私達の決断

「菜乃、私達引退しよう」


 今年の四月、突然かかってきた電話越しに、私にそう告げたのはキャプテンの紗夜だった。


 インターハイ中止。そのニュースを耳にしたとき、頭が真っ白になった。咄嗟に、嘘だと思った。誰かがスマホの画面にイタズラしたんじゃないか。手の込んだドッキリなんじゃないか。そんなことはありえないのに、バカみたいにその可能性を信じていた。


 インターハイ中止が発表された日の夜、三年生四人だけでリモート通話をしている時ですら、私はまだ現実を受け入れられていなかった。


 三年間、目標にしてきた大会が消えた。大会自体が消えるなんてそんなの前代未聞で、すぐに受け入れろと言うほうが存外無理な話だと思う。


 ぽつり、ぽつりと言葉を交わすうちに画面越しに泣き声が聞こえて、それに続くように一人、また一人と声が重なって、気づけば私以外の三人は号泣していた。ひっく、ひっく、という、嗚咽と鼻をすする音だけで満たされた時間が続く。


 一方、私はというと、まるで夢の中にいるように体と意識とが思うように連動していなかった。状況も受け入れられないまま、ただスマホの画面を呆然と眺めていた。


 そのうち、私の意識外で三人につられるようにして、乾いた涙が一滴私の頬を伝っていった。自分の視界がぼやけていることに気づいた瞬間にようやく、これが紛れもない現実なのだと受け入れざるを得なかった。


 絶望のどん底に叩き落とされる感覚。悔しさよりも、悲しさよりも、真っ先に体を駆け巡ったのは得体の知れない黒い感情だった。生きる源を奪われ、光は闇に呑まれて、あまりの胸の苦しさに嘔吐しそうだった。


 胸が痛い。心臓を誰かに掴まれ、押し潰されて、そのまま世界から消えてしまいそうだった。


「うっ、うっ、」


 三人が目の前にいることも忘れて、慟哭した。後から後からとめどなく溢れる涙は止まるところを知らない。涙が伝った頬が焼けるように熱い。手の甲にできる水溜りから熱が引いていくことはなかった。

 その日はその後、何を話してどう解散したのかよく覚えていない。散々泣いて、気づいたときには次の日の朝、パンパンに腫れた目を持つ自分がいた。


 そして、紗夜から引退を持ちかけられたのは、その一週間後のことだった。


「なんで? やだよ」


 私は引退に反対だった。何を突然言い出すのだ。インターハイがなくなったからって、こんなに早く引退しようだなんて。


「やだって言っても、インハイは中止なんだよ」


 声を荒げる私とは対照的に、努めて感情的にならないように、紗夜が淡々と告げているのが分かった。


「そんなの、春高まで残ればいいだけじゃん」


 私は引かなかった。私たちにはまだ一つだけ望みがあった。それは、一月に開催される「春の高校バレー全日本バレーボール高等学校選手権大会」、通称「春高バレー」の存在だった。


 まだ諦めたくなんてない。私たちの集大成も何も発揮できていない。インターハイは無理でも、春高予選を勝ち上がれれば全国で戦える。テレビの向こうにいたあの人達のようになれる。それが私の心の支えで、次に掲げようとしていた目標だった。


「春高まで残って、それで推薦で大学にいくの?」


 凛とした紗夜の声が、私の耳をつんざいた。


 大学受験。突きつけられたカードが、私の胸を抉る。言い淀んでしまった私に、紗夜は尚も冷静に次の言葉を続けた。


「後輩のためにも、自分達のためにも、ここで引退するべきだと思う」


 春高で全国大会に行ったところで、推薦で大学に行ってやっていけるほど私に才能はない。そんなの、自分が一番知っている。それなのに、春高が開催される一月まで残るということは、受験勉強を捨てるも同然の選択だった。


「でも、」


 分かっていた。少しでも考えれば、春高まで残ることがどれほど無謀なことか、容易に想像がついた。それでも、ここで引退すれば三年間の、私のバレー人生の全てが無駄になる。そんなの、私には耐え難かった。


「そりゃあ私だって残れるなら残りたいよ」


 ——そんなの当たり前じゃん。


 さっきまで無機質だった紗夜の声が、急に荒々しくなった。魂が叫んだ、紗夜の本音。その声は辛さも孕ませていた。


「でも、でもさ、亜紀や遥は国公立狙ってるし、次のチームの方が強いのは目に見えてるから」


 次の代のチームの方が選手一人一人のポテンシャルが高く、総合力で見ても私たちの代のチームより強くなるのは一目瞭然だった。


「二人とは引退する方向で話し合って、後は菜乃だけ。菜乃への説得は私が任されたの。勝手に話し合って、ごめん」


 出す言葉が、なかった。


 私抜きで話し合ったことに怒ってるんじゃない。本当は三人とも、思うところがあったはずだ。ずっと四人でやってきたから、みんなの気持ちは手にとるように分かる。私の性格を、三人が一番分かってるからこその判断。


 現実から目を背けようとする私よりも、みんなはずっとずっと大人だった。


「菜乃」


 私の名前を呼ぶ紗夜も、苦しそうだ。苦しいのは、悔しいのは私だけなんかじゃない。みんな同じなんだ。私の説得を頼まれた紗夜の声越しに、二人分の気持ちも乗っているのを感じた。


 バレーが好きだという気持ちのままに選択を下せない葛藤、もがき、苦しみ。


「チームのためを思えば引退した方がいいんだと思うよ、けど、けどさ、私は……。紗夜と亜紀と遥と、今のチームで、みんなで戦いたい」


 声が震え出して、うわずって、私の中の一番の想いはぐちゃぐちゃになった涙と共に口から出ていった。


「うん。私も、私たちも」


 一年の時は弱小で、二回戦負け。二年生になって強くなって、それでも準決勝で王者に負けた。私達のチームになってやっと、新人戦、優勝。


 頑張ってきた。誰よりも、どこのチームよりも。優勝して、全国に行って、勝つことしか考えていなかった。このチームで、この仲間となら夢を——ううん、叶えられたのに。


「なんで、中止なのよ。なんで、今年なのよ。ふざっけんな」


 なのに。


 またこぼれ落ちた熱い涙。決壊したダムのように、涙は次々に押し流されては床へ落ちていく。何かに当たりたいのに、この悔しさとやるせなさをぶつけられる相手がいない。それが余計に私たちを苦しめる。


 同時に湧き上がる怒りのエネルギーは終着点もなく、身体中を駆け巡っていく。脈々と体内を旅する血液が熱く燃え上がり、どくどくと大きな音を立てていた。


 ––––インハイのコートで全国の強豪と戦うってどんな感じなんだろう。きっと楽しくて楽しくて仕方ないだろうって。こんなプレーがしたい、あんな戦術も試してみたいねって、部室で何度も話したよね。


 信じて疑わなかった。今年は絶対私達があそこに立つんだって。


「引退、しなきゃ、いけないよね」


 普通の公立高校で、進学校の私たちに選ぶ権利は最初からなかった。分かっていたのに、受け入れたくなかった。弱い自分が、見ないふりをしていただけ。


「したくないね」


 泣きながら、震える紗夜の口から溢れたのは、私に提案したのとは真反対の言葉で。


「うん。……でも、受け入れるしか、ないんだね」


 人は、バレーに対する意識が低いというかもしれない。気持ちが足りないと、言うかもしれない。続けた先に見える景色は必ずあって、ここで辞める選択をした私達に見えた景色は所詮、県優勝程度。


 だけど、そんなこと言わせないよ。私達がどれほどの思いでやってきたか、どれほどこの決断を下したくなかったか、目指してきたものがなくなるってどんな気持ちか。……それは、私達四人にしか分からないんだから。

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