転がされた垢が特殊な唾液の作用によって蜜のように甘くなる為であることが説明された。


「ってことは何、私は自分の垢を舐めて酔ったようになってたわけ? ゲーッ気持ち悪い!」

「気持ち悪いって失礼だな! これは俺の体質の問題であってそういうのは差別的な発言だとは思わないか」

「気持ち悪いのはあなたじゃなくて、自分の垢を自分で舐めていたことよ。あなたが垢舐めだから気持ち悪いという意味ではないわ。そこは間違わないでね。でもそうね、うえ、自分の垢で甘くとろけるような気分になってたのって、やっぱりごめん、受け入れられるものじゃないわ」


 こういったわけで芙蓉と佰の関係は長くは続かず、別れるに至ったのである。


「はい、スチーマー使うのめんどくさいからアイスラテね。久しぶりね、あなたが来るなんて。何だったら結婚してから初めてじゃない」

「おお、ありがとう、頂くよ。自宅にエスプレッソマシンなんてオシャレだなァ」

「本当はもっと大きいやつが良かったんだけど、値段もすごいし、場所もないしで諦めちゃった。でもこの小さいやつもかわいいでしょ」


 佰は二年ほど前に垢舐めに理解のある女性と交際を始めて、恙無つつがなく順調に愛を育んだ結果、結婚をしたのだった。今では古書店の経理などを妻が担当して二人三脚で生活をしている。芙蓉は別れてからも普通の友人として佰と付き合ってはいたが、その結婚を祝福した。その後はそれほど会うようなことはなくなり、会っても大学仲間での集まりだとかで顔を合わせることの方が多く、互いが積極的に茶や食事に誘うなどはなかった。だからこそ今日の佰の訪問は気まぐれにしても珍しいものなのである。


「で、何をしに来たわけ、本当に通りがかりでなんとなくってわけじゃあないでしょう、ずっと会わなかった、ううん、お互いに会うのを遠慮していたじゃない」

「う、さすがにおかしいよな、やっぱり誤魔化せないか」


 そう言うとラテの入ったグラスを口から離してそれをテーブルの上にゆっくりと置くと、深呼吸をし深々と頭を下げてこう言うのであった。


「頼む!芙蓉!俺の家庭の危機なんだ、力を貸してくれ!」

「はあ? え? 何があったのよ……」

「実は……」


 佰曰く、ここ最近までは本当に仲睦まじく夫婦共々過ごしてきたのであるが、近頃になって妻が風呂場に籠もって垢を舐めているのを見てしまったと言うのである。


「妻は垢舐めではない、普通の人間なんだ。だから尋常のことではないとは思って心配になったのだが、どうも機嫌が良い。まるで垢舐めのようにうまそうに垢を舐めるのだ。俺は混乱してしまって、うまいか? と、愚にもつかないような質問をすると、妻はニッコリと笑って、美味しいわ、などと言うものだから、遂に人に垢のうまさを理解してもらえるようにまでなったか、なんて理想の夫婦なんだ、なんて思ったんだ」


 人が垢舐めの真似事をするなど普通ではないが、普通ではない夫を持つことで影響を受けると言うのはまああり得るもので、おかしな話ではないのかもしれない、しかしながら佰の言葉はどう聞いても惚気の類で、芙蓉ははあ、とため息をついてやってられない、といった表情を浮かべて部屋の片隅に置いてある何も入っていない水槽の方をぼうっと眺めて、早く話が終わらないかな、などと思っていた。


「いや、待て待て、その態度、興味を失くした感が凄いぞ。まだ話は終わっていない! とにかく俺は妻が味に目覚めたのだと思って、今まで舐めた垢の話をしたんだ。もちろん家族や友人、色んな垢を舐めてきたのだが、その中で一番うまかったのはなんと言っても芙蓉の垢だったので、それが如何にうまかったか力説して、君にも是非舐めさせてやりたいなんて言ったら、なんと顔を赤くしたり青くしたりしたと思ったら急に不機嫌になってしまったんだ。それからはもう何を言っても取り付く島もない、話しかけても無視されっぱなしで仕事にも支障が出る始末。それで毎日機嫌を取ろうとデパ地下で生菓子を買ったり、花束を上げたり、美味しい紅茶を買って淹れてやったりしていたんだが、全然効果がない」

「はあ、あなたがデリカシーのない馬鹿タレだということは良くわかったわ」

「ちょ、ひどいなおい。」

「なんで奥さんが怒ったかわかってる?」

「正直全くわからんから困ってたんだ。ところが今日やっと話をしてくれたんだが、芙蓉と自分の垢、どちらが本当にうまいか勝負をしたいと言い出した。それでさすがに俺もハッとして、もちろん君の垢が一番だよと言ったのだが、いいやここは白黒ハッキリさせるべきだと言って聞かない。だからその、本当に迷惑な話なんだが、ウチの風呂に入って垢舐め勝負をしてくれないか。」

「本当に迷惑な話なんですけど!」

「この通り!頼む!」


 そう言うと佰はおもむろに土下座の格好からそのまま手を合わせて芙蓉をナムナムと崇めるようなおいそれとは見かけぬ恥も外聞もない抜身の投身をしてみせた。芙蓉もさすがにそこまでされるとバツが悪い。はっきり言えばもう付き合ってもいない人間(否、垢舐め)に自分の浸かった風呂を舐められるのはなんとも気持ちが良いものとは言い難い。とはいえ、向こうが明確に芙蓉を指名しているものだから断ると佰も苦心惨憺して垢舐めであるハンディキャップを越えて結婚に至ったものであるから、それがご破綻になるとするとなんとも後味が悪い。総じて芙蓉としては断りたいけれど、断るには情がないと思い、後ろめたく感じてしまっているという状態に陥ってしまった。この手の拝み倒しは人の情を測るようで卑怯だ、などと思っている。


「ああ、もう、わかった、わかったわよ。だからもう顔上げて、椅子に座って。はい。やります、これは奥さんの為だからね、しっかりやりなさいよ」

「ウオオン、恩に着るよ芙蓉!早速今日か明日にでも風呂に入りに来てくれ」

「今夜はちょっと友人と飲むから、明日の仕事後とかのほうが都合が良いわ」

「じゃあ明日の夜、うちに来てくれ、仕事が終わったら連絡をくれ、駅まで迎えに行くから」

「了解、じゃあそれでね」


 佰はそこでやっと安心したのか、氷が溶けて薄くなってしまったラテをぐいっと飲み干すと鞄を掴んで帰り支度を始めた。芙蓉も玄関まで彼を見送り、じゃあ明日などと言い合って扉を閉めた。どっと疲れや不満が噴出してベッドに身を投げたが、引き受けてしまったものは仕方がない、口を不機嫌にへの字に曲げてしばらくうつ伏せに倒れていた。


***


 翌日、若干の二日酔いを抱えたまま仕事を終えた芙蓉は佰の家のある駅で降りると、予め連絡を入れておいたのもあるが、改札を出てすぐのコンビニ前で佰がぬぼっと立っている。その様子がどうにも哀れっぽくて、どうにも乗り気になれない今日の勝負だが、今日はやけにジメッとしていて早く風呂に入りたいという気持ちも手伝ってか、やれやれ人肌脱ぐか、という気分にはなってきたようだ。


 佰の家は歩いて5分程度の良い立地で、一階が古書店、二階が自宅となっていた。古書店は二十時には閉店していてシャッターが半分降りている。佰はそれを人が通れる程度に開けると芙蓉を中へ通して通してシャッターを完全に閉めた。店内は小綺麗でそれなりに広いのもあるが、面陳列の数が多少多いからかスッキリとしていて、ガラス棚に入っている一見すると貴重そうな画集などと相まってソフィスティケートされた清潔感がある。


「俺が文学や哲学の本以外も売ってるの、なんかおかしいよな。でも写真集とか画集はそこそこ出入りが多いんだ。こんな店内にしたからってものあるかもしれないが」

「てっきりもっと全体的に茶色い感じの店内だと思ってたわ」

「なんだい、茶色い感じって」

「棚差ししかなくて全集本が脇に積んであるような感じの」

「ああ、まあ、わからなくはない、一応在庫は奥にもあるんだが、並べるのはある程度選んでいるから、店内にはなるべくダンボールを置いたり品数を減らしている。ちょっと本が少なく見えるかもだけれど」

「いいんじゃない、いい雰囲気よ」


 カウンターの裏の部屋は在庫置き場と査定用のスペースに設けられており、そこから階段で自宅に上がることができた。こちら側の部屋にも外から入れるようにプライベートな玄関が用意されているが、芙蓉に店内を見せた買ったのだろうことが察せられた。


「どうぞいらっしゃいませ、お上がりくださいな」


 佰の妻が芙蓉を丁寧な言葉で迎えてくれたは良いが、その全体の雰囲気は明確な敵意を感ぜられるような刺々しい空気を孕んでいた。芙蓉は気圧されながらも持ち前の無頓着さをここぞとばかりに発揮させてこちらもズカズカと部屋へ上がっていった。


 さて、どうやって垢舐め勝負をするのかと思っていると、佰が風呂場に案内をしてくれた。浴室を覗いてみると、鴛鴦おしどり火鍋のように半分に仕切られている特殊な浴槽が目に入った。どうやら今日のために用意されたわけではなく、普段からこの夫婦はこの浴槽を使っているらしく、片方は佰が、もう片方は妻が入って、自分の垢を舐めずに人の垢を舐められるように工夫しているという具合のようだ。芙蓉が半ば呆れ、半ば感心していると、後ろから佰の妻が話しかけてきた。


「お仕事上がりでお疲れでしょう、わたしはもう入ってしまいましたから花布さんさえよろしければいかがですか。薄紅色の浴槽はわたしが使いましたので、そう、そちらの青い方を使っていただけると」


 そして芙蓉の耳元に口を寄せると、小声でこう言った。


「夫はどちらがどちらかわからないようにしていますので、公平な勝負ができますわ」


 確かに湿気と仕事の疲れから肌が気持ち悪く感じていたので、すぐにさっぱりするのはやぶさかではなかった。芙蓉はお言葉に甘えて早速頂くことにした。


「あ、体や髪はまず湯船に浸かってから洗ってくれよ。せっかくの勝負だから味をハッキリと感じられる方がいい。妻にもそうしてもらっているから」

「え、そうなの、わ、わかった」


 多少抵抗はあったものの、今回の趣旨は垢舐め勝負であるから、審判である佰がそう言うのであれば従うほかない。使用できるタオルや化粧品の説明を一通り受けてから、芙蓉は服を脱いで湯船に浸かった。鴛鴦火鍋のように陰陽のような形をした特殊な浴槽は、半分ずつに仕切ってはいるものの、上半身側は広めに、足側は少し狭くなっている形状のため、腕を縁に乗せ、足をのびのびと伸ばせる、なかなかどうして、思いの外窮屈さはなく、入り心地が悪くないときた。


「はぁ~、湯加減もいいし、疲れが溶けて抜けていく~」


 この勝負は元々勝敗は決して居て、芙蓉は二人の仲を取り持つために負けに来ているわけではあるが、いっときそういった煩わしい事情を忘れて湯船を堪能したのであった。


 さて、風呂から上がると芙蓉はどちらがどちらの浴槽を浸かったのかわかりやすいように自分の使用したボディタオルを青の浴槽に放り込んでおいた。そして髪を乾かし、基礎化粧を済ませると部屋に向かった。すると二人は日本酒と軽い肴を用意してくれて待っていた。


「お、出てきたな、さっぱりした顔をしているじゃあないか。じゃあいっちょ始めるから、こいつで一杯やって待っててくれ」

「あなた、公平なジャッジをお願いよ」

「わかってるって」


 わかってるってなんだ、と芙蓉が不安になって立ち上がる佰を見ると彼は軽くウィンクをしてみせた、ちゃんと目的はわかっているらしくホッとすると、まだ刺々しい敵意を滲ませている佰の妻を前に、構わず酒を飲み始めた。


 しばらくして佰は戻ってくると、「勝負は決した」と言い放ち、それぞれの垢の評価を語りだした。


「こっちの薄紅色の浴槽の垢はうん、素朴な味だな、でもこう、不思議と滋味のある深い味わいをしていて、何やら人のことを思って日夜働いてくれている人間の愛情というダシが効いているように感じられる」


 いいぞと、あまり褒めすぎずそれでも高い評価を与えているリアリティに芙蓉は安心感を覚えた。


「対してこっちの青い浴槽の垢はそうだな、単に苦塩っぱくて薄っぺらい味だ。ストレスで疲れ切って人間的な味わいをどこかに置いてきてしまった出がらしのような垢だ。全く話にならない。以上で勝負は決した、薄紅色の浴槽に入った人の勝ちだ! どうだい君たちはどちらに入ったんだい?」

「……あなた、わたしよ!」


 佰の弁は少しわざとらしいが、佰の妻は嬉しさのあまり両手で口を抑えて目には薄く涙を湛えているではないか。芙蓉としては正直うんざりだが、これで仲を取り持つことが出来て良かったと一杯気分で思えたので万事うまく行ったと言えよう。


「花布さん、わざわざお越しいただいてこのような失礼をしてごめんなさいね、わたしどうしても不安で不安で」

「わたしの完敗でしたね、ではそろそろお暇します。お酒とおつまみ、美味しかったです、ごちそうさまでした」

「あら、夕飯も一緒に如何ですか、すぐご用意しますよ」


 一転して親切で物腰が柔らかくなった佰の妻の申し出を丁寧に断って芙蓉は帰路に着いた。風呂上がりにさっぱりした肌に面倒な仕事を片付けたというスッキリした気持ちでいたが、冷静になってさっきの批評を思い出してみるとだんだんと腹が立ってきた。


「なによ、人間的な味わいを落としてきた出がらしって、ひどくない?」


 家に帰ってもプリプリと怒っていたが、やっぱり言われたことは気になるので、通信販売でいつもよりちょっと高い化粧品を注文したのであった。


【完】

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お題:舌

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