第56話:価値観に唯一はない
師匠が口を閉ざして、マルムさんも無言で。沈黙の時間が、しばらく続いた。
事実は露見したのだ。見事な手腕で、安全な町を作ったのに。さらなる功績を求めて、獣化の病を広め。その対応に腐心するという自作自演。
冷徹とも言えるやり方を価値観の相違としても、そこだけは悪意以外の何物でもない。
「院……院長、さま?」
理解はしているはず。けれどもわけが分からないという風に、レティさんは声を震わせた。
両の頬に手を触れて、ときに吐き気を堪えるように口を押さえる。
「こ、これは何かの。私の聞き間違いですよね。町の人々を苦しめた獣化の病を、院長さまが企てたなんて」
死の病に冒されて、それをも利用した嘘に踊らされたレティさん。
絶望から救ってくれた、マルムさんを失ったとき。彼女はいったい、どうなってしまうのか。
まさに今。そんなことはなかろうと、否定を求めている。いつもの凛々しい表情は消えて、知らない街へ放り出された迷子みたいに。
「……だから言ったじゃないか。私を過信するなと」
「院長さまっ!」
愕然と。悲鳴を上げたレティさんは、その場に倒れ込んだ。石畳に顔を擦り、視線はあらぬ一点を向く。
放心した様子の彼女に、マルムさんは取り合わない。けれども裾をつかむ手を、払い除けることはしなかった。
「人は死ぬ。年に数百人も死ぬものを、私は限りなくゼロに近付けた。しかしそれでは、先がない。だから私の操作が利く苦難を用意した。誓って、私利私欲ではなかった。私が高く登れば、この町も大きくなれるのだ」
僕も師匠も、ホリィとも。マルムさんは目を合わせずに言った。
かといって独り言でもないように思う。強いて言うなら、街そのものと話したのかもしれない。
「だが。悪と言われてしまえば、そうだ。正道のみでとは、ただ街を御すのも一筋縄でないが、な」
川面を撫でる風に、その声はよく通った。いつもの柔らかい、ふわっとしたそれとは違う。ちょっと硬いくらいに、引き締まっている。
マルムさんはまだもう少し、街を眺めた。気紛れに、風がひゅうっと三度も鳴ったころ、ようやくこちらを向く。
ホリィに。即ち天使さまに、両手の拳を重ねて見せる。それが至高神を崇める教会の、祈りの形だ。
「どこへ行くんです?」
立ち上がり、去ろうとした彼に声をかけたのは僕だ。逃げ隠れする心配はしていない。言葉通りの意味で聞いた。
「知れたこと。事の次第を、教会へ報告に向かう。書面で済むことではないからね」
「そのあとは?」
「そのあとなど――いや。どこか山奥ででも、自身を見つめ直すのがいいかもしれないね」
北の門を向いて、マルムさんは僕を見ない。言いかけたのはきっと「そのあとなどない」だ。死罪とか、そういう重い罰が待っているのだろう。
「僕はあなたが、何もかも間違っているとは言いません。確実に指摘できるのは、一つだけです」
「ほう? ヒーラーの件とは別にかな」
背中越しに、視線の端が僅か見えた。たぶんもう、またいつものように微笑んでいる。
「たぶん同じですよ。あなたのやったことが悪でも、それ自体は問題じゃありません」
「興味深いね。それで?」
「いい待遇なんかでごまかさずに、悪事に巻き込むべきだった。この町を豊かにするには、どんな悪さをすればいいか。みんなで決めるべきだった」
知らないうちに事が済んで、知らないうちに信頼する人が消えている。僕がこの町の住人なら、それは嫌だ。
もしもここが、旅人を襲う追い剥ぎの町になったとしても。自分も納得したならそれでいい。
それはそれで、僕の勝手な意見だけど。他の人がどう思うかなんて、一人ずつ聞いてみないと分かりはしない。
「良くないのは、私の独断だけだと?」
「それはあなたの決めつけで、押し付けですから」
あははっ。と至極、愉しそうに彼は笑う。けど、身体ごとこちらを向いたときには、真顔だった。
「治癒術師が悪人とは、聞く耳を持つべきだったかもしれないね」
「そうかもしれません」
にやと口許を歪め、マルムさんはレティさんを引き起こした。「着いてくるか?」と小さく問えば、彼女は呆けたまま何度も頷く。
「では今度こそ行くとしよう。ダレンに伝えておいてくれ、メナは夫にしか興味がないとね」
種明かしに、指輪が示される。腰の抜けたレティさんを抱えて、マルムさんは門に向かう。
「レティ、しっかり歩かないか」
ゆっくりと。下手くそな二人三脚のように、二人は歩いていった。
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