無辜

 全身を暖かく包み込む疲れが、僕を眠りへと導く。でもまだ眠るわけにはいかない。重い瞼に抵抗するように首を振ったり、大きく目を見開いたりしていると夜十時を過ぎた。すると上の階で玄関の開く気配がする。荷物を置いて、テレビを点ける。暫く部屋をあちこち歩いて物をあるべき場所に置いたり、飲み物を用意しているような気配、そして体の全てを預けるように力を抜いてソファに腰掛ける。軋む音。この音を聞くのが僕は好きだった。それは階上に住むお姉さんのことを僕が好きだからというのもあったけれど、誰かの柔らかい生活が自分の頭上の上で営まれているという感覚が何やらいい気分だった。いや、正直にやっぱり言い換えよう、お姉さんが上で生活しているのが嬉しかった。


 毎朝、家を出る時間が同じな僕らは、よくエレベーターで一緒になった。そこで挨拶を交わして、テレビの話とか、学校の話とか少しする。お姉さんはよく笑う。僕は嬉しくなって次々に自分の話をしてしまって、ついついお姉さんの話を聞きそびれてしまう。


「それじゃあ正文まさふみくんの将来の夢は漫画家かな」

「ち、違うよ、こんなのは暇つぶしさ。僕はもう中学生なんだよ、そんなくだらない夢は見ないって。大きな会社に入って、立派な役職に就いて、お金にも時間にも余裕のある暮らしをするんだ。」

「へえ、親孝行なんだね、正文くんは。」


 ある日、いつもより早い時間からお姉さんの部屋は足音が少し騒がしくて、人の気配も複数あるようだった。いつもとは違う物音の様子に僕は不安になった。泥棒や人殺しだったらどうしよう。そう考えると居ても立っても居られなくて家を飛び出した。階段を駆け上がりお姉さんの家の扉を勢いよく開けた。するとそこには男とお姉さんが抱き合って立っていた。


「アッハッハ、いつもより騒がしくて泥棒だと思ったのか」

「うるさくしてごめんなさいね正文くん。この人は私の恋人」

「うちの正文がバカなことをして、すみませんでした。こら、ちゃんと謝りなさい」

「ご、ごめんなさい」

「いえいえ、こちらこそ物音には気を付けますので」


 お姉さんには恋人がいた。そのことが何よりもショックだった。泥棒の方がずっとマシだったかもしれない、そしたら僕は彼女のヒーローになれたのに。僕はベッドに入りながら思った。恋人が悪い人だったらいいのに、そしたら僕が助けて、かわりにお姉さんと付き合うんだ。男らしく悪い彼氏を倒す自分を夢想した。そうしているうちに僕は眠りに落ちた。


 そんなことがあったからだろうか、エレベーターで会うお姉さんは今まで以上に親しげに話しかけて来るようになった。僕は彼女の恋人が悪いやつじゃないか探りを入れるために色々な質問をした。するとお姉さんは嬉しそうに彼氏との思い出話や、惚気のろけ話をしてくれる。そんな話は聞きたくないから僕はムスッとしてしまうが、そのたびにお姉さんとの時間を不機嫌に過ごしたことを後悔したりした。


 夜遅くトイレに起きると、まだ階上では足音が聞こえていた。明日は平日なのにまだこんな時間まで起きているなんて大丈夫なのかな、なんて余計な心配をしていると、ガタンと何かが倒れる大きな音が聞こえた。泥棒かと心配になったが、時間も時間だし、この前のこともあり家を飛び出すことはなかった。それにそのあとはシンと静まり返って何ごともなかったかのようだった、僕はホッとしてベッドに潜った。


 それから数日間お姉さんとはエレベーターで会わなかった。生活音も聞こえてこないので外泊しているようだった。恋人の家にいるのかな、と思って心が千々に乱れた。仕事で忙しければいいなと思った。お姉さんにとってはそんなのちっとも良くないだろうけれど。僕はそっちを願った。しかし、僕の予想はどちらも外れていた。


 お姉さんは死んでいた。マンションで少し甘い異臭がするということで大家がお姉さんの部屋を調べたら、首を吊って死んでいるのが見つかったという。


 僕が聞いたあの物音が、お姉さんの最後の音だった。


 近所付き合いもあったことから僕らはお姉さんの葬儀に参加した。そこであの恋人を見つけた。悪者を見つけた気持ちになって体の底で蠢く怒りや悲しみをぶつけた。


「きみは、以前部屋に来た少年だね」

「だったら何だ!お前のせいでお姉さんは死んだんだ!」

「そうなのかい?そうだったら、うん……。俺は彼女が幸せだったか不幸せだったかわからない、一緒にいたときはいつも笑って楽しそうだったから。でも、だから、俺は、死んだ理由が俺のせいなら、それで俺が苦しむべきなら、それでいいんだ。でも彼女はきっとそうじゃなかった。俺にはわからない理由で、知らないうちに死んでしまった。遺書もなかった。家族とも仲が良かった、会社でも順調だった。彼女が死ぬ理由が俺にはわからない。それがつらいよ。彼女が生きる方法を一緒に考えたかった。茉桜まお、俺は、きみの苦しみを知りたかった」


 僕はお姉さんの名前を初めて知った。ずっと好きだったのに、お葬式で彼女の名前を初めて知ったのだ。この恋人は、自分の苦しみ以上にお姉さんの苦しみに苦しんでいた。自分の痛みよりもお姉さんの心に寄り添いたいと考えていた。僕は、自分のことばかりだ。お姉さんの彼氏になりたいだとか、お姉さんが仕事で忙しければいいのにとか。この人はいい人だ。だから自分が浅ましくて嫌な気持ちになった。


「お姉さん、あんたのことを話しているときはいっつも笑顔だった。嫉妬するくらいに楽しそうで、すごく幸せそうだった。」

「茉桜が、そんなふうに……」

「お兄さんが、悪い人だったら良かったのに。そしたら僕がお兄さんをやっつけて、お姉さんを助けて、恋人になって、幸せにしたのに」


 僕は大声をあげて泣いていた。お姉さんが死んでしまったことよりも、自分が小さくて醜くて、泣いてしまったのだ。僕は本当に嫌なやつだ。


「正文くん。茉桜の味方でいてくれてありがとう」


 数カ月後、上の階にも人が引っ越してきた。小さな子供連れの夫婦で、仲の良さそうな良い家族だと思った。気付けば階上の物音を追う癖はすっかり消えていた。たまに賑やかな足音が聞こえてきて、お姉さんではなく別の人々が住んでいるということをふと思い出すことはあるけれど、殆どは耳に入っても気にしなくなってしまった。


「正文くんは漫画家になるって茉桜に聞いていたよ」


 否定したというのに彼女は僕の本心を見破っていた。僕はあなたの本当の気持ちすら考えたこともなかったのに、あなたが死んでしまった日やお別れの日ですら。だから僕はせめて正直に生きることにした。さしあたってあなたが恋人と幸せになれる物語を書こうと思う。そして僕はその下で軽快で幸せな二人の足音を聞いて眠る。


【完】

―――――――――――――――――――――

お題:足音

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る