第18話 少女の謀は上手くいかない

『こっちにいるのか』


 布を擦る音が徐々に大きくなる。動きが鈍いため、万が一のときには逃げることもできる。だが、それでは反逆者というレッテルに信憑性が増すだけ。ここはやり過ごすべきだ。


 木箱の上から影が落ちる。


『ここか』


 身を強ばらせるシェーラを落ち着かせるために、アリスは身を寄せた。悪魔がこちらを見下ろしてきても決して動かない。


 代わりに小石を裏通りの奥の方へと投げた。硬質な音が軽快なステップを鳴らす。悪魔はビクリと反応して音の方へ向かった。


 やはり居場所を特定されていたわけではなく、単にカマをかけていたようだ。あの悪魔の特性を知らない者なら慌てて逃げ出し、自ら居場所を知らせてしまうだろう。


 二人して同時に安堵の息を漏らした。脱力したシェーラがこちらに身体を預けてくるが、すぐにハッとしてアリスから距離を取った。


「シェーラ、聞いてほしい。あれはマリアさんに無理矢理迫られたんだ」


「でも、抵抗していなかったわ」


「できなかったんだ。なぜかはわからないけど」


 そうだ。今にして思えば不思議だった。いくらあのシチュエーションに慣れていないとはいえ、拒むことはできたはずだ。現に、シェーラを追いかけるときにはマリアを退かすことができたのだから。


「薬かなにかかな……」


「ふーん」


 訝しむ表情で見つめてくるシェーラに、アリスは肩をすくめて見せた。


「とにかく僕はマリアさんとそういうことをするつもりはない。シェーラが言ったとおり大切な仕事中なんだからね」


「仕事中じゃなければ?」


「同じだよ。好きでもないし」


「そう」


 その声は心なしかちょっぴり嬉しそうで、アリスは首を傾げた。理由を尋ねようとすると彼女は慌てた様子で咳払いをする。


「疲れたし、帰りましょ」


「歩ける?」


 頷いて立ち上がりかけたシェーラだが、すとんと地面に腰を下ろした。ふるふると首を横に振って、上目遣いで見上げてくる。


「腰が抜けちゃったみたい」


「え、今立ち上がって――」


「は、早くしないと悪魔が戻ってくるかもしれないわ!」


 狼狽した様子を怪訝に思いつつ、彼女の言うことはその通りなので追求を止めた。


 背負うと胸が当たって落ち着かなくなることは学んでいるので、抱っこすることにした。もちろん、お姫様抱っこの方だ。やはり顔が近すぎて落ち着かないが、背負うよりもはるかにマシだった。


「シェーラ、力を抜いて」


「そ、そんなことを言われても……」


 シェーラの身体はガチガチに固まっていて非常に抱えづらい。しかもできるだけアリスから離れようとしているようで、普通のお姫様抱っこよりも形が歪になった。そのせいで歩くことすら辛い。


「シェーラ、動かないで」


「…………ん」


 ようやく観念したようで彼女が身を委ねてくれた。顔を背けているため表情は窺い知れないが、髪の隙間から覗く可愛らしい耳が真っ赤に染まっている気がした。それを見てしまったせいでアリスは彼女を抱える腕の感覚を妙に意識してしまう。


「アリス、痛いわ」


「ご、ごめん……」


 意識しまいとすると逆に意識してしまって、力の加減がわからなくなる。もう少し弱めるべきか。だがそうすると彼女の身体が腕から滑り落ちてしまう気がして怖い。


 また力を込めすぎてしまったようで、シェーラがアリスを一瞥する。不満げな眼差しは、しかし熱を帯びていて、そのせいでアリスの感覚はどんどん狂っていく。


 無事に家までたどり着いた頃には、身体中が凝り固まって痛みが走るくらいだった。


 ようやく解放されると安堵の息を漏らしながら彼女を降ろそうとするも、首に回された腕は解かれない。むしろしがみつくように力が強まった。


「……部屋まで」


 拗ねたような声が甘えているようにも聞こえて、心臓が跳ねる。自分の脈動がうるさくて、もしも今敵に近づかれても気づけないだろう。理性が警鐘を鳴らすのに、身体はまったく言うことを聞かない。


 また逃げられても困るという言い訳を思いついて、アリスは仕方がないと自身に言い聞かせる。


 家に入ると、マリアが気まずそうな表情で立っていた。彼女の纏う儚げな雰囲気のせいで怒りの感情が萎えていく。


「よかった。ごめん、私……」


「すみません。今は……」


 マリアは目を逸らして小さく頷いた。


 そのまま二階へ向かおうとすると、「待って」とシェーラが言う。


「どうしてあんなことをしたのですか?」


 キツい口調だった。先ほどまでの印象とは打って変わって、氷のように冷気を帯びた怒りが言葉の節々から漏れている。


 マリアは一瞬たじろいでから、泣き出しそうな表情で俯いた。


「昼間の処刑を思い出したら、怖くて、それで……。本当に、ごめん、なさい。馬鹿なことをしたと思ってる」


「変な薬を使ったのですか?」


「……そういう気分にさせる香水を」


 やはりそうかとアリスは安堵した。状況に流されて誰とでも行為に至るなんて、自分の節操のなさに失望するところだった。


「二度としないでください」


「ええ、もちろん」


 絶対にですよ、と念押ししてシェーラは顔を背けた。


 シェーラの部屋に戻り、彼女をベッドの上に横たえる。


「ありがとう、シェーラ。それとごめん」


「別にアリスが謝ることじゃないわ。それに、私も悪かったと思うし……」


「そうだね」


「やっぱり反省して!」


 素直に頷いただけなのに裏目に出てしまったようだ。


 膨れっ面の彼女に布団をかけてあげて、自室に戻ろうとする。すると袖を引っ張られた。指を引っかける程度の弱々しい力だったから、アリスはその指が外れないようにすぐに立ち止まる。


「どうかした?」


「今日はここで寝て」


「いや、それはさすがに」


「……わ、私のことを、お、襲ってしまうから?」


「それはない」


「なんでよ!」


 シェーラは自分で出した大きな声に驚いて口を押さえる。


「もう香水の効果は切れてるみたいだから」


「なら別に、ここで寝ても大丈夫よね?」


「マリアさんは反省してたし、もうあんなことには……」


 シェーラの瞳が不安に揺れる。袖にかかる指が少しだけ震えていた。


 アリスはハッとする。シェーラはつい先ほど死にかけたのだ。恐怖が抜けきっていなくて当然だ。何度も死地を経てきた自分とは違い、彼女は一般人。数回経験したところで慣れるわけもない。


「わかったよ。その代わり僕は床で寝るから」


「あ、当たり前じゃない!」


 シェーラは顔を真っ赤にして、布団を被って壁側を向いた。


 少し残念そうな声色に聞こえて、けれどそれは自分の願望に違いないとアリスは自制する。治まることのない熱も、あり得るはずのない妄想も、胸を締めつけるような甘い痛みも、きっとすべて香水のせいだ。


 アリスは扉に背中を押しつけて瞼を閉じる。手の届かない距離にいるはずなのに、腕には彼女に触れた感覚が蘇る。


 どれだけ数字を数えても、その幻想が消えることがなかった。

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