1-2 隣人

 へとへとになった体を引きずってアパートに帰ってきた時には、既にとっぷりと日が暮れていた。現在時刻は一八時。

 とにかく早くシャワーを浴びて着替えて明日の分も合わせて米を炊いて、それと今日は買い物が必要で……とと疲れ切った頭で考えながらアパートの敷地に足を踏み入れた時、ゴミ捨て場の前でコソコソとしている赤メッシュの人影と目があった。

 同じアパートの住人の尾花。職業はバンドマン。そして――――夜のうちにゴミ捨てをする常習犯。尾花はわざとらしい笑顔を浮かべて俺に向き直ると、後ろ手に持っていたビニール袋を集積所に放り込んだ。

「よ、今帰りかカラス」

「今捨てた袋を拾え。部屋に持ち帰って朝になってから出し直せ」

 怒気を込めて言うと、尾花は上っ面の笑顔を剥がしてあからさまに嫌そうな顔をした。

「チッ……別にいーだろ朝に出そうが夜に出そうが」

「良いわけがあるか。何度も言ってるだろうが、異臭の原因になるし虫は沸くし動物は荒らす。何もいいことがねーし自分一人くらいって思ってるお前みたいなのが市内に何百人といるから俺らが苦労をだな!」

「俺じゃねー奴の分までまとめて俺にぶつけんな! ったく、まーじでゴミのことになるとうるせーなお前。このカラスが」

「人のあだ名をさらに悪口に使うんじゃねーよ張っ倒すぞ」

 本当にコイツはロクなことをしない。尾花も『本当にコイツと出くわすと面倒なことしかない』と言わんばかりの顔をしている。被害者ぶるな。誰がその面倒を増やしていると思っている。

 苦々しげに俺を睨みつけていた尾花が、更にロクでもないことを思いついた表情になった。バンドマンの指が告げ口をする子供のようにアパートの上階を指す。

「じゃああれはいいのかよ。あの新入り、共用スペースにダンボール山積みにしてやがるんだけど」

「あ? 新入り?」

 ぐるりと視線を巡らして、俺はそれを見つけた。二階の奥側の角部屋――つまり俺の部屋の隣――の前に、空になったダンボールが畳まれて重なっている。

「……マジか」

 この時期に。このオンボロアパートに。俺の部屋の隣に。

 慄く俺に、尾花はまるで自分がサプライズの仕掛け人であるかのような笑顔を向ける。

「な、びっくりだよな。俺ちらっとみたんだけどさ、ヤベーんだよめっちゃV系みたいな見た目でさ!」

「千羽でV系!?」

 改めて二階の角部屋を見上げる。一体どういう奴なんだろう。せめて常識的に振る舞える奴であれば良いのだが。

 もし万が一尾花みたいな奴だったら、上手くやっていける気が全くしない。どちらかが出ていくまで喧嘩し続けなければいけないような相手だったらどうしよう。

「じゃ、俺これから路上だから!」

「あ、待て! おい!」

 俺が叫ぶのも虚しく、尾花は小走りで去っていってしまった。伸ばしかけた手をため息と共に下ろす。……幾ら夜の間にゴミを出されるのが腹立たしいからといって、わざわざ俺が世話を焼いてやる気にはなれない。明日このアパートの回収を担当する同僚に心の中でそっと手を合わせ、アパートの外階段を登っていく。

 しかし。

 住んでいる俺が言うのもなんだが、ここはかなりのボロアパートだ。サビだらけ黒ずみだらけ、断熱性はないに等しい上に隙間風が吹き込んでくる。不満を上げたらキリがない。

 住んでいる連中も、ミュージシャン志望やら売れない芸人やら、三ヶ月に一度程度しか姿を見ない大学生やら、とにかく何をやっているのか得体がしれない連中ばかりだ。ついでに言うと全員、ゴミを綺麗に分別して捨てるという習慣がまるでない。いくら指南しても「面倒くせー」「そうだったっけ」「同じようなものでしょ」と言って全然取り合おうとしない。

 断言してもいい。こんなアパートをわざわざ選ぶような奴が常識人であるはずがない。本当に一体、どんな奴が引っ越してきたのだろう。

 シャワーを浴びようとして作業着を脱ごうとしたその時、コンコンコン、と大人しいがはっきりしたノックの音がした。上着を脱ぎかけていた手をぴたりと止める。俺の部屋に来る客なんて、大抵は新聞か宗教の勧誘か何かの押し売り、または家賃の徴収だが――そのどれも、平日の日暮れには来ない。

 それなら誰か。急いで上着を着直し、チェーンをかけたまま扉を開ける。

「……はい」

「隣に引っ越してきた山瀬です。挨拶に来ました」

 爽やかな男の声で、そいつはそう名乗った。

 予想通りだが、予想外だった。まさか隣人が律儀に引っ越し挨拶に来るタイプの人間だったとは。これは常識レベルの高さにも期待が持てる。

 壁一つ隔てた場所に住むことになる男は一体どんなやつなのか。警戒心よりも好奇心が先立って、俺はチェーンを外して隣人の姿を見た。

 ――――芸能人か? というのが、そいつへの第一印象だった。

 染めているであろう金色の髪が、全く違和感なく似合う端正な顔立ち。女性的というよりはひたすら端正。目の色は猫を思わせる明るい茶色だ。もしかすると海外の血が入っているのかもしれない。それなら目線が俺よりも五センチばかり高いのも納得がいく。着ている服も引っ越し作業に丁度いいラフな服なのに、にじみ出る高級さが俺のジャージとは段違いだ。

 一体どうしてこんな千羽の果ての荒屋に、と思うような、派手なイケメンだった。

「山瀬、さん」

 あまりの衝撃に、機械のように相手の名前を繰り返す。顔面偏差値に気圧されただけじゃない。それだけだったらどれほどよかっただろうか。

 背中を冷たい汗が伝う。猛烈な既視感。こいつは――今朝の悪夢に見た金髪に、あまりにも存在感が似通っている。

 …………いやいやいやいや、まさかそんなこと。あの時の金髪の顔だって逆光気味ではっきりと見たわけではないわけだし。声だって……確かに受ける印象は似ているけれども、もう二年も前の記憶だ。そんなものどれほどアテになることか。

 俺が一人で疑心暗鬼になっていると、山瀬がにこりと微笑んだ。

「山瀬でいいよ、きっと歳も近いと思うし。名前を聞いてもいい?」

「……烏山です」

 内心の緊張と戦いながらやっとのことで声を絞り出す。

「烏山だね、これからよろしく。これ、心ばかりのものなんだけど」

「ご、ご丁寧にどうも……」

 差し出された紙袋を、手の震えに気付かれないように精一杯丁重に受け取る。

 砕けてはいるけれども丁寧な言葉。柔和な笑み。乱暴なところの一切ない所作。派手で圧倒されるような第一印象を超えた先にあるものは清楚さすら感じさせるのに――それは、口調と態度が柔らかなまま人様の側頭部を蹴り抜いた奴と妙に一致していて。

「このアパートって、他にはどんな人が住んでるの?」

「あー……なんか色々ですよ、変な大学生とか長距離トラックの運転手とか。さっき出てっちゃいましたけどバンドマンとか。なんだかんだ平日の夜に捕まえるのは難しい人ばかりなんですけど」

「結構個性的だね」

「あんたがそれを言うんですか」

「あはは、派手なのは自覚してるよ」

 彼が笑った拍子に、左耳がちらりと見える。黒いピアス。一つや二つじゃない。棒のような……初めて見るような奇妙な形状のピアスを含めて、無数の穴が開いている。

 ぶわり、と全身から嫌な汗が吹き出す。……決定的な証拠なんてどこにもない。そう、人違いかもしれない。金髪でイケメンでV系っぽくてゴツいピアスがたくさんなんて、この世に二人くらい。

「ちなみに山瀬さん……じゃなくて山瀬は何を……?」

「ただのフリーターだよ。アパートに住んでる人たちの中ではなんか存在感薄いよね」

「いや、俺も……ゴミ清掃のアルバイトなんで、全然薄いです」

「ふうん? そうは見えないけど……じゃ、一応他の部屋にも挨拶行ってみるね。お邪魔しました」

 最後にニコリと笑って、山瀬は踵を返した。束ねてあった長い後ろ髪が、遅れて翻る。

 ドアノブに手をかけたまま、俺はしばらく呆然として遠ざかっていく足音を聞いていた。隣の隣の二〇二号室の扉が叩かれる音で我に返り、慌ててノブを引いて震える手でチェーンをかける。

 一歩二歩とあとずさり、履きっぱなしだった突っかけに躓いて無様に尻もちをつく。心臓が耳元にあるかのようにばくばくと高鳴り、頭ががんがんと揺れる。

 …………あんなヤツが千羽に二人もいるはずがない。間違いない、あの日の金髪だ。

 どうして、こんなところにあいつが。なんのために。何か悪いことを考えて……狙いは俺か? まさか! 接点なんてあの日道端の石ころのように蹴られただけだ。現に山瀬は俺を見ても特に何のリアクションも――いや、山瀬の頭の中なんて考えても仕方がない。重要なのはこれからいつまでとも知れない間、山瀬が隣の部屋に住むことになるという事実だけだ。

 あちらが俺の顔を覚えていなければ万々歳、俺は普通のよき隣人として振る舞い続ければそれで住む。けれどももし、そうじゃなかったら? 最悪の場合、俺はこの部屋を去って逃げられるだろうか。頼れる相手はいない、引っ越し資金のアテだって――――。

 ――――はたと気がつく。

 どうして何も悪くない俺が、あんな半グレというのも烏滸がましいようなド不良のために住処を追われなければいけないのか。

 それこそ冗談じゃない。ボロくても狭くてもあちこちガタが来ていても、この部屋は俺の唯一の帰るべき場所だ。俺が身を退く道理なんてどこにもない。

 奴が何を思ってこんなところに引っ越してきたのかは知らないが、俺は俺の生活を絶対に曲げてやらない。大して楽しいことのある日常ではないが、それでも俺がどうにか勝ち取った真っ当な暮らしだ。

 何が何でも……あの悪魔みたいな男を前に、心を折ってやるものか。

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