あぶくの王子

 ぼくは小さいころから体を洗うとき石けんがあまり泡立たない体質で、両親からは「体あぶらっこいから、2回くらい洗わないとだめだよ」と言われていた。彼女が頭を洗ってくれたとき、たぶんあんまり泡立たないよと言ったら「そう? めっちゃ立ってるけど」と鏡を見せてくれた。頭の上には泡がモコモコ積み重なっていた。鏡には彼女の胸も写っていたので、ぼくは彼女の胸を触った。彼女はふざけて泡をぼくの耳になすりつけた。


 彼女は一人でドリブルの練習をしているとき、ボールをドブに落としてしまったことがあるという。彼女がドブをのぞき込むと、そこは思いのほか深くて暗く、ボールは見えなかったそうだ。あきらめたわけでもないが、ボールをどうしたらいいかわからずしゃがみこんでいると、あぶくがモコモコ盛り上がってきて、ボールを押し返してくれた、と彼女は話した。それ以来、あぶくは彼女の友達になった。


 この話はうそだと思う。彼女は友達がいないから、寂しくて泡を友達に見立てたんじゃないかな。

 

 彼女はあぶくにいろんな話をした。男子に靴を隠されたこと、辞書の卑猥な単語に赤い線を引かれたこと、教科書に落書きされたこと。やつらを殺したいと言いながら、彼女はあぶくをなぞって自分に嫌なことをしてきた男子の名前を書いた。あぶくは少しの間その形を留め、しばらくするとブクブクいって割れて消えていった。


 彼女は自分の誕生日に、あぶくをなぞって「ハッピーバースデイ」と書いた。あぶくはそのときはっきり、偶然ではない動きではっきりうなずいた。あぶくはブクブクいうだけでなく、言葉をしゃべろうとしていると彼女が気づいたのはその時だった。


 彼女はあぶくを家に持って帰ることにした。彼女がいじめられていることは、先生も両親も知らない秘密だ。あぶくが言葉を理解できる以上、今まで話してきた秘密をいつ、だれに暴露されるかわかったものではない。ニスを流し込むとあぶくは固まり、手で持ちあげても壊れなかった。


 あぶくは言った。「私はあなたの願いをすべて叶えてあげます。そのかわり、あなたのスプーンであなたのごはんと同じものを私に食べさせてください。そうして、私と一緒にお風呂に入り、一緒のベッドで寝かせて、それから優しくキスをしてください」


 彼女は言われた通りにした。翌朝、ベッドで目覚めるとあぶくは消えていた。


 彼女のお母さんは言った。ベッドにあった変なゴミ、捨てといたよ。彼女はそれを聞いても泣かなかった。


 夏休みがあけた日、彼女は自分に嫌なことをしてきた男子が川遊び中の事故で死んだと聞いた。


 死んだ男子と入れ替わるように、ぼくは彼女の学校に転校してきた。彼女はぼくをあぶくの王子だと思い込んだ。おとぎ話の世界では、魔法で別の姿に変えられてしまった王子様は、いつだってヒロインのキスで元の姿に戻るのだ。


 彼女は両親のいない日を見はからって、ぼくを家に招くと、ぼくにごはんを食べさせ、お風呂に入れ、一緒にベッドに入り、キスをした。


 そして彼女は、もう一人、殺してほしいやつがいるの、とぼくに言った。


 ぼくはうなずき、彼女をいじめていたやつを包丁で何度も刺して殺した。


 それで、ぼくは医療少年院に入ることになった。彼女の前からぼくは消えた。でもなにも問題はない。泡は消えたり流れたりするが、いつでも彼女のそばにいる。もしまた彼女がいじめられることがあれば、またべつの泡が彼女を守るだろう。

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