第15話「エウロパ脳症」

「これからお話しすることは、内閣官房感染症調査委員会CICIの収集した感染症に関するデータベースに記録されている情報です。CICIの検閲官だけがアクセスできるデータベースで、その情報は玉石混交、確度の低い情報も混じっていることも覚えておいてください。でも、エウロパ脳症に関する限り、ある程度の信用度は確保されていると考えています……」

 しゃべっていると落ち着くのか岡嶋は次第に落ち着いてゆき、いかにも官僚らしい口調で話しはじめた。




 わたしと恵理は、わたしがまだ医大の学生だった頃に知り合いました。彼女は医大で基礎医学講義の講師をしており、わたしはその受講生だったんです。知り合ってすぐに付き合いはじめ、卒業と同時に結婚しました。

 そのころにはもう恵理はJAXAの宇宙飛行士に内定していて大学を辞めていました。彼女が宇宙飛行士を目指していたとは、わたしも意外でしたが、言い出したらきかない人ですし、反対するもなにもなかったですね。卒業後、わたしは外資系製薬会社に研究員として就職しました。感染症に対するワクチンの基礎研究がわたしの仕事でした。

 恵理がエウロパへ向けて飛び立ったあとしばらくした頃、わたしは自分の仕事が単なる製薬会社の研究員ではないことに気づきました。配属された研究室自体、CICIの分室を兼ねていたのです。政府機関による民間製薬会社に対するスパイ活動に知らぬ間に加担していたのです。

 ええ、いいたいことはよく分かります。分かっているつもりです。ただ……。

 気づいたときはもう遅くて、わたしは大手製薬会社の研究員と、CICIの検閲官との身分を使い分ける二重生活を続けざるを得なくなっていました。表向きのわたしは、製薬会社でワクチン開発の基礎研究をしていましたが、裏では検閲官として研究成果とそのために収集した情報をCICIにリークしていたのです。

 わたしはあらゆる感染症に関する情報に接することができますが、エウロパ脳症に関して知り得る記録は、あまり多くありません。ほとんどの記録はEUのダロス基地での放射能漏れ事故とこれに付随する報告書の中に断片的に見られるもののほか、木星圏探査計画「ピタゴラス」と「アルキメデス」に携わった関係者の証言によって構成されているからです。

 EUのダロス基地にエウロパ脳症が広まった当初、これが感染症だと気付く者はありませんでした。この病気には、風邪をひいたら咳が出るといったような、外形的症状に乏しいからです。

 エウロパ脳症は、まず認知障害という形で発現します。認知障害というのは、脳が外界の情報を正確に受けとることができなくなっている状態をいいます。認知障害が起こると幻視、幻聴といった認知の歪みや記憶の欠落が生じ、発症した人は、いままでどおりの生活を送ることが困難になります。

 年をとると認知症を発症する方がいますよね。まさに、エウロパ脳症はなんらかの病原体によって引き起こされるといっていい病態の感染症です。

 ただ、認知症と異なり、エウロパ脳症の症状は極めて急速に進行します。認知症が数年から十数年をかけてゆっくり進行してゆくのに対し、エウロパ脳症は、発症してから数週間、場合によっては数日の間に急激に進行し、最終的には患者の脳機能を停止させるに至ります。

 そして、認知症との決定的な違いは、この病気が人から人へ感染する病気だということです。


 最初に異状があらわれたのが、「ピタゴラス」の乗組員クルーのふたりでした。治療の甲斐もなく、ふたりは亡くなります。それに前後して「アルキメデス」の乗組員も異状を訴えるようになり、ダロス基地は事態の異様さに気づきました。治療とともに徹底的な検査が行われましたが、脳に極めて軽度の炎症が見られたほか、乗組員の身体データに異状はありませんでした。やがて「アルキメデス」の乗組員も亡くなりました。

 相次いで、木星探査計画に携わった宇宙飛行士が亡くなったことから「ユピテルの呪い」だの、主な目的地だった衛星の名を捉えて「エウロパ脳症」だのと呼ばれ出したのがこの頃です。

 しかし、その直後、基地の医師を兼任していたふたりの宇宙飛行士が同様の症状を示し、任務ミッションの遂行能力を失うと、ダロス基地をパニックが襲いました。「エウロパ脳症」が感染症であることが明らかになった上に、専門の医学的知識を持った宇宙飛行士を失ったからです。

 月面基地という閉鎖空間に未知の感染症とともに閉じ込められた宇宙飛行士の感じた恐怖は、言葉に尽くしがたいものがあるようです。結局、ダロス基地は放射能漏れ事故の影響を理由に、放棄されることとなりますが、それまでの40日間で20名の宇宙飛行士が感染し、全員が死亡するという結果となりました。

 EUと欧州宇宙機関ESAは、この事実を隠蔽。公式に「エウロパ脳症」という感染症について言及した資料は存在しません。

 

 もちろん、わたしもこのことを知ったのは最近です。そして、昨日までは「エウロパ脳症」が真実の感染症とは考えていませんでした。昨夜、妻が倒れたと連絡があるまでは。

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