第2話 生け贄の少女

 起き上がると、そこは粗末なベッドの上だった。汗をたっぷりと含んだ寝間着が肌に張りついて気持ちが悪い。


 嫌な夢だった。最近ではあまり見なくなっていたが、だからこそダメージが大きい。


 大きく息を吐いて気持ちを切り替える。もたもたしている時間はない。


 身支度を調え、硬いパンを千切って口へ放り込む。口の中でふやかさないと歯が折れかねないので、腹を満たすまでに時間がかかる。どうせ一ヶ月ほど家を空けるからと買い物をサボっていたツケが回ってきた。


 今日から運び屋の仕事が始まる。魔物や獣を狩るのとはわけが違う。まさしく命がけであり、とても憂鬱な仕事だった。今すぐに投げ出したいが、そうするとこの街――王都レイストリアが消滅してしまう。


 責任重大な仕事を請け負ってしまった後悔をパンと一緒に飲み込んで、アリスは家を出た。


 三年間使い続けている馬車を走らせ、みすぼらしい家の前で止まる。どの家も見た目は大差ない。王都というフレーズから想起される煌びやかな雰囲気は一切ない。


 少なくとも人間が住んでいる区域は。


 ノックすると扉がすぐに開いた。中から顔を出したのは中年の男。苦労の滲み出た表情をしており、瞳には生気がない。


 アリスは彼を見て何も言わなかった。いつものことだからだ。悪魔に選ばれてしまった不運を毎日呪っていたのだろう。


 こちらに手を出してこないのはありがたかった。力ずくで奪っていくのはさすがに気が引ける。


 中にはいきなり襲いかかってくる者もいる。行き場のない怒りを発散させるのに、運び屋はちょうどいい相手だ。


「引き取りに来ました」


 何をとは言わない。明言すれば彼の心をますます抉ることになるだろうから。


 男はうつむき加減で背後に顔を向ける。


 促されて出てきたのは、息をのむほど美しい少女だった。薄い金色の長髪。同色の綺麗な瞳。頭のてっぺんに跳ねるアホ毛が愛らしさを上乗せする。


 なるほどとアリスは心中で唸った。これは王都を治める悪魔が見逃すはずがない。魔王への最高の献上品となる。おそらくはこの年齢になるまで取って置いたのだろう。


「別れは済んでいますか。まだなら――」


「大丈夫です。……今までお世話になりました。それでは行って参ります」


 彼女は凛とした表情で歩き出し、馬車の荷台に乗り込んだ。


 その背中を唖然とした表情で眺める。意外だった。いつもなら娘の方が泣き出して出発がもたつく。


「どうか、どうか、あの娘を……」


 涙を流す男に、アリスは何も応えなかった。どんな言葉を並べても彼の救いにはなり得ない。娘の命はこの街のしばしの平穏のために捧げられるのだから。


 アリスは御者席に乗り込み馬を走らせる。すぐに周囲の家々から侮蔑の込められた視線を感じた。これもいつものことだ。


 魔王へ生娘を届ける――それが運び屋の仕事だ。


 悪魔に弾圧されながら生きる人々にとって運び屋は裏切り者のように映るだろう。否定はしない。実際、運び屋というだけで街での生活や安全は保証されている。


 人間が悪魔に負けてから三年。魔王は気まぐれで美しい生娘を献上せよと命を出す。人が住むすべての街が対象で、期日は一ヶ月。その期間内に魔王城へ献上品を届けなければならない。


 もし届けることができなかったなら――その街は消滅する。例外はない。そして消滅させられるのは人間だけではない。悪魔も同様だ。だから運び屋は人間だけでなく悪魔にとっても重要な存在だった。


 運び屋となれるのは人間だけ。魔王がそう決めた。


 悪魔であれば容易に届けることができる。しかし脆弱な人間は違う。多くの危険が待ち受けている街の外の世界を、少女を守りながら進まなければならない。当然、命を落とす危険は高まる。


 おそらく魔王はそれを楽しんでいるのだ。魔王にとって人間など玩具に過ぎない。その命は道端に転がる石ころのように軽い。


 街と外を繋ぐ門へたどり着いた。街の外周は高い壁に囲まれており、まるで檻のようだ。外に出るためには必ず門を通らなければならない。門番は悪魔が務めている。人間は限られた者しか出入りが許されておらず、運び屋はその一つだ。


 左手の甲に刻まれた印を見せる。魔王印と呼ばれるもので、これが運び屋の証となる。献上品の少女にも似たような印が刻まれており、偽造は不可能。そのため、献上品に選ばれたら最後、身代わりを立てることは叶わない。


『必ず届けろよ、人間。しくったら殺すからな』


 二足で立っている赤目の鳥頭が言った。人間と違って悪魔は様々な姿形をしている。


「安心して。そのときはお前も死んでるから」


『相変わらず生意気な奴だ。運び屋でなければ食い殺してやるのに』


「それは怖いね」


 いつものように軽口を飛ばして門を通り抜ける。少しだけ息苦しさが治まった。悪魔に支配された街中とは違って外には多少の自由がある。


 街から少し離れたところでアリスは荷台に声を掛けた。


「これからルールを話すから、よく聞い――」


「あなた、魔王の仲間なの?」


 少女の声には明確な敵意が込められていた。アリスは悪魔に聞かれずに済んだことを安堵する。


「どうしてそうなるの?」


「だって、悪魔と親しそうに話していたわ」


「何度も顔を合わせてればああなるよ」


 事実、先ほどの悪魔と付き合いはない。親しくなりたいとも思わない。悪魔は敵だ。しかし、敵と言えど戦いの場以外ではうまく折り合いをつける必要がある。無駄に死に急ぐことはない。


 そういうものかしら、と少女は呟く。とりあえずは納得して貰えたようだ。


「それじゃあルールを――」


「あなた、名前は?」


「ねえ、わざとやってる?」


 半目で睨むと、彼女は小首を傾げた。


「私はシェーラっていうの」


「……アリス」


 調子が狂う。


「アリス……アリスね。短い間だけれど、よろしくね」


 そう言ってシェーラはこちらに手を差し出してきた。突然のことに呆然としていると、シェーラが眉根を寄せる。


「握手よ。知らないの?」


「いや、知ってるけど……。シェーラは変わってるね」


 彼女はこれから死に向かって進んでいく。普通の少女であれば嘆き、苦しみ、憎悪するだろう。馬車の荷台で膝を抱え、塞ぎ込んでいるのが当たり前。


 だが、シェーラは献上品に選ばれた少女とは到底思えないほど明るかった。

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